記事・消息・ 2013年11月9日 (土)
峠越え:7名 車利用:10名、現役:13名(4年目1名、1,2年目6名ずつ) 以上宿泊30名、
日帰り:5名 合計35名が参加
海外遠征や現役の参加の可能性など中身が濃い話が続いたが、全員が自己紹介する前に酔いが回る。ハーモニカ、笛が登場したり、歌を歌った。翌日が現役2年目のG島君の20歳の誕生日で手作りの抹茶シフォンで祝い、ハッピーバースデーを歌った。
小屋前での記念写真後、現役は薪割り、床のワックス掛け後10時過ぎに解散。
記事・消息・ 2013年11月6日 (水)
書評・出版・ 2013年10月31日 (木)

2012年春、8000m峰14座を登った日本で初めての登山家竹内さんの、半生の自伝。以前書籍紹介した「初代・竹内洋岳に聞く」はまだ2009年5月にチョーオユーとダウラギリを残した時点での本だったけれど、ほぼ竹内洋岳を描ききっていた。厚い本だけどおもしろく、すぐ読めました。
https://aach.ees.hokudai.ac.jp/xc/modules/AACHBlog/details.php?bid=629
今回はその14峰完登をうけての執筆で、前回聞き語りだった本ののエッセンスが自筆としてまとめられ、チョーオユーとダウラギリ以降の稿が書かれている。
8000m登山というジャンルはエネルギーを使う無駄な筋肉をつけないために
、特にトレーニングをしないという話、日常意識するのは歩き方だという点は興味深い。二本の足を交互に動かして前進する歩行術こそ、普段おろそかにしていて、奥が深いのではないかと常々思う。これは8000mに限らない。山登りは皆そうだと思う。
「登山は想像のスポーツです。頂上まで行って、自分の足で下りてくる。ただそのために、登山家はひたすら想像をめぐらします。無事に登頂する想像も大事ですが、うまく行かないことの想像も同じように大事です。死んでしまうという想像ができなければ、それを回避する手段も想像できません。私たち登山家は、どれだけ多くを想像できるかを競っているのです。」はとても大切なことばだと思った。
「街の中に潜む見えない危険」で、登下校中の小学生の列に車が突っ込むという事故がなぜ続くのかという話に、それは一列になって歩くから、前の子について歩くことばかり考えて、車を見なくなるからというある保育園のプロの仮説を紹介。「他者から管理されることによって、察知したり、回避したりする力が使われなくなってしまうことがあるのではないか・・・」というくだりに強く共感した。山登りで最も危機感覚を磨けるのは、頼れる人がいない、そして登山道や山小屋の無い、全く管理されていない山中ではなかろうか。
表題の哲学という言葉は大袈裟だと本人も書いているし、僕も始めそう思ったけど、「危険」と「想像」と「歩行術」に関する思索は哲学といえると思いました。
前回も書いたが、山に登りたいという気持ちから手を挙げ先輩について行き、経験を積んで誘われる友人との出会いも生かして歩いてきた気負わないけどぶれていない姿勢を読み取った。このペースの竹内さんだからできたことではないかと云う気がする。
14座とか100名山とか90歳とか、メディアに出やすい数字に、山登りに熱心な人ほどそれほど感じないと思う。そうは言ってもね、8000mの山を死なずに14も登って帰ってくるなんて、やはりこれはなかなかできません。歴史を知っていれば、それに一度でも8000mに行ってみれば。それは本当にそう思う。
書評・出版・ 2013年4月10日 (水)

図書館には絶版になっていた本がたくさんあります。
冠松次郎と云えば今世紀初頭に黒部川を歩きまわり、名著もたくさん。黒部好きなら大好きな登山家ですが、なんと富士山の本も書いていました。山麓の甲府に来ると、こういう本が見つかります。昭和23年の版。厳冬期含め四季を通じ登っていて、どのルートも書いていて、山麓の風物も紹介している。全くよく歩いています。
「富士山は眺むべき山で登る山ではないと云ふてこれに登らず、その遠景を見て満足してゐる者は眞の自然愛好者と云ふ譯には行かない。」
「富士山を眺めてその實體に觸れず、而して富士山の景觀を語らんとすることは難い。あの豪壯荒涼たる風象に接して、さて飜ってこれを顧みその縹渺とした姿を描くところに、兩端を盡したる喜びがある。その山の實體に觸れず、委曲に接せずして山に親しむと云ふことはありえないのである。」
山登りが好きで好きで、どうしても書いてしまいたくて書いたような、こういう本が大好きだ。山の古い本は、輝きがあせない。
子供二人との8月末の山行記録で
「八合目の小舍についたのは午近い頃で、持參した飯盒の飯を茶碗に分けて澁茶をかけ、ツクダニと福神漬とで腹いっぱい押し込んだら、子供たちは忽ち元氣を盛り返した。」富士登山、お茶碗持っていったんかー。
1943(昭和18)年の元旦に、もう少し大きくなった息子と御殿場ルートから砂礫を飛ばすつむじ風を突いて山頂アタックしています。1883年生まれだから60歳。戦争中だけど、このころまではまだ国民は戦争に負けると思ってなくて、本土が焦土になるなんて予想していなかった。原発事故から2年たったちょうど今頃は似ているかもしれません。山岳部のペテガリ初登もちょうどこの月のこと。
「それにしても、何と云ふすばらしい氣持なのだ。あの廣大な裾野を上り、氷壁のやうな山體を、ひと足ひと足に刻みながら、今この頂に上りついて、我を繞る浩蕩たる山川風物の大觀に接した氣持ちは。私たちにでも、この高嶺は、この嚴冬の眞中に、雪の衾を延べ、氷の扉を開いて、水晶宮のやうな燦蓮としたうてなに迎へてくれるのだ。」

なくなった登山道、村山道と須山道についても歩いたうえで書いています。
お中道も、山麓も、それに周縁の山の山行も。良い本を見つけました。
水晶宮のやうな燦蓮とした『うてな』・・・。
こんな古書の書評を書いても誰も読めませんが図書館などにはあるかもしれません。
記事・消息・ 2013年4月9日 (火)





記事・消息・ 2013年2月5日 (火)

京阪神のこの冬は、ごく普通に寒く1月26日の京都は時に雪が舞っていた。会場は京都駅八条口前のホテル。福井からの田中さんは雪による列車運行の乱れを勘案し昼にはホテルに着いておられた様子。
午後3時ごく普通に内藤支部長の乾杯の発声で開始したが、出席者予定者が一人足りず、もしやと思ってご自宅に電話したら電話口に出られた。日にちを間違え1週間前に一度宴会場に来た、との告白もあり、日本は今やごく普通にこう言う時代になったと感慨しばし。
記事・消息・ 2012年11月15日 (木)
3日夕刻、空は雲に覆われているも雄松浜あたりは打ち寄せる波も穏やかで、対岸の島影には薄っすらと夕陽が当たっている。湖畔での焚き火準備におさおさ怠り無く、愛用のノコやショベルを持参した須田さんがザックから道具を取り出すのももどかしく、そのノコを掴んだ内藤さんは、目星をつけた枯れ木に切りかかった。(記:岸本)
記事・消息・ 2012年10月31日 (水)
1年目につい最近入部したというK君は何と1978入のサスネ君の息子だという。久々の話題である。また同じく1年目のG君が誕生日というので、誕生祝を昨年もらった紅一点のY嬢からの提案で彼にもケーキのお祝いがあった。
彼女は主任幹事を終えた4年目のI君に絡むと宣言して1対1で酒を交わしたが見事に負けて二日酔い。最後川に倒されたようで、翌朝も靴がびしょ濡れだった。OBは11時過ぎには就寝、現役は1時過ぎまで飲んでいたようだ。
ヘルベチア委員会も開催。3名の委員会であったが、今回山の会会長の推薦で私の後任はS君と内定。彼は現役山行の面倒も見るが私と同じ会社オーナーだから他の人よりは時間が取れるということで決まり。私も少し肩の荷がとれるが相変わらず小屋の薪や刈払いなど仕事絡みで関わりは切れないので、今までどおりバックアップはする予定。
晩秋のべチアを後にし、定山渓あたりが紅葉真っ盛りであった。
記事・消息・ 2012年9月28日 (金)
記事・消息・ 2012年8月14日 (火)
2011年 8月2日〜10日に豊橋で開催された「国際地質学史委員会(INHIGEO)2011年大会」で,吉田・渡辺両会員が発表した「地球科学の進歩における大学山岳部の役割−Academic Alpine Club of Hokkaidoの例」のFull Paper(英文)が、今回会議の論文集「Visual Images and Geological; Concepts: Proceedings of INHIGEO 2011 Japan」に収録、公表され
ました.
AACHアーカイブサイトに収録しましたので,ログインしてご覧下さい
PDFファイル(約1MB)(要ログイン)
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