部報解説・ 2007年3月2日 (金)
5号後半は千島、樺太の山行記録が特徴。樺太の山は、ソ連国境(北緯50度線)近い地味な山だが、当時の辺境の様子がわかって面白い。
部報5号(1935年)後半分
●シユンベツ川より滑若岳へ 水上定一
● 北千島 初見一雄
● 北樺太の山々
名好山 本野正一
樺太に関する文献表 水上定一
●知床半島の春 豊田春満
●三月の石狩川 石橋恭一郎
●創立前後の思出 渡邉千尚
●シユンベツ川より滑若岳へ 水上定一
1935年七月からの二〇日間、照井と水上の二人。シュンベツ川から遡りナメワッカを超えて札内川へ。シュンベツ川中流の、イドンナップ沢出会いからポンイドンナップ沢出会いまでは厳しいので、尾根を挟んで南側を並行して流れるペンケアブカサンベ沢を行き、尾根超えをしてチヤワンナイ沢に降りて本流に戻る。(この区間は今も林道が通らず、シュンベツ川上流へは、コイボク林道から尾根を超えてカシコツオマナイ沢経由で延びている。)驚くべきはこのルートの要所要所各沢の出会いには簡単な小屋がけがしてあり、岩魚釣り、砂金取り、マタギなどが工面しあって使っている。北大山岳部では前年にも2パーティーがナメワッカを登っているが、このパーティーは天気に恵まれず、停滞を重ね、イドンナップやカムエクのアタックを割愛してなんとか乗っ越した。乗っ越し前の四日間は「只一本の水筒の水と、すつかり黴が生え悪臭さへ発するパンに餓と渇を醫して来たのだから。」という苦労をしている。
● 北千島 初見一雄
1935年七月、函館から199トンの船で八日後、摺鉢湾に着く。島では二〇トンほどの発動機船で移動する。船上での見聞を思うさまと共に記述。最高峰アライトの登山記がある。苦労なく登り、山頂で歌を歌って帰ってきた。
アライトの漁場(夏だけやってくる漁師たちの番屋)で親切にしてくれる漁師の出身が南部と越中で、「『何もお構ひ出來なくて氣の毒ですちや』かふ云ふ越中辯が迎へて呉れたのは千倉の麓に在る西川の漁場だつた。」「雨に降り込められた劔澤の小屋では『明日も駄目ですちや』と八郎が首を振り乍ら云つたのが思ひ出されるし、槍の殺生小屋では遙る々々尾根通しにやつて來た平藏が『久しぶりですちや』と挨拶を殘して大股に槍澤を降つてゐつた、」この時代の山岳部は北千島にも出掛けるし、北アルプスにも出掛けていた。現代と違う交通事情を考えると驚くべき行動範囲だ。平蔵とは平蔵谷に名を残す芦峅寺の平蔵だ。占守島の国端崎まででかけ、カムチャツカの山を眺める。戦前、北千島の豊かな自然は日本の国内だった。10年後にはこの山々を失う事になろうとは。
尚、巻末の年報によれば、部報5号の二年間に千島を訪れたパーティーは他にも二つある。
・ ウルップ島1934夏、根本、石橋、千葉。地質調査の目的で訪れたので、登山は鐘湾のBCから赤崩川を遡行して地獄山(1013m)に登ったのみとある。
・ 国後島・ルルイ岳1935年7月、白濱、高橋。高山植物の採集を主目的に入山。体長を壊し、山頂手前で仕事を優先して引き返している。
● 北樺太の山々
名好山 本野正一
1935年8月、本野、水上の二名。前年秋には豊原(現ユジノサハリンスク)近郊の樺太最高峰、鈴谷岳(現・チェーホフ山)の記録もある。間宮海峡に面した旧恵須取(エストル・現ウグレゴルスク)から名好川を登り、名好山(東経142度30分、北緯49度10分・標高不明)をアタックする。小樽港からエストルまで直行便ながら船で足かけ三日。大平炭山への軽便鉄道で入山。造材の飯場、山奥に暮らす老人の小屋などを辿り、山頂へ。この年、測量隊が入っていて、山頂には櫓もあった。途中、熊の頭骨など広いながら下山、20年以上も山麓で暮らしている老人の小屋で熊と野菜の煮込み料理やジャコウジカの珍味を食べさせてもらう。「『話の種を食はしてやらう。』さう云つて、小さい肉片を持つてくる。よく身の締つた、上等のロースのやうな美味いものであつた。是はこの北の國にだけ住んでゐる麝香鹿の肉であつた。私達はその肉片を噛み緊め乍ら、自由にこの密林を駈け廻つてゐた臆病な獸の伸び切つた姿體を思ひ浮かべてゐた。」帰りは恵須取→来知志(ライチシカ)の湖→春内→自動車で東海岸の眞縫→落合の王子製紙の独身寮の先輩宅→豊原→大泊→稚内→陸路札幌と帰る。
樺太の一等二等の三角測量は1933年までに終わっているそうだが、三等三角点の測量をして始めて高度が判明するそうで、国境(北緯50度線)近いこともあり持参した空中写真測量要図(25000)の地形図の不確かな部分や間違い部分の考察をしている。彼らは陸軍測量部の最後の測量隊と相前後して登っていたことになる。10年後にはソ連に取られてしまうのだが。このため標高のわからぬ国境近くのこの山域には夢があり、敷香岳、恵須取岳周辺の、もしかしたら1700mを超える山があるかも知れないということで、名好岳を目指したとのこと。実際には1200-300mくらいのヤブ山だったが。訪れてみると意外や造材と狩猟者によってこの未知の山域は歩かれていたことを知る。札幌からの交通費一人当たり往復で29円40銭、と内訳など細かく書いてあるのが面白い。なお、「サハリン・モヂリは平原が起伏してゐるやうな山々」というアイヌ語なのだそうである。これまでロシア語だと思っていた。
樺太に関する文献表 水上定一
●知床半島の春 豊田春満
根室本線厚床から今は無き標津線で中標津へ、そこから乗り合い自動車で標津へ(鉄道はこの時代中標津までだったということだろう)、そこから定期自動車で羅臼へ。春の原野と海を叙情たっぷりに描いている。乗り合い自動車の様子、羅臼温泉の描写など詳しく面白い。羅臼の中腹から硫黄岳往復。三ツ峰の近くに美しい沼を見つける。雪の中に目のように開いた小さな沼。「それは丁度希望を蒼空に向けた青く澄んだ瞳の樣であつた。うれしくなると何時も子供の樣に無邪氣にはしやぎ出す瀬戸は、此時も感歎の聲をあげたのであつた。」雪解けの季節には稜線上にこんな沼がよくできる。この稜線で僕も5月に出会ったことがある。とてもきれいな色をしているのだ。
このときは、三ツ峰、サシルイ、オッカバケの地名がまだ無い。翌日羅臼岳をアタック、その夜の記述。「夜になると皎々と春とも思はれないばかりに冱えた月が、國後の方から昇つて來て晝のやうに明るくなり、此羅臼岳の斜面は幻想的な青白い光を放ち出した。空一杯に漲つた月光の無數の針は何か竒怪な曲でも奏してゐる樣に、四邊の景色も晝とは全く一變した幻想的なものとなつた。雪を照らす月の光は登山者の激しいワンデルトリーブをそゝらずには置かない。私達も誰からともなくスキーを穿いて此夢幻の世界へと歩き出したのであつた。妖精じみた影法師ともつれ合つて滑り廻つたり、いろんな山友達が籠城のテントの中で教へてくれた樣々な歌を口ずさみ乍らほつゝき歩いたり、或は梢だけ雪から出した嶽樺の間を縫つて尾根蔭の闇の中にこつそりとしのび込んでみたり、夢遊病者の樣な彷徨に夜の更けるのも忘れてゐた。天幕に歸つた時には焚き火はもう殆ど灰になりかけてゐた。一しきり新しい薪をくべ乍らしばらく二人で駄辯つて、それから天幕に入つたが、頭は天幕を明るく照らす月の樣に冱えてなかなか寢つかれなかつた。」この部報で一番好きな一節だ。
●三月の石狩川 石橋恭一郎
1935年3月上旬、石狩川本流から石狩岳を目指す。積雪期初登の伊藤秀五郎氏の記録から8年、その後結氷した大函を通過するパーティーはこれが初めて。この間林道(現・国道39号線)が延びたが、冬の可能性はナダレなどの要因はじめ未知だった。アイヌの猟師の足跡を追い行ってみるとこの林道が意外と使えた。
ユニ石狩沢の合流点(当時の林道終点)から奥へ進む。この一帯の石狩沢は渡渉できる幅ではないので右岸を行くか左岸を行くかで運命を分ける。「この日私達は右岸を選んだばかりに豫定地までに一泊を餘儀なくされた。」当時の核心は、大河の遡行だった。結局数本のドロ柳を倒して橋を架けて左岸を行く。ヤンペタップ合流の先にベースを設け、石狩岳をアタックするが、連日の吹雪に日数を使い果たし往路を下山する。前石狩沢からの登路、巨大なデブリを見る記述がある。当時のむき出しの野生が凄い。「突然行く手の眼界が開けて、私達は只々恐怖と畏敬とにおのゝいたのである、其處には立木一本も認められぬ小高い凹凸の雪の丘が行く手を塞いでゐた。一抱もある大木が根こそぎにもぎ取られ、打ち碎かれて、枯れた殘骸を露出して散亂し、或物は斜面に引かゝり、叉或物は逆につゝ立ち、横に縱に、深い積雪にも拘はらず首を突き出してゐる有樣は、實に凄慘な状態であつた。恐らく早春のデブリーであらう。石狩岳の山頂から北走する主稜の一角から、ひたむきに密林を薙倒して、五百米を一氣に澤に落込み、餘勢をかつて、對岸の急斜面を狂ひ昇つた其の物凄い光景を想像して、私達は互に顏を見合せるのみであつた。雪崩の蹟は見上げる山稜迄くつきりと一線を劃して、山稜は烈風に盛に雪煙を上げてゐる。」
●創立前後の思出 渡邉千尚
スキー部山班からの独立と恵迪寮旅行部からの創立10年を節目に、創立時新人だった渡邉氏による当時の活気あふれる様子を書いた小文。「時期至つて大正十五年十一月十日に發會式を擧げたがその前後の緊張振は大したものだつた。若手連は遮二無二山岳部創立に突進して、先輩連がスキー部との間に入つて、苦勞してゐることなどは少しも知らずに居つた。」「生の惱みを味はつた部員は頑固なものだつた。笑つて過ごしてしまふやうな事でも、互ひに讓らずに激論を鬪はすことが度々あつた。」「登山術は未熟でも、意氣は仲々壯んなものがあつた。慶應山岳部のアルバータ行に刺戟されて、我々もカムチャツカの最高峰クルチエフスカヤに登る計畫を立てゝ國際關係なども全然考慮に入れずに,叉我々が毎月もらふ學費を飮まず食はずに貯めたつてどうにもならないのに儉約して貯金しようなんて相談したこともあつた。」
やはり千島の先のカムチャッカに目を付けていた話がおもしろい。当時1920年代は日露戦争でカムチャッカ沿岸の漁業権を日本が獲得、国策会社「日魯漁業」が荒稼ぎしていた時代だ。日本人のこの地域への入り込みは、戦後冷戦期に較べればはるかに盛んだった。ただ、1924年まで続いたシベリア出兵(ロシア革命に対する干渉戦争)のため、恐らく登山許可の可能性が無かったのだろう。
年報(1933/10−1935/10)
写八点、スケッチ三点、地図五点
(解説前編/後編)
1935年七月からの二〇日間、照井と水上の二人。シュンベツ川から遡りナメワッカを超えて札内川へ。シュンベツ川中流の、イドンナップ沢出会いからポンイドンナップ沢出会いまでは厳しいので、尾根を挟んで南側を並行して流れるペンケアブカサンベ沢を行き、尾根超えをしてチヤワンナイ沢に降りて本流に戻る。(この区間は今も林道が通らず、シュンベツ川上流へは、コイボク林道から尾根を超えてカシコツオマナイ沢経由で延びている。)驚くべきはこのルートの要所要所各沢の出会いには簡単な小屋がけがしてあり、岩魚釣り、砂金取り、マタギなどが工面しあって使っている。北大山岳部では前年にも2パーティーがナメワッカを登っているが、このパーティーは天気に恵まれず、停滞を重ね、イドンナップやカムエクのアタックを割愛してなんとか乗っ越した。乗っ越し前の四日間は「只一本の水筒の水と、すつかり黴が生え悪臭さへ発するパンに餓と渇を醫して来たのだから。」という苦労をしている。
● 北千島 初見一雄
1935年七月、函館から199トンの船で八日後、摺鉢湾に着く。島では二〇トンほどの発動機船で移動する。船上での見聞を思うさまと共に記述。最高峰アライトの登山記がある。苦労なく登り、山頂で歌を歌って帰ってきた。
アライトの漁場(夏だけやってくる漁師たちの番屋)で親切にしてくれる漁師の出身が南部と越中で、「『何もお構ひ出來なくて氣の毒ですちや』かふ云ふ越中辯が迎へて呉れたのは千倉の麓に在る西川の漁場だつた。」「雨に降り込められた劔澤の小屋では『明日も駄目ですちや』と八郎が首を振り乍ら云つたのが思ひ出されるし、槍の殺生小屋では遙る々々尾根通しにやつて來た平藏が『久しぶりですちや』と挨拶を殘して大股に槍澤を降つてゐつた、」この時代の山岳部は北千島にも出掛けるし、北アルプスにも出掛けていた。現代と違う交通事情を考えると驚くべき行動範囲だ。平蔵とは平蔵谷に名を残す芦峅寺の平蔵だ。占守島の国端崎まででかけ、カムチャツカの山を眺める。戦前、北千島の豊かな自然は日本の国内だった。10年後にはこの山々を失う事になろうとは。
尚、巻末の年報によれば、部報5号の二年間に千島を訪れたパーティーは他にも二つある。
・ ウルップ島1934夏、根本、石橋、千葉。地質調査の目的で訪れたので、登山は鐘湾のBCから赤崩川を遡行して地獄山(1013m)に登ったのみとある。
・ 国後島・ルルイ岳1935年7月、白濱、高橋。高山植物の採集を主目的に入山。体長を壊し、山頂手前で仕事を優先して引き返している。
● 北樺太の山々
名好山 本野正一
1935年8月、本野、水上の二名。前年秋には豊原(現ユジノサハリンスク)近郊の樺太最高峰、鈴谷岳(現・チェーホフ山)の記録もある。間宮海峡に面した旧恵須取(エストル・現ウグレゴルスク)から名好川を登り、名好山(東経142度30分、北緯49度10分・標高不明)をアタックする。小樽港からエストルまで直行便ながら船で足かけ三日。大平炭山への軽便鉄道で入山。造材の飯場、山奥に暮らす老人の小屋などを辿り、山頂へ。この年、測量隊が入っていて、山頂には櫓もあった。途中、熊の頭骨など広いながら下山、20年以上も山麓で暮らしている老人の小屋で熊と野菜の煮込み料理やジャコウジカの珍味を食べさせてもらう。「『話の種を食はしてやらう。』さう云つて、小さい肉片を持つてくる。よく身の締つた、上等のロースのやうな美味いものであつた。是はこの北の國にだけ住んでゐる麝香鹿の肉であつた。私達はその肉片を噛み緊め乍ら、自由にこの密林を駈け廻つてゐた臆病な獸の伸び切つた姿體を思ひ浮かべてゐた。」帰りは恵須取→来知志(ライチシカ)の湖→春内→自動車で東海岸の眞縫→落合の王子製紙の独身寮の先輩宅→豊原→大泊→稚内→陸路札幌と帰る。
樺太の一等二等の三角測量は1933年までに終わっているそうだが、三等三角点の測量をして始めて高度が判明するそうで、国境(北緯50度線)近いこともあり持参した空中写真測量要図(25000)の地形図の不確かな部分や間違い部分の考察をしている。彼らは陸軍測量部の最後の測量隊と相前後して登っていたことになる。10年後にはソ連に取られてしまうのだが。このため標高のわからぬ国境近くのこの山域には夢があり、敷香岳、恵須取岳周辺の、もしかしたら1700mを超える山があるかも知れないということで、名好岳を目指したとのこと。実際には1200-300mくらいのヤブ山だったが。訪れてみると意外や造材と狩猟者によってこの未知の山域は歩かれていたことを知る。札幌からの交通費一人当たり往復で29円40銭、と内訳など細かく書いてあるのが面白い。なお、「サハリン・モヂリは平原が起伏してゐるやうな山々」というアイヌ語なのだそうである。これまでロシア語だと思っていた。
樺太に関する文献表 水上定一
●知床半島の春 豊田春満
根室本線厚床から今は無き標津線で中標津へ、そこから乗り合い自動車で標津へ(鉄道はこの時代中標津までだったということだろう)、そこから定期自動車で羅臼へ。春の原野と海を叙情たっぷりに描いている。乗り合い自動車の様子、羅臼温泉の描写など詳しく面白い。羅臼の中腹から硫黄岳往復。三ツ峰の近くに美しい沼を見つける。雪の中に目のように開いた小さな沼。「それは丁度希望を蒼空に向けた青く澄んだ瞳の樣であつた。うれしくなると何時も子供の樣に無邪氣にはしやぎ出す瀬戸は、此時も感歎の聲をあげたのであつた。」雪解けの季節には稜線上にこんな沼がよくできる。この稜線で僕も5月に出会ったことがある。とてもきれいな色をしているのだ。
このときは、三ツ峰、サシルイ、オッカバケの地名がまだ無い。翌日羅臼岳をアタック、その夜の記述。「夜になると皎々と春とも思はれないばかりに冱えた月が、國後の方から昇つて來て晝のやうに明るくなり、此羅臼岳の斜面は幻想的な青白い光を放ち出した。空一杯に漲つた月光の無數の針は何か竒怪な曲でも奏してゐる樣に、四邊の景色も晝とは全く一變した幻想的なものとなつた。雪を照らす月の光は登山者の激しいワンデルトリーブをそゝらずには置かない。私達も誰からともなくスキーを穿いて此夢幻の世界へと歩き出したのであつた。妖精じみた影法師ともつれ合つて滑り廻つたり、いろんな山友達が籠城のテントの中で教へてくれた樣々な歌を口ずさみ乍らほつゝき歩いたり、或は梢だけ雪から出した嶽樺の間を縫つて尾根蔭の闇の中にこつそりとしのび込んでみたり、夢遊病者の樣な彷徨に夜の更けるのも忘れてゐた。天幕に歸つた時には焚き火はもう殆ど灰になりかけてゐた。一しきり新しい薪をくべ乍らしばらく二人で駄辯つて、それから天幕に入つたが、頭は天幕を明るく照らす月の樣に冱えてなかなか寢つかれなかつた。」この部報で一番好きな一節だ。
●三月の石狩川 石橋恭一郎
1935年3月上旬、石狩川本流から石狩岳を目指す。積雪期初登の伊藤秀五郎氏の記録から8年、その後結氷した大函を通過するパーティーはこれが初めて。この間林道(現・国道39号線)が延びたが、冬の可能性はナダレなどの要因はじめ未知だった。アイヌの猟師の足跡を追い行ってみるとこの林道が意外と使えた。
ユニ石狩沢の合流点(当時の林道終点)から奥へ進む。この一帯の石狩沢は渡渉できる幅ではないので右岸を行くか左岸を行くかで運命を分ける。「この日私達は右岸を選んだばかりに豫定地までに一泊を餘儀なくされた。」当時の核心は、大河の遡行だった。結局数本のドロ柳を倒して橋を架けて左岸を行く。ヤンペタップ合流の先にベースを設け、石狩岳をアタックするが、連日の吹雪に日数を使い果たし往路を下山する。前石狩沢からの登路、巨大なデブリを見る記述がある。当時のむき出しの野生が凄い。「突然行く手の眼界が開けて、私達は只々恐怖と畏敬とにおのゝいたのである、其處には立木一本も認められぬ小高い凹凸の雪の丘が行く手を塞いでゐた。一抱もある大木が根こそぎにもぎ取られ、打ち碎かれて、枯れた殘骸を露出して散亂し、或物は斜面に引かゝり、叉或物は逆につゝ立ち、横に縱に、深い積雪にも拘はらず首を突き出してゐる有樣は、實に凄慘な状態であつた。恐らく早春のデブリーであらう。石狩岳の山頂から北走する主稜の一角から、ひたむきに密林を薙倒して、五百米を一氣に澤に落込み、餘勢をかつて、對岸の急斜面を狂ひ昇つた其の物凄い光景を想像して、私達は互に顏を見合せるのみであつた。雪崩の蹟は見上げる山稜迄くつきりと一線を劃して、山稜は烈風に盛に雪煙を上げてゐる。」
●創立前後の思出 渡邉千尚
スキー部山班からの独立と恵迪寮旅行部からの創立10年を節目に、創立時新人だった渡邉氏による当時の活気あふれる様子を書いた小文。「時期至つて大正十五年十一月十日に發會式を擧げたがその前後の緊張振は大したものだつた。若手連は遮二無二山岳部創立に突進して、先輩連がスキー部との間に入つて、苦勞してゐることなどは少しも知らずに居つた。」「生の惱みを味はつた部員は頑固なものだつた。笑つて過ごしてしまふやうな事でも、互ひに讓らずに激論を鬪はすことが度々あつた。」「登山術は未熟でも、意氣は仲々壯んなものがあつた。慶應山岳部のアルバータ行に刺戟されて、我々もカムチャツカの最高峰クルチエフスカヤに登る計畫を立てゝ國際關係なども全然考慮に入れずに,叉我々が毎月もらふ學費を飮まず食はずに貯めたつてどうにもならないのに儉約して貯金しようなんて相談したこともあつた。」
やはり千島の先のカムチャッカに目を付けていた話がおもしろい。当時1920年代は日露戦争でカムチャッカ沿岸の漁業権を日本が獲得、国策会社「日魯漁業」が荒稼ぎしていた時代だ。日本人のこの地域への入り込みは、戦後冷戦期に較べればはるかに盛んだった。ただ、1924年まで続いたシベリア出兵(ロシア革命に対する干渉戦争)のため、恐らく登山許可の可能性が無かったのだろう。
年報(1933/10−1935/10)
写八点、スケッチ三点、地図五点
(解説前編/後編)
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記事・消息・ 2007年2月28日 (水)
2月25日、宮井さん(81入部)が亡くなった。そのお通夜が小樽で2月27日あった。
25日はよく晴れた気温の低い日曜日で、宮井さんは積丹岳を単独で登った。持参のカメラの写真によれば、おそらく登頂しているようだ。下山して車を運転中、心臓が止まったそうだ。ガードレールで車は止まった。家まで数キロの所だった。
25日はよく晴れた気温の低い日曜日で、宮井さんは積丹岳を単独で登った。持参のカメラの写真によれば、おそらく登頂しているようだ。下山して車を運転中、心臓が止まったそうだ。ガードレールで車は止まった。家まで数キロの所だった。
会場にはその日の山の装備が置いてあった。ナダレヒモやAACHと書いた赤のデポ旗、自作デストロイヤーの目出帽、予備のハンガロン、細かく防水パックしたマッチろうそく、水線とコンタラインを書き込んだ地形図など、山岳部現役の基本そのままの個人装備を一つずつビニール袋でパッキングしてある。几帳面な性格を思い出した。僕が入部した春、この装備の意味を一つ一つ説明して揃える面倒を見てくれたのは宮井さんだった。
生涯最後の日に晴れた積丹に登り、春の日本海を見下ろした様を想像した。この季節の積丹はまだ第一級の冬山だ。天候、雪崩の判断も難しい。ガリガリでバリズボの稜線、アタックの時間読みの駆け引きもある。山は久しぶりだったそうだが、この日のアタック、いろんなそれまでの社会でのいきさつから行こうと思って計画し、結果貫徹したのだろう。どんな気持ちだったのか。できることなら本人に聞いてみたい。久しぶりのマジな山で、ちょっとはビビったりしたんじゃないかな。社会や仕事でおかれた身でなすべき事をしてきて、僕達山岳部員のささやかな成功(山行の企画と貫徹)をこの日深く味わい、家族の待つ家に帰るところだった。人は誰でも死ぬ。宮井さんの死は悪くないと思った。なぜならお通夜におつきあいして、宮井さんが家族みんなにとても深く愛されていたのを感じたからだ。お父さんお母さん奥さん五歳二歳のこどもたち。いつまでも棺からはなれられなかった。
お通夜と翌朝の告別式へは前田さん、キンペイさん、キンドーさん、スエさん、松っつあん、樋口さん、藤原さん、ホースケさん、高原さん、ノムラさん、タゴサクさん、名取さん、米山、ディック、しゅうじ、たまちゃんが来た。それから高校の教え子達。
(米山・84入部)
生涯最後の日に晴れた積丹に登り、春の日本海を見下ろした様を想像した。この季節の積丹はまだ第一級の冬山だ。天候、雪崩の判断も難しい。ガリガリでバリズボの稜線、アタックの時間読みの駆け引きもある。山は久しぶりだったそうだが、この日のアタック、いろんなそれまでの社会でのいきさつから行こうと思って計画し、結果貫徹したのだろう。どんな気持ちだったのか。できることなら本人に聞いてみたい。久しぶりのマジな山で、ちょっとはビビったりしたんじゃないかな。社会や仕事でおかれた身でなすべき事をしてきて、僕達山岳部員のささやかな成功(山行の企画と貫徹)をこの日深く味わい、家族の待つ家に帰るところだった。人は誰でも死ぬ。宮井さんの死は悪くないと思った。なぜならお通夜におつきあいして、宮井さんが家族みんなにとても深く愛されていたのを感じたからだ。お父さんお母さん奥さん五歳二歳のこどもたち。いつまでも棺からはなれられなかった。
お通夜と翌朝の告別式へは前田さん、キンペイさん、キンドーさん、スエさん、松っつあん、樋口さん、藤原さん、ホースケさん、高原さん、ノムラさん、タゴサクさん、名取さん、米山、ディック、しゅうじ、たまちゃんが来た。それから高校の教え子達。
(米山・84入部)
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記事・消息・ 2007年2月18日 (日)
1990年2月10日オロフレ山で雪庇を落として雪崩に埋まり遭難死した小松健の追悼で今年も6人集まった。
現場はオロフレ峠の自動車道から100mほど登った所。今年は米山,キンタ、ディック、シェイク、梶川、小ノムラだった。斎藤はインフルエンザで断念!天気がよかったのでいつもより長くウダウダしていた。酒をまいて、カメラーデンリートを歌った。小松も生きていれば子供ぐらいいるだろうか。今日のメンツは総じて晩婚組(あるいは晩年未婚)で、そのせいもあって現役時代と代わり映えのしない様子だった。トシに一度しか集まらないのに相変わらず別れ際はさっぱりしたものだ。
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現役の報告・ 2007年2月16日 (金)
【月 日】2/10〜12(3-0)
【ルート】十勝三股→石狩岳→十石峠→十勝三股
【メンバ】L:勝亦浩希(4) AL:平塚雄太(3)
【ルート】十勝三股→石狩岳→十石峠→十勝三股
【メンバ】L:勝亦浩希(4) AL:平塚雄太(3)
<時間とルート>
●1日目 十勝三股(6:40)ー岩間温泉(10:40-11:30)ー・1578(15:20)=Ω1
晴れ。十勝三股のバス停でC0。林道を行き、岩間温泉で足湯。1578東尾根への渡渉はスノーブリッジ。1578付近でイグルーC1。
●2日目 Ω1(6:30)ーJP手前Co1760付近=Ω2(9:20)
曇り時々雪。・1488付近からシーズリつぼ時々スキー。Co1700に上がったところにデポ旗打ち捨て。少し行ってシートラEP。時間が多めにかかったことと、天気が微妙だったことからのっこしはやめることにする。JP手前Co1760付近で雪洞を掘ってΩ2。
●3日目 Ω2(6:15)ー石狩岳南峰(8:30)ーシュナイダー頭(9:10)ー音更山(10:30)十石峠(12:40)ー十勝三股(16:30)
曇り時々雪。気になる風。JPへの登りは局地風。石狩南峰からは少し西側を下って岩交じりのトラバース。音更山東コル手前からスキー。十石峠からのくだりは南東尾根を下り、途中から南にきって林道に当てる。スキー快調。
<パーティ>
よく歩いた。
●1日目 十勝三股(6:40)ー岩間温泉(10:40-11:30)ー・1578(15:20)=Ω1
晴れ。十勝三股のバス停でC0。林道を行き、岩間温泉で足湯。1578東尾根への渡渉はスノーブリッジ。1578付近でイグルーC1。
●2日目 Ω1(6:30)ーJP手前Co1760付近=Ω2(9:20)
曇り時々雪。・1488付近からシーズリつぼ時々スキー。Co1700に上がったところにデポ旗打ち捨て。少し行ってシートラEP。時間が多めにかかったことと、天気が微妙だったことからのっこしはやめることにする。JP手前Co1760付近で雪洞を掘ってΩ2。
●3日目 Ω2(6:15)ー石狩岳南峰(8:30)ーシュナイダー頭(9:10)ー音更山(10:30)十石峠(12:40)ー十勝三股(16:30)
曇り時々雪。気になる風。JPへの登りは局地風。石狩南峰からは少し西側を下って岩交じりのトラバース。音更山東コル手前からスキー。十石峠からのくだりは南東尾根を下り、途中から南にきって林道に当てる。スキー快調。
<パーティ>
よく歩いた。
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部報解説・ 2007年2月14日 (水)
積雪期の札内川からのアタック山行、夏のペテガリ周辺渓谷探査の当時最先端の記録。ヒマラヤを見据えた極地法研究が、他大学山岳部では始まっている頃。石狩岳でやってみようかなどとも書いてあるが、全体には北大は今と変わらぬ、少人数軽量長旅アタック山行が主流である。
部報5号(1935年)前半分
●一月の石狩連峰 徳永正雄
● 吹上温泉よりトムラウシ山 石橋正夫
● 一月の札内川上流 照井孝太郎
● 三月の一八三九米峰とカムイエクウチカウシ山 伊藤紀克
● ペテガリ岳 石橋恭一郎
● 三月の千呂露岳 奥田五郎
● ペンケヌシ岳 西村 正
【総評】
1933/10-1935/10の2年分の山行記録と13の紀行など。北千島幌筵(パラムシル)島の後鏃(しりやじり)岳からの千倉岳連峰パノラマ写真などを含む。編集長は照井孝太郎。価格は1円80銭、316ページ。石狩岳への新ルート(現、石北峠)から初の極地法登山、一月、三月の札内川からヤオロ、39、カムエクなどのアタックを狙う野心的山行、ペテガリ、ナメワッカなど日高深部への夏の挑戦、北千島や樺太の山域記事も久しぶりである。
【時代】
1934年東北地方大凶作、函館大火。毛沢東軍「長征」開始。ドイツ、メルクル隊の第二次ナンガパルバット遠征10人遭難で失敗。12月今西錦司ら京大AACK朝鮮白頭山冬季初登遠征。1935年、イギリス、シプトン隊の第五次エベレスト遠征。
●一月の石狩連峰 徳永正雄
1933年12月28日〜1月9日、10人を3班に分け、前進キャンプを設けて進む極地法を実践した。また、石狩岳冬季の登路として、石狩川側、音更川側に次ぐ第三の選択肢、イトンムカ川から峠越えで石狩川源流に入ってアタックする手を発案した。当時石狩川は層雲峡の大函の通過がポイント、音更川は本流の水量が多く、中流部の通過が難しいとされた。イトンムカ川からの峠とは、現在国道39号の走る石北峠の事だ。
「『なるべく多數の人員を伴つて、相當な山へ登り得べき計畫』にして、しかも所謂ポーラーメソッドといふやうな形をとつてみるのも面白からうといふ提案に對して撰んだのがこの石狩連峰であつた。」1931年京大の富士山の極地法登山に刺激を受けている。京大は翌冬、白頭山の遠征に成功している。
今は無き留辺蘂発造材事務所行き森林鉄道の様子がよい。九里の行程は「座席は勿論板張りで我々十人で超滿員である。六時半發車、この愛すべき小型の汽車の燃料は薪でスピードは案外出る。車の中で會話が出來兼ねる程えらく噪音をたてゝ搖れるが、これが卻つて我々を寒さから防いでくれるのであつて、停車すると急に寒さが全身に襲ふてくる。」
音更山の北面沢を登り、ユニ石狩岳、音更山、石狩岳の三山をアタックして成功している。
● 吹上温泉よりトムラウシ山 石橋正夫
吹上温泉での合宿後、美瑛岳の樹林帯中腹を捲き、美瑛川源流からトムラをアタックして硫黄沼の尾根を超えて俵真布へ下山の計画。
「この平らな廣い平原の上は風一つ吹かない。すべてがじつと靜止してゐる。クラストの雪を踏み散らし、いくら急いでも、いくら着こんでも寒い。一寸でも休むものなら體が冷え切つてしまひさうだ。〜〜眞冬の山頂で私達は一時間も休んで居た。チカゝ目を射る高原の上を、今朝は全く考へも付かなかつた氣持でてんでに考へ込んで歩いて居た。〜〜元旦の夕陽が夕張山脈を越して、十勝嶽を燒き、オプタテシケを燒き、私達まで燒いた。太陽がすつかり沈んで終ふと、三人とも滑降レースの樣に一せゐに、滑り出した。いゝ斜面と、いゝ雪とで惠まれたタンネの疎林の尾根を、一とほしに縫ひ、數分間でテントの前まで滑り降つた。」
● 一月の札内川上流 照井孝太郎
1933年12月29日〜1月13日、小屋掛けして16日間の山行。若手OBの坂本直行氏発案、現役、といっても医学部で6年目勘定(相川、照井)二名との1月札内川山行。コイカクから39アタック(引き返し)と、カムエク、1900、1840などのアタックをしている。部報4号に3月の記録があるが、1月は初めて。雪が少なく本流の渡渉が未知だった当時、計画が難しかったが、麓で働く坂本氏が案を練って山行を開始した。当時コイカク沢はコイボクサツナイ川と呼ばれていた。標高950まで沢の中を進み、ここでシーデポして尾根に上がるというスタイル。雪崩にたいする姿勢は今と違う。
コイカクの二股で3停滞の後、39アタック。快晴の稜線では例によってバリズボに消耗し、猛烈な風の中、ヤオロマップまでで引き返す。「直ぐ西に私達の目指した一八三九米峰は黄金色に輝く海を背に秀麗な弧峰を聳え立たせ、鋭い雪の稜線と精緻な山襞は愈々私達の登高慾を煽り立てた。峰頂に向つて測らざる事故のためとは云へ虚しく敗退しなければならなかつた友の心情がまざまざと憶ゐ出される。七年前此の頂を極はめんとして果し得ず今亦その頂を踏む事が出來ぬ相川は喰入る樣に見入つて居る。」雪の39峰、今回もまた未踏のままだ。
股までのゴム長まで使って渡渉しながら十五貫しょって本流を八の沢出会い下の小屋掛けまで移動、8の沢左岸尾根頭の1900m峰(現1903m)をアタックする。早朝「八の澤合流に着いた時黝い谿の間に仰がれる一八四〇米峰の山容にしばし足を止めた。その端麗な頂は紅に染抜かれ頂の光冠は炎々と燃えた。」一八四〇米峰とは1853mの「ピラミッド」のようだ。合流右手の尾根を登って藪と少ない雪に苦労して1900m峰を登頂する。「僅かに国境線より離れて居ると云う理由のために今日迄、何人にも踏まれずに取残されて居た此の一九〇〇米峰より足下に急に落ち込んだ左右の深い広々とした圏谷底に目を落とすと、渺茫たる山並に接した時とは異なった不思議な感興が湧いて来る。暮色は既に圏谷に這寄り圏谷底の雪水をあつめて落ちる瀧の音が幽かに聞こえて来る。黄昏の嶺に佇む喜悦はささやかではあつたが初登頂の悦びとあの苦闘の後の勝利感にも似た感情とで幾倍にもされた。」カムエクは時間切れ。
小屋は夏の間に直行らが骨組みを組んでおいたもの。タンネの葉で屋根や壁を葺くのに、内側に建築紙を張っておくと、焚き火をしても滴が落ちなくて良い。建築紙とは油紙の一種だろうか?楽しそうな小屋作りの一日がある。大鋸を持ち込んでタンネをめきめきぶっ倒し、四.五日分の薪を小屋の前に積み上げた。
カムエクの再度アタックは日を改めて沢を詰め、北のコルへの沢は滝が露出しているようなので、カールに達するルートをとる。カムエクの山頂でとっておきの羊羹を食べて、八の沢カールを滑って降る。「頂を極めた私達には大きな愉悦が殘されて居た。それはデポーより澤への滑降であつた。廣々とした圈谷壁の急斜面を思ひゝに處女雪をねらつて大きく弧を描いて滑り出す。鋭い囘轉毎に濛々たる雪煙を上げて、吸込まれる樣に圈谷底へと息つく間もなく豪快な滑降を續けた。登行二時間を要した所を僅々二十分を要したに過ぎなかつた。」
その後エサオマンを目指したがラッセルで時間が足りず、9の沢源頭の1853m峰(現・1855m峰)と1900m峰(現・1917m峰)のアタックに変えたが、滝壺付きの函を負けず、敗退。翌日も悪天なので小屋暮らしを満喫して下山した。
● 三月の一八三九米峰とカムイエクウチカウシ山 伊藤紀克
前の記録の二ヶ月後、同じく札内川から39とカムエクを登る。3月23日からまで。積雪期39峰初登頂。伊藤紀克、豊田春満、西村正+新人アイヌ人夫中田仁三郎。
コイボクサツナイ川(現・コイカクシュサツナイ川)の中を進み、沢山のデブリを発見しながら、アタックキャンプを沢の中に設ける。このころはまだこういう判断基準だった。記述は沢の中、函が巻けるか、渡れるかが最大の関心事だ。沢を詰め、1400附近から右の支尾根に取り付いて、稜線に出る。コイボクに13:40、ヤオロマップに15:15分。「當然引返さなければならない時刻である。三人とも暫くは一八三九米峰を望んで無言であつたが、誰しも時間の遲い事を氣にして居たのである。叉一方では天氣は急には惡くなりさうも無い事、氣温は割合高い事、それにコイボクサツナイ岳からの距離に較べると、此處からの一八三九米峰は、ほんの目と鼻の先である事等を考へて居たのであらふ。誰云ふと無く「行かふ」と云ふ聲に皆簡單に應じて三時二十分此の頂を後にして、今度の山行の大きな目的の一つであり、叉今日迄誰も其の雪の頂を踏んだ事の無い一八三九米峰に向つてヤオロマツプ岳の腹を急ぎ下つて行つた。」「処女峰アンナプルナ」のラシュナルとエルゾークの会話のようだ。
39峰に17:40分登頂、キャンプ帰着は夜中の24:00。深いラッセルだったが、気温高く風も静かなので、積年の課題、三九峰をアタックした。帰りは雪明かり。シーデポからの下りは暗くて滑れずスキーを引っ張って降りたため、時間も余計にかかった。
この山行、はじめはペテガリへの予定もあり、1599に天場を進めるつもりもあったが、やはりヤオロマップ以南の稜線は夏の状態を見てからと、思い直している。コイカク出会いまで人夫が運んでおいてくれた食料などを持って、八の沢出会いの前回の小屋に移動。その後はイドンナップを目指して10の沢から国境稜線まで上がったりするが結局8の沢からカムエクを登る。最後はカールの壁を右寄りにほぼ山頂に直登。カールボーデンからの下りは「一度滑り出すと久方振りのスキーの面白さに魅せられた如く、思い思いの方向に物凄く、すつとばして行く。未だ澤に入りきらない山腹の滑降では大斜面を余す所なく荒し回る如く、右を行く者と左を行く者との間隔は一町以上も開いてしまふかと思ふと、叉忽ち近寄って来る。眞に豪壮な滑降である。」8の沢のスキーがこんなに快調とは。今は誰もやらないだろう。
その後は悪天が治まらず、気温も上がり、下りの雪橋が心配になってきたので、まだ日数はあるし登り足りないが雨の中下山することにする。
● ペテガリ岳 石橋恭一郎
この時代に日高に残った未踏の地域、ヤオロマップから神威岳までの稜線と、その東西に流れる谷。この時点での最先端の探査をまとめた小文。いよいよ憧れのペテガリ岳を照準に合わせている。
1932年夏、慶応山岳部が日高側から全くの尾根伝いで初登頂。
1934年夏、北大山岳部がコイボクサツナイ川(コイカクシュサツナイ沢のこと)から、中ノ川から、日方川(歴舟川のこと)から3パーティーが登頂した。
1935年夏は、ポンヤオロマップ川遡行で目指したが、悪天で敗退。
しかし、どれも沢を最後まで詰めたのではなく、まだまだ幾多の魅力ルートがある、として研究している。サッシビチャリ川とペテガリ川は全く手つかず。人家からの距離が相当長そうで、中流部の函の通過が鍵となるとしている。
・ 日方川パーティーは、キムクシュベツ川の核心あたりで増水に合い、左岸の尾根に上がってのっこし、ヤオロマップ川一本北の、1599南東面の沢に降り、そこから1599南の国境に上がってそこから藪をこいでルベツネを超えてペテガリに達した。
・ 1934年夏中ノ川からの記録は上二股の間の「下降尾根」を登っている。そのときの記録が後半に詳しく載っている。以下にその紹介。
三股の上の核心の函は、捲きルート取りに苦労したが熊の足跡を発見してこれを追い途中ザイルを出して切り抜ける。上二股までの函の状況を詳しく記述している。そして二股。「左にするか右にするか、暫時私達は行路を求めた。左するも枝澤は凡て瀧の連續で到底利用し得べくもなく、叉右するも、るつぼの底の如き澤の相貌に、遂に決心して國境線まで六百米を登らざるを得なくなつた。草鞋と足袋を鞜に穿き變へ、これからの尾根歩きにと、水も充分水枕に詰めて、ブッシュを漕ぎ始めた。」このヤブ漕ぎ中にペテガリから降りてきた中野、相川と出会う。情報交換して別れる。
山頂にて「其處からお花畠を傳つて、頂上直下の偃松を少し分け、ペテガリの頂を踏んだのが一時間後であつた。頂の歡喜、幾日振りかの苦鬪の後の、而も此の快晴の日の頂、私達は唯々滿足と幸福とに溶け込んで行つた。不圖北の尾根を見ると、熊が一頭、お花畠で盛に何かを求めてゐる、その姿は實に山の親爺にふさはしい。「おーい」と呼ぶと「おや」と云つた顏つきで、後脚で立ち上がり、こちらを不思議さうに眺めてゐる。多分此の熊も人を見るのが初めてなのだらう。」
このあとカールで泊まって1599への稜線をヤブこぎで進み、ヤオロ、コイカク経由で下山する。「山に入る時の林道は頂への憧れの道であり、山を出る時の林道は里への憧れの道である。」
慶応大が延々と尾根からペテガリに登ったのに対し、北大山岳部は、少人数のパーティーで思い思いに三つの沢ルートから攻めている。本当は沢を最後まで完登したいのだが、当時はザイルを積極的に使うほどの沢登りセンスでは無かった。その時代最先端の必要最小エネルギーで、秘境のペテガリ山頂へ達している。
● 三月の千呂露岳 奥田五郎
1934年3月、奥田と初見による積雪期の初登頂記録。ピパイロ川八の沢二股からルベシベ分岐東尾根経由で、ルベシベとチロロのロングアタック。チロロはパンケヌーシ川の奥にあり、稜線からも離れているので、未踏のまま残っていた。計画ではピパイロ、芽室岳などもアタックざんまいの予定だったが、悪天で行けず。冬のピパイロ川の可能性について大いに考察している。
● ペンケヌシ岳 西村正
1935年9月、福地、有馬洋、西村と、千島から帰ったばかりの岡の4人。「僕達は今、その内懷に飛び込まうとしてゐるんだ。日高の北の端、地圖には名もなく今迄殆ど顧られてもゐなかつたペンケヌシ岳、何の考へがあつて目指す譯でもない。たゞ美しい山と聞いてゐたのと誰も登つてゐない山といふ漠然としたものとが、強ひて言ふならばあつたかも知れないが、然しそんな事はどうでもいゝんだ。僕達はそんな事よりか晴れた日高の山脈を享樂しやうと出て來たのだから。」元祖マイナーピーク山行だ。ルートは芽室川から国境を越えてパンケヌーシ川に降り、南東面沢(六ノ沢)からアタック。後パンケヌーシ川を下り、沙流川へ降りている。当時沙流川流域は未開で、日勝峠も不便。入山は十勝側からの国境越えが一番良かったということだろう。地図には「辨華主岳」と書いてある。
西村氏の愉快な文には、食べ物の記述が実に多い。「有馬の忍ばせてきた玉子はオムレツとしてみんなを喜ばした。食後のレモンテーまたよし。」「天幕の中では無駄骨折つた慰勞コンパとして有馬、福地はコンビーフキヤベジを料理に餘念がない。」「フランス料理と稱しフランスパンと紅茶で朝食を濟まして出發」「釣つた許りの岩魚は或いは燒かれ或いは玉葱と共にバターでいためられ腹を滿たした。茄子の味噌汁も惡くはない。」「初めて食べた生の卵巣も所謂『乙な味で鹽氣がある。ナトリウムを含んでゐる故であらふ。』それよりも食後澁い緑茶を飮みつゝ燒いたトーキビの味は斷然札幌の秋を想はしめて傑作であつた。」「五日の夜はカレーライスであつたが今日はライスカレー、物凄く辛かつた。」
パンケヌーシの源流はカール状地形で、稜線に上がると「廣い尾根は一面のお花畑。彈力のある低い偃松。限りなき喜悦を胸に一歩々々ゆつくり歩いた。ナーゲルの底を通して柔らかい感觸が五體を驅けめぐる。さうだ、かふいふ山を長い間望んでゐたんだ。頂上、ベルクハイル、一人で呟いたがみんなは默つて居た。よく晴れてゐる。北日高は勿論の事、中央高地の山、夕張の山、遠く羊蹄、惠庭、余市、札幌岳まで見えるのだ。今、日高に居るのは僕達だけだと思へば「ワーツ」と聲一つぱいに叫んでみたくなつた。札幌の方から「うるさい!」叱る誰かの聲が聞える。すると石狩の頂上からチョコレートを頬張つた林や湯川が「ワーイッ」と叫ぶんぢやなからうか。〜〜バロメーターは正確に一七五〇米を示してゐた。ケルンを積んで最初の名刺を入れた罐を埋める。」これが初登頂時代のしきたりだ。
下山した最終集落が右左府(ウシャップ)とあるがここはどこだろう。会話した老婆、「札幌で流行の歌を歌ってくれ」と頼む若い青年などとの話が面白い。現代なら、まるでブータンヒマラヤの麓のような話だ。
以下、後半分は次回です。
●シユンベツ川より滑若岳へ 水上定一
● 北千島 初見一雄
● 北樺太の山々
名好山 本野正一
樺太に関する文献表 水上定一
●知床半島の春 豊田春満
●三月の石狩川 石橋恭一郎
●創立前後の思出 渡邉千尚
年報(1933/10−1935/10)
写八点、スケッチ三点、地図五点
(解説前編/後編)
1933/10-1935/10の2年分の山行記録と13の紀行など。北千島幌筵(パラムシル)島の後鏃(しりやじり)岳からの千倉岳連峰パノラマ写真などを含む。編集長は照井孝太郎。価格は1円80銭、316ページ。石狩岳への新ルート(現、石北峠)から初の極地法登山、一月、三月の札内川からヤオロ、39、カムエクなどのアタックを狙う野心的山行、ペテガリ、ナメワッカなど日高深部への夏の挑戦、北千島や樺太の山域記事も久しぶりである。
【時代】
1934年東北地方大凶作、函館大火。毛沢東軍「長征」開始。ドイツ、メルクル隊の第二次ナンガパルバット遠征10人遭難で失敗。12月今西錦司ら京大AACK朝鮮白頭山冬季初登遠征。1935年、イギリス、シプトン隊の第五次エベレスト遠征。
●一月の石狩連峰 徳永正雄
1933年12月28日〜1月9日、10人を3班に分け、前進キャンプを設けて進む極地法を実践した。また、石狩岳冬季の登路として、石狩川側、音更川側に次ぐ第三の選択肢、イトンムカ川から峠越えで石狩川源流に入ってアタックする手を発案した。当時石狩川は層雲峡の大函の通過がポイント、音更川は本流の水量が多く、中流部の通過が難しいとされた。イトンムカ川からの峠とは、現在国道39号の走る石北峠の事だ。
「『なるべく多數の人員を伴つて、相當な山へ登り得べき計畫』にして、しかも所謂ポーラーメソッドといふやうな形をとつてみるのも面白からうといふ提案に對して撰んだのがこの石狩連峰であつた。」1931年京大の富士山の極地法登山に刺激を受けている。京大は翌冬、白頭山の遠征に成功している。
今は無き留辺蘂発造材事務所行き森林鉄道の様子がよい。九里の行程は「座席は勿論板張りで我々十人で超滿員である。六時半發車、この愛すべき小型の汽車の燃料は薪でスピードは案外出る。車の中で會話が出來兼ねる程えらく噪音をたてゝ搖れるが、これが卻つて我々を寒さから防いでくれるのであつて、停車すると急に寒さが全身に襲ふてくる。」
音更山の北面沢を登り、ユニ石狩岳、音更山、石狩岳の三山をアタックして成功している。
● 吹上温泉よりトムラウシ山 石橋正夫
吹上温泉での合宿後、美瑛岳の樹林帯中腹を捲き、美瑛川源流からトムラをアタックして硫黄沼の尾根を超えて俵真布へ下山の計画。
「この平らな廣い平原の上は風一つ吹かない。すべてがじつと靜止してゐる。クラストの雪を踏み散らし、いくら急いでも、いくら着こんでも寒い。一寸でも休むものなら體が冷え切つてしまひさうだ。〜〜眞冬の山頂で私達は一時間も休んで居た。チカゝ目を射る高原の上を、今朝は全く考へも付かなかつた氣持でてんでに考へ込んで歩いて居た。〜〜元旦の夕陽が夕張山脈を越して、十勝嶽を燒き、オプタテシケを燒き、私達まで燒いた。太陽がすつかり沈んで終ふと、三人とも滑降レースの樣に一せゐに、滑り出した。いゝ斜面と、いゝ雪とで惠まれたタンネの疎林の尾根を、一とほしに縫ひ、數分間でテントの前まで滑り降つた。」
● 一月の札内川上流 照井孝太郎
1933年12月29日〜1月13日、小屋掛けして16日間の山行。若手OBの坂本直行氏発案、現役、といっても医学部で6年目勘定(相川、照井)二名との1月札内川山行。コイカクから39アタック(引き返し)と、カムエク、1900、1840などのアタックをしている。部報4号に3月の記録があるが、1月は初めて。雪が少なく本流の渡渉が未知だった当時、計画が難しかったが、麓で働く坂本氏が案を練って山行を開始した。当時コイカク沢はコイボクサツナイ川と呼ばれていた。標高950まで沢の中を進み、ここでシーデポして尾根に上がるというスタイル。雪崩にたいする姿勢は今と違う。
コイカクの二股で3停滞の後、39アタック。快晴の稜線では例によってバリズボに消耗し、猛烈な風の中、ヤオロマップまでで引き返す。「直ぐ西に私達の目指した一八三九米峰は黄金色に輝く海を背に秀麗な弧峰を聳え立たせ、鋭い雪の稜線と精緻な山襞は愈々私達の登高慾を煽り立てた。峰頂に向つて測らざる事故のためとは云へ虚しく敗退しなければならなかつた友の心情がまざまざと憶ゐ出される。七年前此の頂を極はめんとして果し得ず今亦その頂を踏む事が出來ぬ相川は喰入る樣に見入つて居る。」雪の39峰、今回もまた未踏のままだ。
股までのゴム長まで使って渡渉しながら十五貫しょって本流を八の沢出会い下の小屋掛けまで移動、8の沢左岸尾根頭の1900m峰(現1903m)をアタックする。早朝「八の澤合流に着いた時黝い谿の間に仰がれる一八四〇米峰の山容にしばし足を止めた。その端麗な頂は紅に染抜かれ頂の光冠は炎々と燃えた。」一八四〇米峰とは1853mの「ピラミッド」のようだ。合流右手の尾根を登って藪と少ない雪に苦労して1900m峰を登頂する。「僅かに国境線より離れて居ると云う理由のために今日迄、何人にも踏まれずに取残されて居た此の一九〇〇米峰より足下に急に落ち込んだ左右の深い広々とした圏谷底に目を落とすと、渺茫たる山並に接した時とは異なった不思議な感興が湧いて来る。暮色は既に圏谷に這寄り圏谷底の雪水をあつめて落ちる瀧の音が幽かに聞こえて来る。黄昏の嶺に佇む喜悦はささやかではあつたが初登頂の悦びとあの苦闘の後の勝利感にも似た感情とで幾倍にもされた。」カムエクは時間切れ。
小屋は夏の間に直行らが骨組みを組んでおいたもの。タンネの葉で屋根や壁を葺くのに、内側に建築紙を張っておくと、焚き火をしても滴が落ちなくて良い。建築紙とは油紙の一種だろうか?楽しそうな小屋作りの一日がある。大鋸を持ち込んでタンネをめきめきぶっ倒し、四.五日分の薪を小屋の前に積み上げた。
カムエクの再度アタックは日を改めて沢を詰め、北のコルへの沢は滝が露出しているようなので、カールに達するルートをとる。カムエクの山頂でとっておきの羊羹を食べて、八の沢カールを滑って降る。「頂を極めた私達には大きな愉悦が殘されて居た。それはデポーより澤への滑降であつた。廣々とした圈谷壁の急斜面を思ひゝに處女雪をねらつて大きく弧を描いて滑り出す。鋭い囘轉毎に濛々たる雪煙を上げて、吸込まれる樣に圈谷底へと息つく間もなく豪快な滑降を續けた。登行二時間を要した所を僅々二十分を要したに過ぎなかつた。」
その後エサオマンを目指したがラッセルで時間が足りず、9の沢源頭の1853m峰(現・1855m峰)と1900m峰(現・1917m峰)のアタックに変えたが、滝壺付きの函を負けず、敗退。翌日も悪天なので小屋暮らしを満喫して下山した。
● 三月の一八三九米峰とカムイエクウチカウシ山 伊藤紀克
前の記録の二ヶ月後、同じく札内川から39とカムエクを登る。3月23日からまで。積雪期39峰初登頂。伊藤紀克、豊田春満、西村正+新人アイヌ人夫中田仁三郎。
コイボクサツナイ川(現・コイカクシュサツナイ川)の中を進み、沢山のデブリを発見しながら、アタックキャンプを沢の中に設ける。このころはまだこういう判断基準だった。記述は沢の中、函が巻けるか、渡れるかが最大の関心事だ。沢を詰め、1400附近から右の支尾根に取り付いて、稜線に出る。コイボクに13:40、ヤオロマップに15:15分。「當然引返さなければならない時刻である。三人とも暫くは一八三九米峰を望んで無言であつたが、誰しも時間の遲い事を氣にして居たのである。叉一方では天氣は急には惡くなりさうも無い事、氣温は割合高い事、それにコイボクサツナイ岳からの距離に較べると、此處からの一八三九米峰は、ほんの目と鼻の先である事等を考へて居たのであらふ。誰云ふと無く「行かふ」と云ふ聲に皆簡單に應じて三時二十分此の頂を後にして、今度の山行の大きな目的の一つであり、叉今日迄誰も其の雪の頂を踏んだ事の無い一八三九米峰に向つてヤオロマツプ岳の腹を急ぎ下つて行つた。」「処女峰アンナプルナ」のラシュナルとエルゾークの会話のようだ。
39峰に17:40分登頂、キャンプ帰着は夜中の24:00。深いラッセルだったが、気温高く風も静かなので、積年の課題、三九峰をアタックした。帰りは雪明かり。シーデポからの下りは暗くて滑れずスキーを引っ張って降りたため、時間も余計にかかった。
この山行、はじめはペテガリへの予定もあり、1599に天場を進めるつもりもあったが、やはりヤオロマップ以南の稜線は夏の状態を見てからと、思い直している。コイカク出会いまで人夫が運んでおいてくれた食料などを持って、八の沢出会いの前回の小屋に移動。その後はイドンナップを目指して10の沢から国境稜線まで上がったりするが結局8の沢からカムエクを登る。最後はカールの壁を右寄りにほぼ山頂に直登。カールボーデンからの下りは「一度滑り出すと久方振りのスキーの面白さに魅せられた如く、思い思いの方向に物凄く、すつとばして行く。未だ澤に入りきらない山腹の滑降では大斜面を余す所なく荒し回る如く、右を行く者と左を行く者との間隔は一町以上も開いてしまふかと思ふと、叉忽ち近寄って来る。眞に豪壮な滑降である。」8の沢のスキーがこんなに快調とは。今は誰もやらないだろう。
その後は悪天が治まらず、気温も上がり、下りの雪橋が心配になってきたので、まだ日数はあるし登り足りないが雨の中下山することにする。
● ペテガリ岳 石橋恭一郎
この時代に日高に残った未踏の地域、ヤオロマップから神威岳までの稜線と、その東西に流れる谷。この時点での最先端の探査をまとめた小文。いよいよ憧れのペテガリ岳を照準に合わせている。
1932年夏、慶応山岳部が日高側から全くの尾根伝いで初登頂。
1934年夏、北大山岳部がコイボクサツナイ川(コイカクシュサツナイ沢のこと)から、中ノ川から、日方川(歴舟川のこと)から3パーティーが登頂した。
1935年夏は、ポンヤオロマップ川遡行で目指したが、悪天で敗退。
しかし、どれも沢を最後まで詰めたのではなく、まだまだ幾多の魅力ルートがある、として研究している。サッシビチャリ川とペテガリ川は全く手つかず。人家からの距離が相当長そうで、中流部の函の通過が鍵となるとしている。
・ 日方川パーティーは、キムクシュベツ川の核心あたりで増水に合い、左岸の尾根に上がってのっこし、ヤオロマップ川一本北の、1599南東面の沢に降り、そこから1599南の国境に上がってそこから藪をこいでルベツネを超えてペテガリに達した。
・ 1934年夏中ノ川からの記録は上二股の間の「下降尾根」を登っている。そのときの記録が後半に詳しく載っている。以下にその紹介。
三股の上の核心の函は、捲きルート取りに苦労したが熊の足跡を発見してこれを追い途中ザイルを出して切り抜ける。上二股までの函の状況を詳しく記述している。そして二股。「左にするか右にするか、暫時私達は行路を求めた。左するも枝澤は凡て瀧の連續で到底利用し得べくもなく、叉右するも、るつぼの底の如き澤の相貌に、遂に決心して國境線まで六百米を登らざるを得なくなつた。草鞋と足袋を鞜に穿き變へ、これからの尾根歩きにと、水も充分水枕に詰めて、ブッシュを漕ぎ始めた。」このヤブ漕ぎ中にペテガリから降りてきた中野、相川と出会う。情報交換して別れる。
山頂にて「其處からお花畠を傳つて、頂上直下の偃松を少し分け、ペテガリの頂を踏んだのが一時間後であつた。頂の歡喜、幾日振りかの苦鬪の後の、而も此の快晴の日の頂、私達は唯々滿足と幸福とに溶け込んで行つた。不圖北の尾根を見ると、熊が一頭、お花畠で盛に何かを求めてゐる、その姿は實に山の親爺にふさはしい。「おーい」と呼ぶと「おや」と云つた顏つきで、後脚で立ち上がり、こちらを不思議さうに眺めてゐる。多分此の熊も人を見るのが初めてなのだらう。」
このあとカールで泊まって1599への稜線をヤブこぎで進み、ヤオロ、コイカク経由で下山する。「山に入る時の林道は頂への憧れの道であり、山を出る時の林道は里への憧れの道である。」
慶応大が延々と尾根からペテガリに登ったのに対し、北大山岳部は、少人数のパーティーで思い思いに三つの沢ルートから攻めている。本当は沢を最後まで完登したいのだが、当時はザイルを積極的に使うほどの沢登りセンスでは無かった。その時代最先端の必要最小エネルギーで、秘境のペテガリ山頂へ達している。
● 三月の千呂露岳 奥田五郎
1934年3月、奥田と初見による積雪期の初登頂記録。ピパイロ川八の沢二股からルベシベ分岐東尾根経由で、ルベシベとチロロのロングアタック。チロロはパンケヌーシ川の奥にあり、稜線からも離れているので、未踏のまま残っていた。計画ではピパイロ、芽室岳などもアタックざんまいの予定だったが、悪天で行けず。冬のピパイロ川の可能性について大いに考察している。
● ペンケヌシ岳 西村正
1935年9月、福地、有馬洋、西村と、千島から帰ったばかりの岡の4人。「僕達は今、その内懷に飛び込まうとしてゐるんだ。日高の北の端、地圖には名もなく今迄殆ど顧られてもゐなかつたペンケヌシ岳、何の考へがあつて目指す譯でもない。たゞ美しい山と聞いてゐたのと誰も登つてゐない山といふ漠然としたものとが、強ひて言ふならばあつたかも知れないが、然しそんな事はどうでもいゝんだ。僕達はそんな事よりか晴れた日高の山脈を享樂しやうと出て來たのだから。」元祖マイナーピーク山行だ。ルートは芽室川から国境を越えてパンケヌーシ川に降り、南東面沢(六ノ沢)からアタック。後パンケヌーシ川を下り、沙流川へ降りている。当時沙流川流域は未開で、日勝峠も不便。入山は十勝側からの国境越えが一番良かったということだろう。地図には「辨華主岳」と書いてある。
西村氏の愉快な文には、食べ物の記述が実に多い。「有馬の忍ばせてきた玉子はオムレツとしてみんなを喜ばした。食後のレモンテーまたよし。」「天幕の中では無駄骨折つた慰勞コンパとして有馬、福地はコンビーフキヤベジを料理に餘念がない。」「フランス料理と稱しフランスパンと紅茶で朝食を濟まして出發」「釣つた許りの岩魚は或いは燒かれ或いは玉葱と共にバターでいためられ腹を滿たした。茄子の味噌汁も惡くはない。」「初めて食べた生の卵巣も所謂『乙な味で鹽氣がある。ナトリウムを含んでゐる故であらふ。』それよりも食後澁い緑茶を飮みつゝ燒いたトーキビの味は斷然札幌の秋を想はしめて傑作であつた。」「五日の夜はカレーライスであつたが今日はライスカレー、物凄く辛かつた。」
パンケヌーシの源流はカール状地形で、稜線に上がると「廣い尾根は一面のお花畑。彈力のある低い偃松。限りなき喜悦を胸に一歩々々ゆつくり歩いた。ナーゲルの底を通して柔らかい感觸が五體を驅けめぐる。さうだ、かふいふ山を長い間望んでゐたんだ。頂上、ベルクハイル、一人で呟いたがみんなは默つて居た。よく晴れてゐる。北日高は勿論の事、中央高地の山、夕張の山、遠く羊蹄、惠庭、余市、札幌岳まで見えるのだ。今、日高に居るのは僕達だけだと思へば「ワーツ」と聲一つぱいに叫んでみたくなつた。札幌の方から「うるさい!」叱る誰かの聲が聞える。すると石狩の頂上からチョコレートを頬張つた林や湯川が「ワーイッ」と叫ぶんぢやなからうか。〜〜バロメーターは正確に一七五〇米を示してゐた。ケルンを積んで最初の名刺を入れた罐を埋める。」これが初登頂時代のしきたりだ。
下山した最終集落が右左府(ウシャップ)とあるがここはどこだろう。会話した老婆、「札幌で流行の歌を歌ってくれ」と頼む若い青年などとの話が面白い。現代なら、まるでブータンヒマラヤの麓のような話だ。
以下、後半分は次回です。
●シユンベツ川より滑若岳へ 水上定一
● 北千島 初見一雄
● 北樺太の山々
名好山 本野正一
樺太に関する文献表 水上定一
●知床半島の春 豊田春満
●三月の石狩川 石橋恭一郎
●創立前後の思出 渡邉千尚
年報(1933/10−1935/10)
写八点、スケッチ三点、地図五点
(解説前編/後編)
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OBの山行記録・ 2007年2月14日 (水)
月 日)2007.02.10-13
ルート)十勝三股〜ニペ〜丸山〜東丸山南ポコ〜ウペペ〜糠平
田戸岡尚樹(99入部)
3連休に冬休みを重ねて,2年前に途中敗退した続きを倒してきました。社会人になってから初めてのちょっと長い山行でかなり不安もありましたが,やはり過去の蓄積は残っているもんなんですね。無事に貫徹できてうれしく思います。でもやっぱし一緒に行ってくれる人が欲しかったです。。。
では記録どーぞ。
2月9日 晴れ(冬型) 職場18:00〜十勝三股20:45
仕事を終え,そのまま十勝三股へ。上川のコンビニで晩飯。到着してから山の格好に着替え,明日は早いのですぐに就寝。外は星がきれい。
2月10日 晴れ上部ガス(冬型のゆるみ) C0/4:05〜林道終点7:15/20〜天狗のコル10:15/20〜ニペソツ山15:00/05〜大平のコル17:15
山行開始。
明日谷の通過で全道的に天気が悪いという話なので,初日ニペのっこしをするべくラテルネを点けて4時にdepaする。林道は轍があるが,帰りのことを考え車は国道沿いの入り口にデポ。轍は十六の沢林道の入り口までで,そこからは少しのラッセルが入る。天狗のコルへの尾根は出だしで風倒木やらラッセルやらでペースが上がらないが,まぁそれなりの時間で着いた。ここまでで6時間,さすがに結構疲れてきたがここからが本番。雪面のシュカブラがひどくなってきて固くなってきたCo1720でシートラーゲンに入る。しかしここから天狗までが結構なバリズボラッセル。はまったのに地面が無い足ブラなんてことも一度あった。
ニペをのっこせ!
さらにラッセルは続く。最低コルに着いた所でもう13時半。そしてここからの登りがラッセル地獄。ここまでですでに10時間近く行動しているので体力的にもぼろぼろ。7日分の装備にスキーが付いた30kg近いザックが食い込みつつバリズボ。ふらふらになりながらニペのピークに着いたらもう15時。全然余裕が無い。ここからが2年前のリベンジの部分。今回は200mくらいの視界があったので問題なく南尾根へ。ルート的には何にも無い尾根だが,やはりラッセルは続く。・1736のプラトーに出た所でやっとシートラから解放。しかしその先のコルへの下りがまたまた極道。ガリガリに氷化した斜面で,ハイマツや岩の起伏もあって難儀する。しばらく下ると少しやわらかくなってきたのでまたまたシートラしてつぼで下る。樹林帯に入った所で日没。今日は終わりもラテルネ行動。しまいには何にも無いキックターンでさえこける。Co1400付近のタンネの間でC1。激しい一日だった。
もうぼろぼろ君。
2月11日 曇り時々雪(弱い谷の通過) C1/9:20〜丸山11:55/12:00〜C2/15:05
この日は午前中にに谷の通過という話でだったが,8時にもう一度起きると意外にに天気が悪くないのでdepa。丸山はCo1400から先が白い。Co1460でシートラ。壁のような斜面は結構急で膝ラッセルが入る。しかも滑落したらちょっとやばそうな雰囲気があって少し怖い。稜線に上がってからはバリズボのラッセルになり,しかも意外に遠い。丸山から南のポコへは猛烈なラッセルが入ったので一時的にスキーを履く。それでも腿ラッセル。ポコは狭い所。またシートラして降りていくがすぐにスキーに戻せた。この先樹林帯の下りで尾根の分岐には注意が必要。間違えたくないので慎重に地図読みしていく。あとは樹林ないラッセルをひたすら続けて尾根分岐少し先のCo1320にC2。ここも快適なタンネ帯。FMも携帯もOK。それにしても時間読みよりも結構かかってしまい,昨日の疲れがかなり残っているようだった。
2月12日 極薄いガスの晴れ(冬型) C2/6:15〜・1386/8:15/20〜ウペペ西峰10:40/45〜ウペペ東峰12:40/45〜林道15:30〜林道上Co860(?)16:15
冬型で一日持つ天気ということで一気にのっこしへ。東丸山南のポコは結構白くてたまに固くて嫌なところがあるがスキーで行ける。この日は体調も回復してきたのか,がしがしスキーで歩けていいペース。ウペペ西峰すぐ手前のCo1720でシートラ。この先はアイゼンが快調に決まるのでこれはもう楽勝かと思いきや,頂稜ではまる。雪庇くずれが互い違いに出たりのへんな頂稜。深い雪のどラッセルに時折バリズボが入る。今回は全部EPで行ったが,スキーでも行けそうだった。頂稜の最低コルへの降り口は雪庇の影になっている。登り返し後は岩が出てきて歩きづらいが時間通りに東峰着。やっとニペからウペペへ繋げることができた。ここでニペが見えたら感動的だったんだろうけど残念。
ウペペ頂稜を振り返る。
下りは歩きづらいしだるい。登り返し後Co1690でスキーに換えるが急に雪が重くなる。Co1600ポコの下りはウインドクラストでガチガチのひどい斜面。アカエゾの植林なんかもしてあるが育っていないようだ。・1399から林道への下りはブッシュが多いが快調。林道に出て,地図上にある小屋マークが気になるのでちょっと歩いてみるが見つからずにC3。林道は沢の橋が落ちてたり倒木があったりでひどい。しかもなぜか登り気味。
2月13日 快晴(高気圧) C3/7:00〜糠平9:00
後はひたすら歩くだけなので気楽な朝。しばらく行くとなんだか地図と道が違う上に分岐が多くて迷わされる。とりあえず下の方に行く林道を行くと,沢型に架かる橋があって安心したが,逆方向に行く林道もあって「ウペペサンケ山登山口→」という看板があった。どうやらやはり林道を間違っていたらしい。そういえば登山口に看板も駐車場もなかったのもおかしかった。たぶん旧道だったんだろう。しばらく行ってからシールをはずすがあまり変わらない。登り返し部分はショートカットし,ひたすら歩いて,川を渡る手前の浄水施設のような所で除雪が入っていた。とはいえここからもほぼフラットな林道なのでさらに歩いて糠平着。
山行終了。
短距離とはいえ2年ぶりのヒッチはやや苦戦を強いられ,30分くらい後に役場の車が快く乗せてくれた。トークの中ですごいすごいと言われとても恐縮してしまうが,窓から見えたニペとウペペを見ると確かにすごいなぁと思った。車に着くと無事にエンジンもかかり,荒らされてもなかったので安心。三股のカフェに寄ってみたが運悪く定休日だった。層雲峡で風呂入って飯食って帰旭。
三国峠から眺めるニペとウペペ。
久しぶりに魂を削った山行で,まだまだ自分もやれるもんだとうれしく思った。でもやっぱり単独の山行はきびしいなぁというのが正直な感想です。しばらくはいいや。
仕事を終え,そのまま十勝三股へ。上川のコンビニで晩飯。到着してから山の格好に着替え,明日は早いのですぐに就寝。外は星がきれい。
2月10日 晴れ上部ガス(冬型のゆるみ) C0/4:05〜林道終点7:15/20〜天狗のコル10:15/20〜ニペソツ山15:00/05〜大平のコル17:15
山行開始。
明日谷の通過で全道的に天気が悪いという話なので,初日ニペのっこしをするべくラテルネを点けて4時にdepaする。林道は轍があるが,帰りのことを考え車は国道沿いの入り口にデポ。轍は十六の沢林道の入り口までで,そこからは少しのラッセルが入る。天狗のコルへの尾根は出だしで風倒木やらラッセルやらでペースが上がらないが,まぁそれなりの時間で着いた。ここまでで6時間,さすがに結構疲れてきたがここからが本番。雪面のシュカブラがひどくなってきて固くなってきたCo1720でシートラーゲンに入る。しかしここから天狗までが結構なバリズボラッセル。はまったのに地面が無い足ブラなんてことも一度あった。
ニペをのっこせ!
さらにラッセルは続く。最低コルに着いた所でもう13時半。そしてここからの登りがラッセル地獄。ここまでですでに10時間近く行動しているので体力的にもぼろぼろ。7日分の装備にスキーが付いた30kg近いザックが食い込みつつバリズボ。ふらふらになりながらニペのピークに着いたらもう15時。全然余裕が無い。ここからが2年前のリベンジの部分。今回は200mくらいの視界があったので問題なく南尾根へ。ルート的には何にも無い尾根だが,やはりラッセルは続く。・1736のプラトーに出た所でやっとシートラから解放。しかしその先のコルへの下りがまたまた極道。ガリガリに氷化した斜面で,ハイマツや岩の起伏もあって難儀する。しばらく下ると少しやわらかくなってきたのでまたまたシートラしてつぼで下る。樹林帯に入った所で日没。今日は終わりもラテルネ行動。しまいには何にも無いキックターンでさえこける。Co1400付近のタンネの間でC1。激しい一日だった。
もうぼろぼろ君。
2月11日 曇り時々雪(弱い谷の通過) C1/9:20〜丸山11:55/12:00〜C2/15:05
この日は午前中にに谷の通過という話でだったが,8時にもう一度起きると意外にに天気が悪くないのでdepa。丸山はCo1400から先が白い。Co1460でシートラ。壁のような斜面は結構急で膝ラッセルが入る。しかも滑落したらちょっとやばそうな雰囲気があって少し怖い。稜線に上がってからはバリズボのラッセルになり,しかも意外に遠い。丸山から南のポコへは猛烈なラッセルが入ったので一時的にスキーを履く。それでも腿ラッセル。ポコは狭い所。またシートラして降りていくがすぐにスキーに戻せた。この先樹林帯の下りで尾根の分岐には注意が必要。間違えたくないので慎重に地図読みしていく。あとは樹林ないラッセルをひたすら続けて尾根分岐少し先のCo1320にC2。ここも快適なタンネ帯。FMも携帯もOK。それにしても時間読みよりも結構かかってしまい,昨日の疲れがかなり残っているようだった。
2月12日 極薄いガスの晴れ(冬型) C2/6:15〜・1386/8:15/20〜ウペペ西峰10:40/45〜ウペペ東峰12:40/45〜林道15:30〜林道上Co860(?)16:15
冬型で一日持つ天気ということで一気にのっこしへ。東丸山南のポコは結構白くてたまに固くて嫌なところがあるがスキーで行ける。この日は体調も回復してきたのか,がしがしスキーで歩けていいペース。ウペペ西峰すぐ手前のCo1720でシートラ。この先はアイゼンが快調に決まるのでこれはもう楽勝かと思いきや,頂稜ではまる。雪庇くずれが互い違いに出たりのへんな頂稜。深い雪のどラッセルに時折バリズボが入る。今回は全部EPで行ったが,スキーでも行けそうだった。頂稜の最低コルへの降り口は雪庇の影になっている。登り返し後は岩が出てきて歩きづらいが時間通りに東峰着。やっとニペからウペペへ繋げることができた。ここでニペが見えたら感動的だったんだろうけど残念。
ウペペ頂稜を振り返る。
下りは歩きづらいしだるい。登り返し後Co1690でスキーに換えるが急に雪が重くなる。Co1600ポコの下りはウインドクラストでガチガチのひどい斜面。アカエゾの植林なんかもしてあるが育っていないようだ。・1399から林道への下りはブッシュが多いが快調。林道に出て,地図上にある小屋マークが気になるのでちょっと歩いてみるが見つからずにC3。林道は沢の橋が落ちてたり倒木があったりでひどい。しかもなぜか登り気味。
2月13日 快晴(高気圧) C3/7:00〜糠平9:00
後はひたすら歩くだけなので気楽な朝。しばらく行くとなんだか地図と道が違う上に分岐が多くて迷わされる。とりあえず下の方に行く林道を行くと,沢型に架かる橋があって安心したが,逆方向に行く林道もあって「ウペペサンケ山登山口→」という看板があった。どうやらやはり林道を間違っていたらしい。そういえば登山口に看板も駐車場もなかったのもおかしかった。たぶん旧道だったんだろう。しばらく行ってからシールをはずすがあまり変わらない。登り返し部分はショートカットし,ひたすら歩いて,川を渡る手前の浄水施設のような所で除雪が入っていた。とはいえここからもほぼフラットな林道なのでさらに歩いて糠平着。
山行終了。
短距離とはいえ2年ぶりのヒッチはやや苦戦を強いられ,30分くらい後に役場の車が快く乗せてくれた。トークの中ですごいすごいと言われとても恐縮してしまうが,窓から見えたニペとウペペを見ると確かにすごいなぁと思った。車に着くと無事にエンジンもかかり,荒らされてもなかったので安心。三股のカフェに寄ってみたが運悪く定休日だった。層雲峡で風呂入って飯食って帰旭。
三国峠から眺めるニペとウペペ。
久しぶりに魂を削った山行で,まだまだ自分もやれるもんだとうれしく思った。でもやっぱり単独の山行はきびしいなぁというのが正直な感想です。しばらくはいいや。
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OBの山行記録・ 2007年2月12日 (月)
貫気別山(ぬきべつ・1317m)とリビラ山(1291m)
日高山脈の展望台。道内全域天気が悪そうな連休、ここだけはなんとか晴れそうなので決定。
【ルート】
貫気別川→両峰の中間1300ポコ西尾根→貫気別山往復→リビラ山のっこし→北西尾根下降
【メンバー】
米山悟(84)、斉藤清克(87)、北川徹(山スキー部OB)
【行 程】
2月11日:取水施設(9:30)→1300ポコ西尾根末端右奥取り付きCo600(12:10)→標高1000mC1イグルー(14:15)イグルー完成(15:40)
2月12日:C1(7:10)→1300mポコ北のコルデポ(8:20)→貫気別山(9:00-30)→コルデポ(10:00)→リビラ山(11:45-12:15)→北西尾根末端(13:45)→取水施設(15:00)
【記録】
雪の日高は学生以来だ。とはいえ主稜線を遠く眺める展望台、沙流川中流の気になる連山を登った。沙流川から貫気別川にはいると、広い盆地があって驚く。日高側の山間地の幅は広い。貫気別川林道は取水施設のあるところまで除雪がされているので助かる。ここで車を置き、支度をしていると鹿撃ちのおじさんが通りあれこれ話す。
川は荒れていた。林道はCo500あたりまであるのだが、崩れて使えない。雪も少なく、イグルーを作れるか不安になる。目指す尾根は貫気別とリビラの中間にあるCo1300のポコの西尾根だが、末端は急で取り付けず、右へ右へと捲いて緩い所を取り付く。そこにはブル道があり標高800あたりまで続いていた。尾根のヤブ密度はそれほどでもなく、ブル道の助けもあり快調だ。貫気別山の山頂下には標高差100mの岩壁帯があって壮観だ。鹿撃ちはこの崖を「ガンケ」と呼んでいた。
Co1000の針葉樹の平地でイグルーを作り焚き火。積雪は60センチほどしかなくイグルーブロックは一段しかとれなかったが、なかなか快適なやつができた。日が暮れると雪が降り出したがタンネの傘の下で、火に当たり尻を暖める。
−7度。起きると既に明るい。イグルーは雪に埋まって繭のようになっていた。30センチ以上積もった。ラッセルは膝から腿の深さ。カンバは霧氷を付け、真っ白だ。稜線に出ると、日高の国境稜線が見えた。
イドンナップ、幌尻、ピパイロあたりの稜線はガスがくっついているが、白い山脈が右から左へ視界いっぱい。貫気別山頂では幌尻の雲がどくのを待ったがなかなか甘くない。厳冬の日高主稜線はこうでなくちゃいかん。ナメワッカと、遠く39はシャキーンと聳えているのが見えた。
リビラへの稜線は全体に凍ったカンバが視界をふさぎ、しかも結構なラッセルだ。ズブズブのラッセルをファイトで進む。リビラに着く頃にはガスに覆われてしまった。北川はシールが不調で遅れ、リビラ山頂で30分待つ。
リビラ北西尾根は今年初の新雪パウダー滑り。軽くて深い雪を歓声挙げて滑り降りる。上着のジッパーを上まで引っ張り上げないと胸に粉雪が入る。樹林の密度は多少濃いが、まあまあ楽しめる。Co980あたりから真北へ降りて沢へ滑り込む。下の方ではまたブル道があらわれて、これがスキーに都合良い傾斜だ。渡渉をしながら川原を降りていくと、砂防ダムの土木工事をやっていた。ダンプがバンバン走り、いきなり土建屋帝国になっていた。ダンプの運転手が親しげに声をかけてきた。登山者は珍しいと。北海道も東の方へ来ると、初対面でも気さくで明るい人が多くて、北海道人だなあと思う。
平取の「鳥天」で天丼をかっこみ、斎藤に苫小牧駅まで送ってもらう。だめかと思ったが、連休の混雑のため送れてきた汽車にぎりぎり間に合った。ザックに腰を下ろして函館まで。
雪の日高は学生以来だ。とはいえ主稜線を遠く眺める展望台、沙流川中流の気になる連山を登った。沙流川から貫気別川にはいると、広い盆地があって驚く。日高側の山間地の幅は広い。貫気別川林道は取水施設のあるところまで除雪がされているので助かる。ここで車を置き、支度をしていると鹿撃ちのおじさんが通りあれこれ話す。
川は荒れていた。林道はCo500あたりまであるのだが、崩れて使えない。雪も少なく、イグルーを作れるか不安になる。目指す尾根は貫気別とリビラの中間にあるCo1300のポコの西尾根だが、末端は急で取り付けず、右へ右へと捲いて緩い所を取り付く。そこにはブル道があり標高800あたりまで続いていた。尾根のヤブ密度はそれほどでもなく、ブル道の助けもあり快調だ。貫気別山の山頂下には標高差100mの岩壁帯があって壮観だ。鹿撃ちはこの崖を「ガンケ」と呼んでいた。
Co1000の針葉樹の平地でイグルーを作り焚き火。積雪は60センチほどしかなくイグルーブロックは一段しかとれなかったが、なかなか快適なやつができた。日が暮れると雪が降り出したがタンネの傘の下で、火に当たり尻を暖める。
−7度。起きると既に明るい。イグルーは雪に埋まって繭のようになっていた。30センチ以上積もった。ラッセルは膝から腿の深さ。カンバは霧氷を付け、真っ白だ。稜線に出ると、日高の国境稜線が見えた。
イドンナップ、幌尻、ピパイロあたりの稜線はガスがくっついているが、白い山脈が右から左へ視界いっぱい。貫気別山頂では幌尻の雲がどくのを待ったがなかなか甘くない。厳冬の日高主稜線はこうでなくちゃいかん。ナメワッカと、遠く39はシャキーンと聳えているのが見えた。
リビラへの稜線は全体に凍ったカンバが視界をふさぎ、しかも結構なラッセルだ。ズブズブのラッセルをファイトで進む。リビラに着く頃にはガスに覆われてしまった。北川はシールが不調で遅れ、リビラ山頂で30分待つ。
リビラ北西尾根は今年初の新雪パウダー滑り。軽くて深い雪を歓声挙げて滑り降りる。上着のジッパーを上まで引っ張り上げないと胸に粉雪が入る。樹林の密度は多少濃いが、まあまあ楽しめる。Co980あたりから真北へ降りて沢へ滑り込む。下の方ではまたブル道があらわれて、これがスキーに都合良い傾斜だ。渡渉をしながら川原を降りていくと、砂防ダムの土木工事をやっていた。ダンプがバンバン走り、いきなり土建屋帝国になっていた。ダンプの運転手が親しげに声をかけてきた。登山者は珍しいと。北海道も東の方へ来ると、初対面でも気さくで明るい人が多くて、北海道人だなあと思う。
平取の「鳥天」で天丼をかっこみ、斎藤に苫小牧駅まで送ってもらう。だめかと思ったが、連休の混雑のため送れてきた汽車にぎりぎり間に合った。ザックに腰を下ろして函館まで。
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書評・出版・ 2007年2月5日 (月)
書評・凍れるいのち 川嶋康男
柏艪社2006.12
1962年暮れからの大雪山で、北海道学芸大学函館校(現・道教大函館校)山岳部が遭難した。10人遭難、リーダー1人のみ生還。北海道山岳史上最悪の事故だった。これまで報告書以来語らなかったリーダー野呂幸司の45年経てのインタビューを元に野呂のその後の人生を含めたノンフィクション。巻頭カラー写真の市根井さんが野呂氏の同期とは初めて知った。
この遭難については、「北の山の栄光と悲劇・滝本幸夫著(1982・岳書房)」という本を現役の頃読んでいた。旭岳から石室へ降る尾根は金庫岩の所でしっかり磁石を見ていても迷いやすい。雪洞が崩壊して吹雪に投げ出されるイメージ。この二つは強く心に残り、山行の際の最悪想定のイメージとして常に持っていた。今回久しぶりにこの遭難の顛末を読んで、別の感想を持った。
この遭難の数々の過失を80年代の現役だった僕や、その後の山行経験を積んだ僕が検証するのは容易い。しかし、24歳の野呂が、それまでに築いたすべてを失って深い孤独にあった事、そこから這い上がるその後の人生は想像にあまりある。当時の函学大山学部は、函館東高校時代から高校生離れした登山経験を積んでいた野呂が、ハイキングクラブからの脱皮をさせて4年目、第一級の大学山岳部レベルにしようとしていた矢先の事故だと初めて知った。野呂が唯一人生き残ってしまったのは、仲間を見捨てたわけではなく、様々な消耗する仕事を尽くした最後に帰還できるだけの、ずば抜けた体力を野呂だけが持っていた事もわかる。
本書でわかるのは、野呂のその後の人生。両足首切断のあと鍛錬し、1984年のインスブルックパラリンピックで活躍するまでになった。そして別れた10人とのその後のつきあい。著者は原真の言葉を引用している。「二十代の山仲間との友情を、そのままの状態で長く保たせる事は実際には難しい。しかし、死んでしまった仲間には、そのようなわびしい思いは起こらない。彼らは、人生の白熱の時に死に、残された者の心に、決して老衰することのない青春の姿で生きている。彼らの思い出は、常に未来を感じさせる。死んだ仲間への悲しみは、時経るにしたがって親しみに変わり、時には羨望に変わることさえある。(頂上の旗・1988筑摩書房)」45年間黙ってきたというが、もちろん報告書も出ているし、なすべき事はしている。黙ってきたのは死んだ仲間の家族の為だろう。
野呂が樺太の知取出身で、引き上げ船泰東丸に乗りそびれたおかげでソ連に撃沈されずにすんだ話、五稜郭近くの引き揚げ者住宅に居た話など僕には興味深い。
最後に。ノンフィクションの手法なのかもしれないけれど、全体に会話体のセリフが多く、どれもリアリティーに欠けて興ざめする。山では皆そんなに喋らない。「旭岳から元気をもらったぞ」などという日本語は、当時は無かった今時多用されることばだと思うし、会話に関して少々創作しすぎの印象がある。山のドラマやノンフィクションなどを見て、足を突っ込んだ者としていつも感じる違和感だ。ただ、それは山と無縁の大多数の人にとっては些末な事かもしれない。この題材でノンフィクションを企画した著者が、45年間沈黙を守った野呂から取材出来た点を評価する。
この遭難の数々の過失を80年代の現役だった僕や、その後の山行経験を積んだ僕が検証するのは容易い。しかし、24歳の野呂が、それまでに築いたすべてを失って深い孤独にあった事、そこから這い上がるその後の人生は想像にあまりある。当時の函学大山学部は、函館東高校時代から高校生離れした登山経験を積んでいた野呂が、ハイキングクラブからの脱皮をさせて4年目、第一級の大学山岳部レベルにしようとしていた矢先の事故だと初めて知った。野呂が唯一人生き残ってしまったのは、仲間を見捨てたわけではなく、様々な消耗する仕事を尽くした最後に帰還できるだけの、ずば抜けた体力を野呂だけが持っていた事もわかる。
本書でわかるのは、野呂のその後の人生。両足首切断のあと鍛錬し、1984年のインスブルックパラリンピックで活躍するまでになった。そして別れた10人とのその後のつきあい。著者は原真の言葉を引用している。「二十代の山仲間との友情を、そのままの状態で長く保たせる事は実際には難しい。しかし、死んでしまった仲間には、そのようなわびしい思いは起こらない。彼らは、人生の白熱の時に死に、残された者の心に、決して老衰することのない青春の姿で生きている。彼らの思い出は、常に未来を感じさせる。死んだ仲間への悲しみは、時経るにしたがって親しみに変わり、時には羨望に変わることさえある。(頂上の旗・1988筑摩書房)」45年間黙ってきたというが、もちろん報告書も出ているし、なすべき事はしている。黙ってきたのは死んだ仲間の家族の為だろう。
野呂が樺太の知取出身で、引き上げ船泰東丸に乗りそびれたおかげでソ連に撃沈されずにすんだ話、五稜郭近くの引き揚げ者住宅に居た話など僕には興味深い。
最後に。ノンフィクションの手法なのかもしれないけれど、全体に会話体のセリフが多く、どれもリアリティーに欠けて興ざめする。山では皆そんなに喋らない。「旭岳から元気をもらったぞ」などという日本語は、当時は無かった今時多用されることばだと思うし、会話に関して少々創作しすぎの印象がある。山のドラマやノンフィクションなどを見て、足を突っ込んだ者としていつも感じる違和感だ。ただ、それは山と無縁の大多数の人にとっては些末な事かもしれない。この題材でノンフィクションを企画した著者が、45年間沈黙を守った野呂から取材出来た点を評価する。
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記事・消息・ 2007年2月4日 (日)
北大学務部学生支援課の茂木氏から、空沼小屋に宿泊したグループより外部煙突が倒壊しているとの知らせが鐙山岳部長宛にあった。この小屋自体の老朽化はかなり進んでいて、かねてより屋根積雪の重みによる倒壊も懸念されていた。自分の目で小屋全体の状況を見てこようと、9月8日の「小林年さんを偲ぶ会」の翌朝、やや重い頭のまま家内を伴って5年ぶりに小屋へ出かけることとした。
登山口に車を置き、石ころ混じりの山道を辿り、親子連れや夫婦連れの登山者と共に2時間程で万計沼に到達した。
写真1
写真2
小屋の周りには雑草と灌木が茂り(写真1)、藪をかき分けて入り口の鍵を開けた所、土台の沈下のためか床が大きく傾き(写真2,3)、内部のドアの開閉もままならない状態であった(写真4)。
写真1
写真2
小屋の周りには雑草と灌木が茂り(写真1)、藪をかき分けて入り口の鍵を開けた所、土台の沈下のためか床が大きく傾き(写真2,3)、内部のドアの開閉もままならない状態であった(写真4)。
写真3
写真4
写真5
窓の外の鎧戸を開け放ち、やっと内部様子が見えてきた。テーブルやベンチの上は一面に白いカビで覆われ、割れた窓ガラスは代物で塞がれていたが、バネのはみ出したソファー、破れたハンモック、昔の管理人室に放置されている古い寝具等々、かってのヒュッテン・レーベンを楽しんだ空沼小屋の心地よさはそこにはなかった。(写真5,6,7)。
写真6
写真7
写真8
コンクリートのストーブ台がプラトーの頂部になったように周りの床が沈下し、ストーブの煙突も支持する部材の変形のためか横引き煙突はうねうねと曲がり、煙り漏れの防止のためかアルミホイルやガムテープで補修がしてあった(写真8)。
写真9
壊れかかった鎧戸の戸締まりをして外部の状態を調べてみた。小屋の基礎部分は10数年前に中村晴彦、木村恒美、上野八郎会員らの手で一時的に補強されたものの、基礎部分の沈下と土台の腐れが進み、沼に面したベランダは使用不能、土台より上部の外壁を構成するログ材も至る所で腐朽が進んでいた。(写真9,10,11,12)
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記事・消息・ 2007年2月2日 (金)
2007年1月27日(土)夕刻より、JR京都駅前ホテルセントノーム京都にて開催
京阪神の今冬は全般に暖かで、1月27日土曜日の午後、京都市内の雑踏は底冷えも、比叡オロシもなく、どんよりと春霞の趣き。内藤さんに見つけていただいたこの宴会場は、修行を積んだ板前が出す繊細な京料理と、JR京都駅前というロケーションもあって昨年に続き2度目の利用となります。山口市在住の加納君が東京出張ついでに途中下車して参加してくれたのも、そういう便利さがあったからかもしれません。
原支部長の乾杯の音頭で宴の開始。料理は先付、前菜から始まり、お口直しの鯛茶漬けの締めまで色取り華やかな京会席。お酒は飲み放題、とは申せ昔のような鯨飲は勿論皆様いたしません。酒の席で出た話題をいくつか
* 不滅の壮年である原さんも、先日の登山で下山中についにひざにガタがきた
* 金剛登山の下りで帰り道を探していた神戸さん、どう間違えたか吉田さんのゴンドワナ研究所に行き着いた
* 昨年末にネパールに行っていた吉田さんから、同地では混乱が収束するにつれて、安心して旅行ができるようになった、との報告
* 嫌がらせ、追い落としにまつわる裁判の顛末を話した川道さんの「こういうことはいつ我が身に降りかかってくるか判りませんよ」の一言が、我々にとってはある種のハラスメントでありました
* 5月に白浜温泉を基点に熊野古道の走破、もしくは熊野三山登山を目指す
どう言う訳か最後の締めの時に恒例になっていた肩を組んで「山の四季」を歌うのを忘れた。終了時間をせかされたせいでしょうか、はたまたいつもの名越さんがいなかったせいでしょうか。かくして07年の新年会は終り、皆様は三々五々、未だ宵の口の京の町を後にされたのでした。
出席者(敬称略、数字は入部西暦年下2桁)
原(真)56、 吉田(勝)57、 相田58、 窪田58、 神戸59、 田中(英)59、 内藤59、 渡辺(尚)59、 伏見61、 益田61、 川道62、 加納65、 岡島83、 岸本65
以上、岸本
原支部長の乾杯の音頭で宴の開始。料理は先付、前菜から始まり、お口直しの鯛茶漬けの締めまで色取り華やかな京会席。お酒は飲み放題、とは申せ昔のような鯨飲は勿論皆様いたしません。酒の席で出た話題をいくつか
* 不滅の壮年である原さんも、先日の登山で下山中についにひざにガタがきた
* 金剛登山の下りで帰り道を探していた神戸さん、どう間違えたか吉田さんのゴンドワナ研究所に行き着いた
* 昨年末にネパールに行っていた吉田さんから、同地では混乱が収束するにつれて、安心して旅行ができるようになった、との報告
* 嫌がらせ、追い落としにまつわる裁判の顛末を話した川道さんの「こういうことはいつ我が身に降りかかってくるか判りませんよ」の一言が、我々にとってはある種のハラスメントでありました
* 5月に白浜温泉を基点に熊野古道の走破、もしくは熊野三山登山を目指す
どう言う訳か最後の締めの時に恒例になっていた肩を組んで「山の四季」を歌うのを忘れた。終了時間をせかされたせいでしょうか、はたまたいつもの名越さんがいなかったせいでしょうか。かくして07年の新年会は終り、皆様は三々五々、未だ宵の口の京の町を後にされたのでした。
出席者(敬称略、数字は入部西暦年下2桁)
原(真)56、 吉田(勝)57、 相田58、 窪田58、 神戸59、 田中(英)59、 内藤59、 渡辺(尚)59、 伏見61、 益田61、 川道62、 加納65、 岡島83、 岸本65
以上、岸本
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