記事・消息・ 2018年10月30日 (火)
10/27〜28、OB8名、現役16名で計24名と現役がOBの2倍という
画期的な祭りとなった。
銭函峠越えは札幌に大雨警報が出てあきらめる。午後には回復して晴れ間も。
小樽内川は増水もしていなくきれい。せっかく現役4年目が峠越えに
参加と手を挙げたのに行けたかも。

17時過ぎ暗くなった頃スタート
今回年長のY三さんの挨拶と現役主任幹事の乾杯で前夜祭が始まる。
途中小雨もあったが月も出て焚火を囲む。自己紹介や近況を、酒が進むに
つれ日が変わるまで歌を歌って交流。

自己紹介や近況アピール
女子も増えて華やぐ

翌朝は9時前にようやく朝食。暗いうちから起きている元気な者もいた

具だくさんのうどんで酔いと目を覚ます
本祭は昨年90周年でそれなりにやったのでメイン行事は記念写真。
それでも昨年ロタさん渾身作の記念ボードを壁に飾る。

お決まりの集合写真
部旗は去年と同じ下絵デザイン
今年は旗を作るように現役に指示
3人が峠越えで帰る。残った者は薪割り、掃除、床磨きと外壁塗装して11時解散。
お疲れ様でした。
画期的な祭りとなった。
銭函峠越えは札幌に大雨警報が出てあきらめる。午後には回復して晴れ間も。
小樽内川は増水もしていなくきれい。せっかく現役4年目が峠越えに
参加と手を挙げたのに行けたかも。

17時過ぎ暗くなった頃スタート
今回年長のY三さんの挨拶と現役主任幹事の乾杯で前夜祭が始まる。
途中小雨もあったが月も出て焚火を囲む。自己紹介や近況を、酒が進むに
つれ日が変わるまで歌を歌って交流。

自己紹介や近況アピール
女子も増えて華やぐ

翌朝は9時前にようやく朝食。暗いうちから起きている元気な者もいた

具だくさんのうどんで酔いと目を覚ます
本祭は昨年90周年でそれなりにやったのでメイン行事は記念写真。
それでも昨年ロタさん渾身作の記念ボードを壁に飾る。

お決まりの集合写真
部旗は去年と同じ下絵デザイン
今年は旗を作るように現役に指示
3人が峠越えで帰る。残った者は薪割り、掃除、床磨きと外壁塗装して11時解散。
お疲れ様でした。
書評・出版・ 2018年6月30日 (土)
冒険とは脱システムであり、探検とはそこで何かを探すこと
「別位相の地球」である極夜行という探検を発見した著者には、冒険を発見する才能がある。「極夜行」は本人のあとがきによれば、およそ10年近く前のヤルツァンポ川空白部探検記以来の、「生涯を代表する探検行」である。狙いを定め、何年も準備し、グリンランド北西海岸の地理的状況や気象、雪氷、野生動物の特性を予備探検で経験した上で、80日間太陽の登らない極夜を探検する。誰にもわかりやすい到達点はない。だが、日が昇らない極夜をこれだけ長期間旅行し、そのあとに太陽を見た者はこれまでにいない。仕込んだ準備はすべてひっくり返され、行くか戻るか苦渋の判断あり。ここはクライマックスか、と思う局面は多々あるが、最後の最後まで旅は安心できない。
月と星の巡りについても考える。暗黒の中、月の複雑な動きに行動は支配される。冬季登山でも、満月で好天の夜のほうが、日中悪天のときよりもよほど行動し易く、そこを狙う事がある。極地では日が昇らなくても月は沈まない、いわば「月の白夜」のような状態もある。極夜の季節には太陽の24時間制には意味がない。月は毎日1時間ずつ出が遅くなっていくから一日は約25時間となる。こうした、経験のない異世界で新しい秩序を発見し、行動の方法自体を手探りで編み出していく行いこそが、角幡の求める探検だ。漆黒の闇が次第に心を蝕み、ものの輪郭を奪う世界の中で、人と犬、人と闇、人と太陽、誕生と光の根源の意味を知る。極夜の日々、異形の怪物が次々と現れ、暗い世界を通り抜けていく話は、暗く長いトンネルをひたすら歩いていく村上春樹の「騎士団長殺し」などの物語を思い起こさせる。
「冒険とは脱システムであり、探検とはそこで何かを探すこと」角幡はGPSを持たず、六分儀(星を測量して現在地の緯度経度を測るアナログ測定器)も出発早々強風で失い、25万分の1地形図とコンパスだけで旅を貫徹する。 「いまどき極地探検でGPSを持たないのは世界中でおそらく私一人だ」という。 「冒険登山のすすめ」という高校生向けの登山指南書で、私は「GPSはやめましょう」と書いた。過程無しで回答だけを示すGPSを山に持っていくのは不愉快である。自分が何かに操られているとさえ感じ、山登りで一番大切な「今どこに居るのかわからないかもしれない」という不安と山への畏怖、そして社会と無縁になった自由を損なうと思うからである。
このことに関する考察が、続く最新刊の「新・冒険論」で厚く書かれる。管理されたシステムから越境し、前例のない混沌の中で、命の危険という代償を感じながら、自分自身の行動を判断する自由、それを味わうのが冒険の真髄なのだと。
「新・冒険論」では、「極夜行」で特定の目的地が特に無かった理由と、彼に冒険を発見する才能があると私が感じた理由もすっきりと明らかになる。現代の冒険の行き詰まりは、今やどこにもない人跡未踏の目的地に縛られているせいなのだと。また、私に騎士団長殺しを思い起こさせた理由もこの本で説明される。古代以来の各地の英雄の冒険物語の類型には招請、脱システム、異世界での戦いと勝利、帰還のメタファーが含まれていると。そして現代の探検が、単独、無補給、最年少、最高齢というような身体機能の優劣を競うスポーツ的な探検業績は競っても、GPSに頼らない、通信手段を持たないというような精神的な探検条件にこだわる者がまるでいないという指摘には、角幡氏が冒険とは何かを誰より考えて、実践してきたことを納得する。紹介図書のナンセン、金子民雄、本多勝一の時代とは比べ物にならないほどシステム(人の行動を管理、制御する無形の体系)が強固になったこの時代に、あらためて解題してほしかった冒険論である。
その著者の、「極夜行」の中で衛生携帯電話で家族に連絡する下りと、その言い訳には驚いた。いや、幻滅したという意味ではない。家族というシステムは、持ってみなければわからないものなのだから。毎度一級の探検紀行を読ませてくれる42歳の探検家の行方は楽しみだ。実践を伴うこの書き手が同時代に居てくれてうれしいと思う。
この角幡冒険論の文脈のままで、続いて池田常道氏の「ヒマラヤ 生と死の物語」を読んだ。マロリー、メルクル、エルゾークから山野井泰史のギャチュンカン生還までの13章が、大急ぎのダイジェストでまとめられている。ほとんどの話をそれぞれ一冊の本として読んだ覚えがあるほど、どれも有名な遭難記だ。確かな高所登山方法論も確立していなかった手探りの1950年代以前のヒマラ黎明期の冒険時代から、次第に高所と登攀の技術が確立され、手順化、競争化された70年代。80年代の有名峰登山者が増え始めた時代の多重遭難、90年代以降の完全に「システム内」の公募登山隊の遭難や救助登山など。
思えば80年代に山を始め、90年代にヒマラヤに関わった私の世代から見ると、21世紀の今日、公募ツアーではなく、一部のピオレドールクラスのクライマーでもない、セミプロ登山愛好家によるヒマラヤ遠征隊の話をほとんど聞かなくなってしまった。冒険とは何か、自分はヒマラヤにまで出かけていったい何をしたいのか?中間層レベルの登山愛好家は今の時代にこそ問い直したい。ヒマラヤだけではない。ウラヤマでも冒険の発見はできると私は思う。
この遭難記集の中で、脱システムで冒険的であるという点において、山野井泰史の記録は21世紀にあって尚、光を放つ。悪天のなか山頂直下で、「気温は零下三十度にはなっていただろう。右足にはまったく感覚がないが、頂への情熱はもはや抑えきれず、むしろ高みに上るにつれ、いま、登攀に人生を賭けているという喜びでいっぱいになった。」孤立無援の中で自分の命を自分の責任で操縦している満足感。この言葉にガツンと来た。
Rock &Snow 2018.夏号に掲載
「別位相の地球」である極夜行という探検を発見した著者には、冒険を発見する才能がある。「極夜行」は本人のあとがきによれば、およそ10年近く前のヤルツァンポ川空白部探検記以来の、「生涯を代表する探検行」である。狙いを定め、何年も準備し、グリンランド北西海岸の地理的状況や気象、雪氷、野生動物の特性を予備探検で経験した上で、80日間太陽の登らない極夜を探検する。誰にもわかりやすい到達点はない。だが、日が昇らない極夜をこれだけ長期間旅行し、そのあとに太陽を見た者はこれまでにいない。仕込んだ準備はすべてひっくり返され、行くか戻るか苦渋の判断あり。ここはクライマックスか、と思う局面は多々あるが、最後の最後まで旅は安心できない。月と星の巡りについても考える。暗黒の中、月の複雑な動きに行動は支配される。冬季登山でも、満月で好天の夜のほうが、日中悪天のときよりもよほど行動し易く、そこを狙う事がある。極地では日が昇らなくても月は沈まない、いわば「月の白夜」のような状態もある。極夜の季節には太陽の24時間制には意味がない。月は毎日1時間ずつ出が遅くなっていくから一日は約25時間となる。こうした、経験のない異世界で新しい秩序を発見し、行動の方法自体を手探りで編み出していく行いこそが、角幡の求める探検だ。漆黒の闇が次第に心を蝕み、ものの輪郭を奪う世界の中で、人と犬、人と闇、人と太陽、誕生と光の根源の意味を知る。極夜の日々、異形の怪物が次々と現れ、暗い世界を通り抜けていく話は、暗く長いトンネルをひたすら歩いていく村上春樹の「騎士団長殺し」などの物語を思い起こさせる。
「冒険とは脱システムであり、探検とはそこで何かを探すこと」角幡はGPSを持たず、六分儀(星を測量して現在地の緯度経度を測るアナログ測定器)も出発早々強風で失い、25万分の1地形図とコンパスだけで旅を貫徹する。 「いまどき極地探検でGPSを持たないのは世界中でおそらく私一人だ」という。 「冒険登山のすすめ」という高校生向けの登山指南書で、私は「GPSはやめましょう」と書いた。過程無しで回答だけを示すGPSを山に持っていくのは不愉快である。自分が何かに操られているとさえ感じ、山登りで一番大切な「今どこに居るのかわからないかもしれない」という不安と山への畏怖、そして社会と無縁になった自由を損なうと思うからである。
このことに関する考察が、続く最新刊の「新・冒険論」で厚く書かれる。管理されたシステムから越境し、前例のない混沌の中で、命の危険という代償を感じながら、自分自身の行動を判断する自由、それを味わうのが冒険の真髄なのだと。
「新・冒険論」では、「極夜行」で特定の目的地が特に無かった理由と、彼に冒険を発見する才能があると私が感じた理由もすっきりと明らかになる。現代の冒険の行き詰まりは、今やどこにもない人跡未踏の目的地に縛られているせいなのだと。また、私に騎士団長殺しを思い起こさせた理由もこの本で説明される。古代以来の各地の英雄の冒険物語の類型には招請、脱システム、異世界での戦いと勝利、帰還のメタファーが含まれていると。そして現代の探検が、単独、無補給、最年少、最高齢というような身体機能の優劣を競うスポーツ的な探検業績は競っても、GPSに頼らない、通信手段を持たないというような精神的な探検条件にこだわる者がまるでいないという指摘には、角幡氏が冒険とは何かを誰より考えて、実践してきたことを納得する。紹介図書のナンセン、金子民雄、本多勝一の時代とは比べ物にならないほどシステム(人の行動を管理、制御する無形の体系)が強固になったこの時代に、あらためて解題してほしかった冒険論である。その著者の、「極夜行」の中で衛生携帯電話で家族に連絡する下りと、その言い訳には驚いた。いや、幻滅したという意味ではない。家族というシステムは、持ってみなければわからないものなのだから。毎度一級の探検紀行を読ませてくれる42歳の探検家の行方は楽しみだ。実践を伴うこの書き手が同時代に居てくれてうれしいと思う。
この角幡冒険論の文脈のままで、続いて池田常道氏の「ヒマラヤ 生と死の物語」を読んだ。マロリー、メルクル、エルゾークから山野井泰史のギャチュンカン生還までの13章が、大急ぎのダイジェストでまとめられている。ほとんどの話をそれぞれ一冊の本として読んだ覚えがあるほど、どれも有名な遭難記だ。確かな高所登山方法論も確立していなかった手探りの1950年代以前のヒマラ黎明期の冒険時代から、次第に高所と登攀の技術が確立され、手順化、競争化された70年代。80年代の有名峰登山者が増え始めた時代の多重遭難、90年代以降の完全に「システム内」の公募登山隊の遭難や救助登山など。思えば80年代に山を始め、90年代にヒマラヤに関わった私の世代から見ると、21世紀の今日、公募ツアーではなく、一部のピオレドールクラスのクライマーでもない、セミプロ登山愛好家によるヒマラヤ遠征隊の話をほとんど聞かなくなってしまった。冒険とは何か、自分はヒマラヤにまで出かけていったい何をしたいのか?中間層レベルの登山愛好家は今の時代にこそ問い直したい。ヒマラヤだけではない。ウラヤマでも冒険の発見はできると私は思う。
この遭難記集の中で、脱システムで冒険的であるという点において、山野井泰史の記録は21世紀にあって尚、光を放つ。悪天のなか山頂直下で、「気温は零下三十度にはなっていただろう。右足にはまったく感覚がないが、頂への情熱はもはや抑えきれず、むしろ高みに上るにつれ、いま、登攀に人生を賭けているという喜びでいっぱいになった。」孤立無援の中で自分の命を自分の責任で操縦している満足感。この言葉にガツンと来た。
Rock &Snow 2018.夏号に掲載
書評・出版・ 2018年5月31日 (木)
個人的な本だ。彼を知る人達にとって大切な一冊だ。僕には24年前、1994年に、四川ヒマラヤのミニヤコンカで29歳で死んだ、同期の山仲間がいた。彼はワンゲル、僕は山岳部で、日高に、大雪に、知床に、北海道の流儀でとことん山に登った。福澤はパタゴニアの雪氷調査に、僕はネパール・ヒマラヤの植物採集調査に、OBで教授の先生の山岳学術調査の助手としてタダで3ヶ月連れて行ってもらってひと皮むけた。優秀な彼は、雪崩研究者としてその後、期待されるほどの業績を上げた。その上、当時ようやく始まった雪崩レスキューの講習会を主催し、ビーコンを普及する活動の中心の一人になった。講師をする彼を、僕がTVニュースで取材し放送したこともあった。
ワンゲル後輩の奥様アキさんと、卒業するなり結婚式をあげた。福澤のように芸達者なワンゲル仲間がケーナやギターで南米音楽で踊りまくる、すごく楽しい宴席だった。92年、僕は楽しかった8年間の札幌暮らしを終え、別の町で新しい山登りや仕事に励んでいた。20代、30代の僕は、自分自身でもある程度死を覚悟していただけに、山で友人が死ぬことにどこか慣れてしまっていたのかもしれない。2年後に福澤がミニャコンカで死んだと聞いたとき、彼の気持ちになって少し涙ぐんだりはしても、残されたアキさんや両親の気持ちなどに寄り添えるほどの人物にはなっていなかったと思う。
大切な人をなくした後、どうやってその後を生きていくのか。24年かかって今回ようやくこの本が出来上がった。多才な彼の写真、詩、絵。それに彼が才能を発揮し人望を集めた芸や人付き合い、料理。独自の発想と強い意志で成果をものにした研究のうちこみ様がみんなの文章からよみがえる。幼なじみからワンゲルのみんな、研究室の仲間、先輩、学会の先輩、それに当時の女子中学生の自由研究の相談にまで乗っていたんだね。その子も文章を寄せてくれていた。この追悼集はアキさんが長くて暗いトンネルから這い出て、彼と夢で再開し、みんなのところを訪ね、24年目にようやく世に出たものだ。今だから、時間をかけたから書けた深みある言葉も多い。なのに福澤本人の素直で実直ながらも早熟な、完成された詩篇の数々。やはりあいつは、一段上を行く秀才だったと思う。
29歳から24年経って、いまもうみんな50を超えてしまったよ。
死者との別れは無い。僕が思い出すとき、彼は生き返っている。
2018年3月20日発行
記事・消息・ 2018年2月8日 (木)
日時:2018年1月27日(土)16:00〜19:45
場所:温石 左近太郎 本店
参加者(敬称略、数字は入部年19**、または20** ):17名(吉田57、相田 58、高橋 59、内藤59、渡辺(尚)59、伏見 61、川道62、須田 62、名越 63、岸本 65、福本66、川井74、宮本 82、岡島 83、多田86、田中10、工藤12)
今年の新年会は、趣向を変えて、古い街並みを残す京都木屋町通り高瀬川沿いの料理屋で開催した。
関西支部長の川道さんの乾杯の挨拶の後、次々にフグ料理が運ばれる。そう、今年の新年会ではフグを満喫することになったのである。
残念ながら、福井県在住の田中さん(59入部)ご夫妻が、急遽、雪のため不参加となったが、今回、二人の若者が初めて参加することとなった。
大学卒業したばかりの田中君と工藤君である。
やはり、若者が参加すると会員諸氏の自己紹介にも熱が入る。各自の近況を交え、専門分野、社会貢献、登山の話等の新旧交えた話題を酒の肴に時間を忘れて宴会は進んでいく。
この間、会員たちは、飲み放題をいいことに、学生時代を彷彿させる量の京都の地酒を次々に飲み干した。
最後は、昨年の新年会で、関西から離れると告白していた伏見さんがご挨拶。今回は本当に関西を離れるとのこと。いつも写真を提供いただきありがとうございました。
締めは岡島君の前口上で山の四季を歌い4時間近くにも及んだ大宴会はお開きとなった。
その後、若い二人を含む有志数名は、先斗町の街並みに消えていった。
余談になりますが、今回、新年会の案内を関西支部のみにアナウンスしました。しかし、このような集まりは広く山の会全体にお知らせすべきとの声が上がりましたので、今後は関西支部以外の方々にも開催案内を送るようにします。関西方面にいらっしゃる方がいましたら、積極的なご参加お待ちしています。
(記:宮本、写真:伏見、宮本)
場所:温石 左近太郎 本店
参加者(敬称略、数字は入部年19**、または20** ):17名(吉田57、相田 58、高橋 59、内藤59、渡辺(尚)59、伏見 61、川道62、須田 62、名越 63、岸本 65、福本66、川井74、宮本 82、岡島 83、多田86、田中10、工藤12)
関西支部長の川道さんの乾杯の挨拶の後、次々にフグ料理が運ばれる。そう、今年の新年会ではフグを満喫することになったのである。
残念ながら、福井県在住の田中さん(59入部)ご夫妻が、急遽、雪のため不参加となったが、今回、二人の若者が初めて参加することとなった。
大学卒業したばかりの田中君と工藤君である。
この間、会員たちは、飲み放題をいいことに、学生時代を彷彿させる量の京都の地酒を次々に飲み干した。
最後は、昨年の新年会で、関西から離れると告白していた伏見さんがご挨拶。今回は本当に関西を離れるとのこと。いつも写真を提供いただきありがとうございました。
締めは岡島君の前口上で山の四季を歌い4時間近くにも及んだ大宴会はお開きとなった。余談になりますが、今回、新年会の案内を関西支部のみにアナウンスしました。しかし、このような集まりは広く山の会全体にお知らせすべきとの声が上がりましたので、今後は関西支部以外の方々にも開催案内を送るようにします。関西方面にいらっしゃる方がいましたら、積極的なご参加お待ちしています。
(記:宮本、写真:伏見、宮本)
記事・消息・ 2018年1月24日 (水)
薪ストーブが歪んできたので更新をお願いしていたもの。90周年の祭りには間に合わなかったが学生支援課から注文が来て雪の上を橇に載せて納品。

左が32年前の古いストーブでこれを作った三笠の船本工業という鉄工所に今回も作ってもらった。ほぼ同じ形で4mm厚の鉄板で手作りだ。
新しいストーブに点火式をする羽月君。曲がりも新調、他にデレッキやミニスコップ、蓋を引き上げるリフターもおまけに付けてもらった。これでまた30年位活躍してくれるでしょう。
12/14の積雪状況 書き込みが1か月も過ぎてしまったが、この時の積雪はようやくテラスのちょっと下の高さ。
左が32年前の古いストーブでこれを作った三笠の船本工業という鉄工所に今回も作ってもらった。ほぼ同じ形で4mm厚の鉄板で手作りだ。
記事・消息・ 2017年11月3日 (金)
日時:2017年10月28日(土)16:00〜22:00
場所:ヴェルドール琵琶湖102号室
参加者(敬称略、数字は入部年19** ):相田 58、高橋 59、田中(英) 59、渡辺(尚) 59、伏見 61、川道62、須田 62、名越 63、岸本 65、宮本 82、岡島 83
今年の月見の会は、新支部長の川道さんが初めて参加されたが、残念ながら季節外れの台風が接近。いつものように琵琶湖畔での焚火は果たせなかったが、急遽、宿泊予定のリゾートマンションの一室で開催することとなった。
過去20数年の月見の会の歴史の中、屋内開催は初めてということ。やはり、地球温暖化の影響だろうか。しかし、賢明な幹事は、室内開催も予想して、焼肉用ホットプレートや鍋の材料を準備していたため、難なく宴会に突入。
室内での開催だが、要は古い仲間と酒を飲み交わすことができれば問題はなく、ヘルヴェチアのあり方、空沼小屋の行く末について、それぞれ持論を展開。結論のない議論が続いた。
途中、相田さん着用の部章がプリントされた黄色いトレーナーを皆が欲しがり、高橋前支部長から関西支部でもTシャツを作ろうとの発案。もし、作ったら、「私は10着買う」「いやいや私は20着買う」「札幌でも販売しよう」と話がどんどん大きくなるが、来年また議論しようということになった。
最後は寮歌や山の歌で大いに盛り上がり、山の四季、都ぞ弥生を歌って6時間にも及んだ大宴会はお開きとなった。
翌日も台風通過の影響もあり、恒例の比良登山や山麓散策は行わず、徐々に強まる雨の中、来年1月の新年会での再会を約束して解散した。
(記:宮本、写真:伏見、宮本)
場所:ヴェルドール琵琶湖102号室
参加者(敬称略、数字は入部年19** ):相田 58、高橋 59、田中(英) 59、渡辺(尚) 59、伏見 61、川道62、須田 62、名越 63、岸本 65、宮本 82、岡島 83
室内での開催だが、要は古い仲間と酒を飲み交わすことができれば問題はなく、ヘルヴェチアのあり方、空沼小屋の行く末について、それぞれ持論を展開。結論のない議論が続いた。
最後は寮歌や山の歌で大いに盛り上がり、山の四季、都ぞ弥生を歌って6時間にも及んだ大宴会はお開きとなった。
翌日も台風通過の影響もあり、恒例の比良登山や山麓散策は行わず、徐々に強まる雨の中、来年1月の新年会での再会を約束して解散した。
(記:宮本、写真:伏見、宮本)
記事・消息・ 2017年10月30日 (月)
今年も峠越えで歩いてきたのはOBばかり。現役は赤岩帰りとOBの車に便乗して、1人主任幹事のみチャリ。前田OBからは現役が最近峠を歩いて来ないのは怪しからんと激が飛ぶ。それでも昨年より5名多い参加でゲストと当日朝の参加を入れないと前夜祭は現役がOBの数を上回り、若さと賑やかさで嬉しい。
現役会費をタダにしてるのでOBは4000円会費。私のセンスで祭りでは手を抜かずに酒もメニューも上等に行こう、としているので現役比率が増えてかなりの負担。現役も少しは会費取ろうという意見や、昔は酒とおつまみ位しかなかったので贅沢では、という声もあり再検討が必要かも。私としてはこの時ばかりは現役も腕を振るってうまい料理を作るというのを続けたい。年金生活の歳寄りには厳しいものがあろうが、粗末な食生活で我慢している現役には振る舞いたい。
現役は外に寝る者も数人。小屋の周りには雪が少し残っていたが、夜暖かく解けてしまった。朝今村(1956入)夫妻も美味しいリンゴパイやクッキー持参で現る。朝食と90周年式の前後では薪割り、外壁塗り、床磨き、煙突掃除、小屋までの道の補修などもしっかり作業。
85周年の時にはグブラー子息も呼んで大々的なセレモニーがあったので、今回は質素に。それでも挨拶では90年の流れを伝え、伊藤秀五郎大先輩の小屋の周りを読んだ詩を披露。歌は山の四季と森田君(1973入)が現役時代に作った「ヘルヴェチア乾杯の唄」を前夜祭で練習して、朝来た本人の前で披露。
いつもは本祭りは記念写真だけで済ませていたが、何と佐々木ロタ(1955入)が昔の祭り写真にあった通りのドイツ語のひげ文字で看板を作ってくれた。それに女子の部員とゲスト(同志社大山岳部OG)がマツでリースを作ってくれて、紛失したらしい部旗を私が再現したものを壁に飾った。いつもより祭りらしくしてOBと現役との空沼小屋再開式に続く交流も深まった。
記事・消息・ 2017年5月28日 (日)
北大山岳部が伝説としてきた昭和18年冬期ペテガリ岳初登者、今村昌耕氏が4月に99歳でなくなりました。今日は東京でそのお別れ会があり、お弔いの人がたくさん集まりました。
北大山岳部にとってペテガリは、エヴェレストより崇高な頂です。90年間の全ての部員の憧れの山であり続けました。昭和15年の、8人遭難の雪崩事故を経て、亡国の予感漂う時代のギリギリの冬に、物量作戦ではない軽量速攻戦術でかろうじて成功させた冬期初登でした。その本人が生きて話を聞かせてくれるということは、例えていえば共同体にとってのナンセンやティルマンがまだ生きていて、語り合えている奇跡のようなものでしょうか。冬期のペテガリをコイカク山頂のイグルーから15時間かけて往復することの困難を、年齢差80年の現役学生まで含めて皆、体で知って共有しているからこその敬意でした。
氏は99歳だというのに最期まで思考も言葉も全て明晰でした。私たち含め現役学生たちとも、戦中の山登り事情や、その後徴兵され軍医として軍艦で重傷を負った話を始め様々な分野の話など語ってくれました。
復員後は山と関わらず、一貫して結核予防、治療の活動に身をささげました。医師として山谷の労働者の結核診療の活動を何十年も続けていました。宿無しで生きる、未来の望みを持たない患者の元に何十年も足繁く通い続けた活動も今日の会では紹介されました。
最後の晩御飯を全部食べて寝床に入ってそのまま亡くなったそうです。
死の準備を着々とこなし、為すべきことを成し、多くの人に慕われて最期を迎えました。偉業を成した人は、聞かれなければそんな話を自分からは決してせず、相手の話を上手に聞いてくれました。うちの中一娘もお弔いに行きたいと出かけてきました。
ここ十年ほど、氏の書いた様々な貴重な手記の数々の原稿を、会報編集担当として校正し手伝うことができたことがありがたかったです。歴史的仮名遣いや旧字体の原稿を読んで、旧制帝大学生のインテリジェンスを感じ得ることができました。
自分の老いていく姿の、かくありたいというロールモデルとしていつも見ていました。
2018年5月27日
https://aach.ees.0g0.jp/xc/modules/AACHBlog/details.php?bid=721
北大山岳部にとってペテガリは、エヴェレストより崇高な頂です。90年間の全ての部員の憧れの山であり続けました。昭和15年の、8人遭難の雪崩事故を経て、亡国の予感漂う時代のギリギリの冬に、物量作戦ではない軽量速攻戦術でかろうじて成功させた冬期初登でした。その本人が生きて話を聞かせてくれるということは、例えていえば共同体にとってのナンセンやティルマンがまだ生きていて、語り合えている奇跡のようなものでしょうか。冬期のペテガリをコイカク山頂のイグルーから15時間かけて往復することの困難を、年齢差80年の現役学生まで含めて皆、体で知って共有しているからこその敬意でした。
氏は99歳だというのに最期まで思考も言葉も全て明晰でした。私たち含め現役学生たちとも、戦中の山登り事情や、その後徴兵され軍医として軍艦で重傷を負った話を始め様々な分野の話など語ってくれました。
復員後は山と関わらず、一貫して結核予防、治療の活動に身をささげました。医師として山谷の労働者の結核診療の活動を何十年も続けていました。宿無しで生きる、未来の望みを持たない患者の元に何十年も足繁く通い続けた活動も今日の会では紹介されました。
最後の晩御飯を全部食べて寝床に入ってそのまま亡くなったそうです。
死の準備を着々とこなし、為すべきことを成し、多くの人に慕われて最期を迎えました。偉業を成した人は、聞かれなければそんな話を自分からは決してせず、相手の話を上手に聞いてくれました。うちの中一娘もお弔いに行きたいと出かけてきました。
ここ十年ほど、氏の書いた様々な貴重な手記の数々の原稿を、会報編集担当として校正し手伝うことができたことがありがたかったです。歴史的仮名遣いや旧字体の原稿を読んで、旧制帝大学生のインテリジェンスを感じ得ることができました。
自分の老いていく姿の、かくありたいというロールモデルとしていつも見ていました。
2018年5月27日
https://aach.ees.0g0.jp/xc/modules/AACHBlog/details.php?bid=721
書評・出版・ 2017年4月19日 (水)
この長いカタカナ地名の山行記録の記録タイトルを読んで、脳内の地図上にルートを描ける人はいかばかりいようか。日高にぞっこんの経験を持ち、地形図を穴があくほど見続け、通い続けた岳人だけのリテラシー(読解力)が求められる書だ。5日以上の日程で日高に数多通った経験を持つ人だけが、記録のひとつひとつに地図説明のないこの本の山行記録を読んで理解ができるのではないだろうか。その点読者にはハードルが高い。だがそれを補うようにすばらしい写真や絵の数々がこの書の魅力だ。
もとより、この本をガイド本として読んではならない。カムエク沢やピリカ南面沢を目指す者が、いちいちテクニカルな情報を事前に得るというものでもないだろう。島田茂氏が、どのような気持ちでひとつひとつの山行に立ち向かい、どのように感じてきたかを読み取れば良いと思う。その点でも、島田氏の奥様との結婚前からのハードな山行の記録集は羨ましいの一語に尽きる、その後の「もう帰ってこなくてもいい」とまで言われたカムエク単独冬季山行のことまで含めて。人の人生の山に打ち込む時期の長さには長短がある。かつての戦友も変わる。これだけの山行を続けたことのある者であれば、誰しも思い至り共感することではないだろうか。もちろん女には女の言い分がある。もちろんだ。こんな宿六亭主には、そのぐらい言うことだってある。言っていいのだ、和子さん。
写真、スケッチ、遡行図とも本当にすばらしい。こんなふうに絵がかけたらなあと羨ましく思う。記録が山域別なので、時系列が行ったり戻ったりして、島田氏の個人史としての成長具合が追いにくかったかもしれない。とはいえ、記録をすべて読み、最後にすべての山行一覧を見ると島田氏の日高山行がすんなり進んだわけではないことがわかる。
学生時代は初級の沢と長距離の山行にとどまり、冬季の主稜線大縦走や難関沢への挑戦は5年目以降で、それも和子さんと共に20代の成長を遂げている。しかし30代になり、冬季縦走や難関沢に2のっこし(登って降りる×2)の10日を超える山行に付き合ってくれる仲間は居なくなる。30代後半にしてはじめて、一人での冬季長期山行(カムエク)に行く。これが彼の転換点と思う。普通はここで難関沢1のっこしか、3日で行ける日高の端っこの山を仲間とやりくりして諦めるのだが、ここからが彼の単独山行のはじまりになった。その後40代の彼は一覧を見るとほとんど単独山行での大きな記録を続けている。そして53歳でカムエク南西稜から東へ単独で東西縦走。
この本は、削いで削いで出来上がったのだと思うけれど、その隙間にこぼれた数々の山行ももっと見たい、そう思わせる記録集だった。
日高山脈こそは週末登山者などお呼びでない、空間的時間的に安心安全便利社会とは離れた本当の山登りが残っている、分かりにくく近づき難き山脈なのだと思う。日高横断道路なんかできなくなって本当に良かった。
表題の「無名峰」は、世間的には無名かもしれないけれど、日高の奥に燦然と輝く無名の峰、無名の沢の数々を知る、島田茂本人のことだと思った。表紙写真にもある究極の無名峰、1839m峰が、島田さんと和子さんにとって最も大切な山であったことも。大切なものには名前がない、大切なものは目に見えない。
大樹町で生まれ育ち日高を尽くした人生。60歳でこの本を出せた島田茂氏の人生は、大成功だった思う。私の10年前の世代。私も今後の10年を大切に生きていきたい。
3000圓(札幌秀岳荘・送料は360圓ゆうぱっく)
書評・出版・ 2017年3月23日 (木)

岳人4月号2017年
深田久弥の百名山を特集する企画であり、名のある人が名のある山を紹介する冒頭に続いて、百名山漏れの名山紹介や、冬季限定百名山を登っているサンナビキの梶山正氏の紹介記事に並んで松原憲彦会員(1990年入部)の「沢から登る百名山」のインタビュー記事があります。
「百名山」は手あかのついた言葉だが、深田の著書としての百名山は何十年にもわたって登るたび読み返す名著だと思います。松原会員も「百名山は当たり前ながらいい山ばかり」であり、避ける理由は全くない。あるとすれば人が多すぎるというただ一点のみ。ならば人のいない百名山登山となれば「沢」か「冬」がいい。やはり人がいないということは山登りの最大の魅力です。いや、山登りの魅力の本質は、大自然の中の孤独と自由でしょう。そして、深田の登った登山ブーム直前時代の無垢な山に近いのは、現代ではやはり沢や冬でしょう。深田自身が沢や冬を登ったわけではないけれど。
沢から行ったら意外といいぞの山に日光男体山や仙丈ケ岳を挙げています。百名山ではないけど、松原会員とは三ノ沢岳の伊奈川や金森山の万古川など、無垢の沢を辿って登る隠れ名山の山行の同志であります。富士山のように、どうしても沢はいただけない山もある。しかし百名山は冬か沢から行きたいものだな、というのが、やっぱり筋です。

百名山は43座、うち沢は32座とのこと。まあ全部やる気は当人もないだろうけど、冬と沢、どんな割合になるかな。
ガツガツしたくないと思いながらも数えて楽しいのが百名山。私も数えてみました。梶山氏は冬山を3月いっぱいに限っているけど、道が無い季節という意味で5月初旬まで含めて。
雪だけ47、沢だけ15、道のみ5、雪と沢両方3で、合計70のうち65が雪か沢でした。
HOME
メニュー