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記事・消息・ 2015年9月2日 (水)

毎年お盆過ぎ、北大山の会の会員が集まる八ヶ岳山麓の親睦会があります。そこで、ペテガリ岳冬季初登者、今村昌耕氏(97歳)から、ペテガリ初登(1943年1月)のとき巻いたゲートルを最近見つけたと見せて頂きました。ゲートル(guêtre)とは、巻き脚絆です。大戦中の兵が脛に巻いていた包帯状の脚絆です。1930〜40年代の登山では一般的でした。兵だけではなく、労働者の作業着として、また戦争末期には日本男子のユニフォームとなった様です。靴の上から巻き始めて足首をきつく巻き、太さが変わるところで二度折り返してふくらはぎのところは緩く巻くのがコツで、長時間行軍の足の鬱血を防いだとの事です。靴にゴミや雪が入らず、ズボンの裾も薮に引っ掛かりません。

書評・出版・ 2015年8月11日 (火)

トレイルラニングの日本代表選手クラス、ヤマケンの自伝。人の根源の力を発揮するのを阻むブロックのひとつは慾で、それを外していくと力を最大限発揮できる(96p)。これまで競技に縁は無かったけれど「山」という共通点で読んでみました。おもしろかったです。
山本健一
2015.7

記事・消息・ 2015年7月29日 (水)

2015年7月29日日経新聞朝刊 浜名会員寄稿

書評・出版・ 2015年7月15日 (水)

「オオカミが厄介者ではなく、自然や生態系を守り維持していくために不可欠な頂点捕食者である」という生物学者の結論を、行政機関と多くの市民が受け入れて、オオカミ復活を実現させたアメリカのイェロウストン国立公園(を含むワイオミング、アイダホ、モンタナ3カ所)の試みを書いたドキュメンタリ。著者は野生生物保護活動家。訳者は、日本でのオオカミ放獣を目指して1990年代から活動している二人。

巻末の年表より
1926年イェロウストン国立公園で最後のオオカミが殺された。
1944年レオポルド博士オオカミ復活を提唱
1978年生物学者ウィーバー氏が公園内への放獣を提唱
1987年公園内への放獣議案提出
1990年オオカミ補償基金(万一家畜被害の保障)用意
1992年「オオカミ投票」で世論作り
1994年最終環境影響評価書が発行され、野生生物局によるオオカミ再導入の最終的な管理規則を発行。周辺牧場主が差し止め訴訟。
1995年裁判所は差し止め請求を拒否、カナダからのオオカミはY.S.国立公園に8頭放獣された。年末までに21頭に。
1996年更に17頭放獣、年末までに51頭に。
2002年オオカミ数目標値に。
増えすぎたエルク(ヘラジカ)は適正数になり、その後オオカミは100頭前後を維持。
***
アメリカでも、オオカミ放獣の実現に立ちふさがる誤解と利害からくる困難は多くあった。あんなに鉄砲を手放すのが嫌で、既得利益のためにはぶっ放すのが好きそうなヒトが多そうなアメリカだものなあ。こつこつと周りの説得を積み上げていくオオカミ導入支持研究者らの行いが書かれています。相手に敬意を払わない「話にならない反対論者」に対しても敬意を失わず対話を重ねる、ということだけが、最終的に多くの人の支持を勝ち得るのだと感じました。だからこそ議論には時間がかかるのです。「俺が正しい、間違ってるお前は黙れ」というのは言論の自由には含まれない言論なんですね。
訳者のあとがきの中で、北米でのオオカミ絶滅と日本のオオカミ絶滅のつながりについて書いてありました。
オオカミを滅ぼした時代の力は毛皮の狩猟圧だった。欧州で人気の毛皮、クロテンやラッコを数百年かけて北米、極東ロシアで獲り尽くし、海を渡って遂に日本を開国させた。その天敵、獲物を減らす厄介者として、ヒトの利益を横取りするものとして、オオカミは懸賞金付きで殺された。その思想が明治日本にも上陸し、1905年オオカミは日本から居なくなってしまった。
明治維新で日本が失ったもの。たくさんありましたが、オオカミを失った事、100年経っていま、シカの増大で日本の山の荒廃要因の一つになっているのだなあ。
前回、オオカミ放獣に関する書評でも書いたけれど、オオカミ放獣は、「シカ害」という人の利益のためではなく、先祖が犯してしまった罪の痛切な反省のためにも、子孫としてするべき落とし前ではないでしょうか。作ったけれど無用になった山の中の幾多の建造物の完全撤廃なども。21世紀は先祖の尻拭いをする時代です。
ウルフ・ウォーズ
オオカミはこうしてイエローストーンに復活した
ハンク・フィッシャー 著
朝倉裕、南部成美 訳
2015.4 白水社
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【オオカミの護符】
明治に失った日本のオオカミ信仰について、もう一冊です。

実家の土蔵の扉に貼ってあったオオカミの護符を追って、多摩丘陵のそして、秩父の山村集落の習俗と農事の伝統を発見していく本です。川崎の宮前区の丘陵地帯は、ほぼ僕と同世代の著者の子供時代には茅葺き屋根の農村最後の時代だった。川崎の宮前にも古い農民社会が40年前まであったのが驚きです。オオカミ信仰の講中登山を辿って、御岳山、さらには秩父へと話は進んでいきます。著者はその映像記録を撮り始め記録映画を作りました。本書はその書籍化。

僕自身、東京に住んで山に登った期間はわずかだったので、御嶽山(みたけやま)も宝登山(ほどさん)も猪狩山(いかりやま)も、三峰山(妙法ヶ岳、白岩山、 雲取山)も、名前も位置もほとんど知りませんでした。奥深い山と思っていた和名倉山も、以前は中腹まで焼き畑が覆っていた写真を見て驚きました。
今とは違う、線路や道路ではなく、山と川で繋がっていた武蔵国の範囲に読後初めて思いを巡らせました。

そしてテーマのオオカミ。オオカミは作物を荒らすイノシシ、シカを食べる農民の味方。
オオカミのお産のうなりを聴くとシカ、イノシシは逃げることから農民の神となった。うなりを聴く事の出来る「心の直ぐなる者」が、その場に赤飯を持っていき、オボタテ(御産立)というお祀りをした。そこからオオカミの護符信仰が始まったのだった。その行事を覚えていた人に出会うのが終盤の山場です。
とても面白い本でした。武蔵一円に暮らす登山愛好家にお勧めです。

オオカミの護符
小倉美恵子 
新潮社2011

記事・消息・ 2015年7月14日 (火)


20150714北海道新聞夕刊

記事・消息・ 2015年7月9日 (木)

坂本直行さんのスケッチブックが北大山岳館に寄贈されました.現在整理中ですが,今秋に公開する予定で準備をすすめています.

山岳館収蔵品コーナーへ

坂本直行のスケッチブック
(北海道新聞2015年7月3日朝刊)


坂本直行のスケッチブック
(北海道新聞2015年7月8日朝刊)


坂本直行のスケッチブック
(北海道新聞2015年7月9日朝刊)

記事・消息・ 2015年7月7日 (火)

本題が「暑気払いを兼ねて平成時代の登山スタイルとそのスピリットを検証する」と冗談のように長たらしいにも拘らず、集合した7名はビールやワインを飲みながら、写し出される映像を観て、適宜疑問質問をぶつけ意見を交わした。それも結構まじめに。そういえばAACHのAはアカデミックのAであるのを思い出した。
6月27日(土)午後2時、琵琶湖畔の相田さん別邸マンションに集合し、スライドショウを観賞。その後、時間のある人々は風呂につかりマンションで1泊して、翌朝は湖畔や山麓を散策するという会でした。

書評・出版・ 2015年6月11日 (木)

オオカミが日本を救う!
丸山直樹 2014.1白水社

「日本は100年間、頂点捕食者を欠き続けて来た。これから人口減少する日本で、ヒトにはオオカミの代わりは務まらない。」
先週、日本オオカミ協会主催で、シンポジウムがありました。オオカミ復活先進地のアメリカ、ドイツからの報告者を招いて、各地でイベントがありました。残念ながら直接関われませんでしたが、オオカミ放獣に興味を持ち、日本オオカミ協会代表の本を読んでみました。明治中期、ヒトによる組織的な駆除によって滅ぼされたオオカミ。日本の生態系の頂点にいたオオカミを、もういちど日本の山に放つ可能性を語る書です。


オオカミ放獣が一見、荒唐無稽に聞こえるとしたら、それはオオカミに対する大きな偏見に自分が嵌っていることを知るチャンスだと思います。「オオカミはヒトを襲うというのは偏見である」という命題を、近代欧米の事例からあるいは、明治期にいかに政策的にオオカミを駆除し追いやるための濡れ衣として作られた話であるかを、当時の公文書を丹念に調べ、イザベラバードや南方熊楠の事例を挙げ、また現代欧米のオオカミ復活先進地のデータを示し論証します。オオカミを恐ろしいものと思い、拒否反応を示すことを「赤ずきんちゃん症候群」と述べ、著者に寄れば、オオカミ放獣を提唱し始めた20年前から、それが一番の大敵だったとあります。

そして、増えすぎたシカの数を減らすためにオオカミを放獣する、という、人間の都合としての動機にも一言書いています。ヒトの都合で滅ぼしておいて、またヒトの都合で放獣する。未来放獣することがもしあるならば、それは獣害対策という恥知らずな理由ではなく、ヒトの都合で滅ぼしてしまったオオカミと、日本の山に対する償いが動機でなければならないと云う点に、はっとしました。ここのところに一番共感しました。

北米イェロウストン国立公園では1927年にオオカミを駆除してしまいました。その後増えすぎたエルクによる害で生態系が長い時間をかけ蝕まれ、1995年放獣したオオカミによって十数年かけて回復してきた事例をあげています。90年代から合わせて3回訪問するたび、日本の鹿のようにどこにでもいた巨大なエルクがオオカミの放獣後15年後には適正な数になっていたと言います。オオカミが存在するだけでエルクのストレスが高まり、妊娠率も下がる効果に関する論文も紹介されています。

以下に代表的な反論三つとその答えを簡単に挙げます。
?オオカミはヒトを襲う?
→頂点捕食者のオオカミは、鹿が数を減らせば自然に数を減らすもの。人を襲う事例の数は例外的で、ほとんどが狂犬病によるものと見られる。明治以前の公文書にはオオカミは臆病であるとあり、オオカミが凶暴な生き物であるという印象は蛮獣視し絶滅政策をとっててきた偏見によるものが大きい。日本で鹿が数を増したのは、オオカミが消えて以降盛んだった狩猟圧が1980年代以降に減り、その影響である。
?オオカミは家畜を襲う?
オオカミは家畜を襲う。但し日本よりはるかに畜産の盛んな欧州での対策と現実例を紹介。日本の現実から見て、シカ害の環境破壊の深刻さと、ほとんど起きない小規模で数少ない放牧畜産の害とのバランスの問題。欧州のさまざまな対策が面白いです。
?外来種であり生態系の破壊では?
日本で絶滅したオオカミと、現在モンゴル、中国に居るオオカミとの種としての違いは亜種レベルである。頂点捕食者を欠いた不正常な状態を元に戻すことが最も簡単な環境保全方法である。

オオカミ放獣に必要な面積を最低五万ヘクタールとし、ヤクシカ、エゾシカの増えすぎた屋久島、知床半島での可能性について書いています。このあたりの生物群の野外調査を踏まえたシミュレーションもおもしろく読みました。例えば北海道で、どのくらいの地域でオオカミが暮らせるのかを調べるのに、携帯電話の受信不能マップが(2011年時点では)便利、という話もありました。それから5000万ヘクタールをはじき出し、およそ1000頭となります。

沖縄でハブ駆除のためのマングース放獣の失敗事例との比較もおもしろいです。頂点捕食者であるハブ補殺のため天敵でもないマングースを放った無分別な時代が、オオカミを絶滅させた時代と同じなんですね。

鹿のみならず猿害、イノシシ害、カモシカ減少の抑制に関するオオカミ効果の考察もあります。ジビエ解決法の限界もよくわかりました。獣害対策と地域おこしを抱き合わせても駄目というものでした。

オオカミ放獣が、人間の都合のためだけでない点が非常に重要なことだと思います。

オオカミを放つ」は2007年版、「オオカミが日本を救う!」は2014年の改訂、発展版とのことです。

書評・出版・ 2015年6月3日 (水)

ダーチャと日本の強制収容所
未来社 望月紀子
2015.3月
1940年、北大山岳部の冬季ペテガリ岳遠征隊の雪崩遭難事故の際、娘ダーチャの発熱のため入山を遅らせ、遭難直後のBCを訪れた、イタリア人留学生フォスコ・マライーニ氏はアイヌ民俗学研究者として妻、娘と遠路日本に来ていた。戦後は民俗学研究者、写真家、それに登山家として多彩な才能を開き、1960年ガッシャブルム4峰の遠征隊にも参加している。だが戦争末期1943年、単独講和を結んで連合国になった祖国イタリア。一家は反ファシズム側を表明したため、日本の特高に逮捕され名古屋の敵国人強制収容所に繋がれた。その当時のことを、マライーニ、妻のトパーツィア、そして作家になったダーチャのその後の著書や手記などから丹念に追った本。著者はダーチャ・マライーニの作品の翻訳家。
この一家はそれぞれ多くの著書を残しているので、既に明らかにされていることは多いが、マライーニ氏と妻がファシストの父と反目して、本国イタリアのファシズムから逃れて日本への留学を選んだいきさつなど初めて知った。

OBの山行記録・ 2015年5月17日 (日)

果てしなく続く白い稜線を一人進む。ピッケルを刺すとまさにその位置から、ズンという重低音と共にとてつもなく巨大な雪庇が落ち、轟音と共に谷底に消えていく。踏み抜いたら助かりようがないなと肝を冷やし、慎重に進む。疲れ切った一日の終わりの夕焼け、雪洞から這い出て見る朝焼けに感動しながら、一歩一歩進んでいく。満身創痍となって辿り着く終着点の襟裳岬で夕焼けを眺めながら、長かった縦走を振り返って佇む。
 そんなイメージを頭に浮かべながら、ワクワクしていた。予定していた海外遠征が都合により中止となり、そうだ日高全山に行こうと決めてから日々夢想しては心を弾ませていた。入山前からいい山行になる予感がしていた。
 作戦はなるべく軽量化して春の締まった稜線を気持ちよく駆け抜ける。生涯一度の挑戦になるだろうから失敗に終わらないようにはしたいが、そうすると荷物は増えていくばかりだ。なんとか楽古岳までは縦走できるかなという荷物だけ持ち、何もかもうまくいった場合に襟裳岬まで行くこととした。
 
 
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