今回、3月11日の震災の影響を考慮し、以下の理由から3月20日入山予定だった中部日高(コイカクシュサツナイ岳〜ペテガリ岳縦走計画)春メイン2年班を中止することとしました。
・入山日が震災1週間後という状況
・全国的に消防および警察の救助隊は、必要最低限の人員を残して被災地へ派遣されており、山岳救助を要請した場合の社会的影響を考慮。
・今回のメインで一番起こる可能性の高い事故は稜上にてセッピを踏み抜き沢中に入り込み自力下山が不可能になるというケースであり、ルームの遭難対策の力のみで最善の救助が出来るかという点で、本当に最善の対応ができるか、確信が持てないため。万が一の場合、中部日高における捜索・救助には多大な人員とヘリコプターなどの機材が必要となることが予想され、消防および警察の業務を圧迫することが予想される。
・遭難ありきの議論ではなく、可能性としての遭難時のリスクの大きさを考慮。ヘリコプターによる救助体制の存在は、遭難対処の部内完結という原則に対して、「最善の救助方法」という観点ではもはや選択肢から外して考えられないものとなっている。その後ろ盾の無い中、特に中部日高という山域における山行の実施に対して積極的な論拠を見出せない。
その上で、3月中はルームの遭難対策力で対処しきれる範囲と判断されるレベル、山域の山行については行うことにいたしました。
1年班についてはL-sの不足からメインは組まず、小山行形式で技術を学ぶこととしていました。
以上、暇表についてご予定をお聞きしましたOBの方々にはご連絡が遅れましたことお詫び申し上げます。
※3月15日時点での判断であり、4月からは平常どおり山行を行っていく予定です。
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【年月日】2011年2月19−20日
【メンバー】L高橋(1 AL田中翔(1 窪田(1
<時間とルート>
2月19日白井岳(1−0)
ヘルベチア(6:30)国際スキー場(7:00)Co720二股(8:00) Co950引き返し (11:15)国際スキー場(13:00)
晴れのち曇り。Co720左股の東の尾根から少し上がり、コンタ尾根へ。ラッセルは脛から膝下。くぼたが足の痛みをもよおす。様子見ながら進める。高橋田中ラッセル消耗。Co950付近から白っぽくなる。視界2-300.時間的にピークは厳しくなったので引き返す。来た道もどる。
【パーティ】
引き返しの原因は、地図読みに時間かかったこと、体力不足。
2月20日春香山 (1-0)
L高橋 AL田中翔(1
<時間とルート>べチア(6:30)林道分岐Co640(10:00-10:40)Co630渡渉点(11:45)銭函峠 (12:15) 桂岡
快晴。前日の疲れもあり休み休み行く。ラッセル脛から膝下。道分岐Co640で地図にない林道が西へ逸れる。分岐点過ぎたかもしれないと思い少し戻って確認するが結局良くわからず時間押してるので春香山カットで銭函峠へ磁石切って向かう。峠からは楽な林間コース。
【パーティ】
力及ばず。夏道にこだわりすぎて時間を無駄に使った。
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2/27(1−0)
L小池(4 AL井ノ上(2 M岩田 田中(1
百松橋を渡って林道を西に500mぐらい行くとある。上のブッシュでトップロープを取った後、ガードレールからabして降りる。
高さ10〜15m、トップロープで登る。
<パーティ>アイスクライミング体験
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【年月日】2011年3月3−5日(2−1)
【メンバー】L小池(4 AL鹿島(3 M井村(3 井ノ上(2
<時間とルート>
1日目:16の沢川出合(8:05〜20)登山口(10:30〜45)天狗のコル先Co1660=⋂1(13:30)
天気−晴れ 風‐微風 林道のラッセルは足首だが、時折バリズボのラッセル。ちなみに地図の林道は間違えており、一度橋を右岸に渡った後、そのまま右岸を登山口まで林道は続いている。その後、小天狗をCo1520あたりからトラバースして捲き、天狗のコル先Co1660でイグルー。作成に2h。
2日目:⋂1(6:35)ニペ(10:00)・1736手前コル(11:30)三股先左岸Co1000=C2(14:00)
天気−晴れ 視界500以上 風はニペまで気にならない〜気になる風。ニペからは微風〜気にならない風。朝ストーブの調子が悪く出発が遅れる。Co1720からシーズリ。
細くなる手前Co1830からシートラ。東側にはセッピが出ていた。
デルタは1人ずつ通過。アイゼンがバチ効きではないが、きまるかんじの雪質。南稜は東側にセッピが出ており、全体的に硬かった。南稜の出だしはBSで慎重に下っていく。
その後もBSやカニ歩きを交えながら下る。岩稜は東側の基部を捲く。Co1720 の広い所も東側に小さなセッピが出ている。・1736東の尾根はCo1600からシートラ解除。三股の3つの水線はスノーブリッジを使い一本ずつ渡渉。三股先左岸Co1000でブル道を見つけ、その上で全イグルー。2hで作れた。
3日目:C2(7:30)林道(9:45〜10:00)国道(11:30)
天気−晴れ 尾根をCo1070ぐらいでのっこす。・1067手前の沢型からブル道使い、沢に降りて、そのまま沢中を行く。Co740から沢をそれて、Co760で林道に乗る。あとは国道まで。除雪は幌加ダムまで入っていた。
<パーティ>
春2年班準山3回目。最終確認。全イグルー作れた。
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【年月日】2011年2月19−21日(2−1)
【メンバー】L小池(4 AL鹿島(3 M井村(3井ノ上(2
<時間とルート>
1日目:バーデン上富良野(10:00)ホコ岩先Co1720=∩1(12:40)
天気:雪 冬尾根まではトレースがついている。樹林限界はCo1450くらいでこのあたりにも、穴をほれそう。その上からは視界200の気になる風くらい。ホコ岩手前でEPにする。
ホコ岩付近風弱く、ザックつり下げで通過。
ホコ岩先のジャイアント尾根とぶつかるCo1720の吹き溜まりでイグルー(2.5h)。
2日目:停滞∩1=∩2
天気:ガス(風弱いが、視界は50m) 午前中Lが通過した。
3日目:∩2(6:20)富良野(7:10−7:20)H(9:10−20)旧Z(9:50)十勝岳温泉(10:35)
天気:快晴 風は気にならない〜気になる程度。イグルーからEP。
第1岩峰は東側を捲く。表面が硬かった。ナイフリッジには東側に吹き溜まりのテラスができていたのでそれをいく。
ナイフリッジ捲き終わったところの傾斜が平らになったところで先頭ALの先で雪屁が落ちる。写真はセッピ崩落箇所、奥側に崩落した。足跡を見るとなかなか際どい。
その先、細いところあるがノーザイルで通過。
後は富良野ピークまで。ピークからはH経由で旧Zを下る。後は温泉まで。
<パーティ>春メイン準山2回目。のっこしできた。
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【年月日】2011年2月15日(1−0)
【メンバー】L小池(4 AL鹿島(3 M井ノ上(2
<時間とルート詳細>
駐車場(7:30)取り付き(8:20)ピーク(15:10-15:20)駐車場(15:40)
雪が少ないが、AbするつもりでとりあえずLが登ることにする。1p目以外は雪稜の練習をする程度には積もっていた。雪は団子になる感じ。トップは全てL。
?三級の岩から雪稜。40m。雪が少なかった。
?細い雪稜をコルまで。45m。本来の2,3p
?雪稜から急なクライムダウン。クライムダウンはALとMは上から確保。Fixがある。40m+10m。本来の4,5p
?雪稜。45m。本来の6,7p。
?雪稜から最後クライムダウンしてコルまで。30m。本来の8p。
?やや岩が出ている雪稜。40m。
8・9のコルから頂上のやや東から夏道を用いてスノーシューで下る。
<パーティ>
雪稜に慣れた。
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【年月日】2011年2月11~12日(2−0)
【メンバー】L小池(4 AL鹿島(3 M井村(3 井ノ上(2
<時間とルート>
1日目:白銀荘(11:05)ナマコ尾根Co1450(12:30)=⋂1
天気−晴れ Co1160までトレースをたどる。そこからトレースを外れてナマコ尾根に乗る。ラッセルは基本スネで一時ヒザだった。Co1450の吹きだまりでイグルー。煙突を大きく作って作成に3hかかる。
2日目:⋂1(6:20)逆Z先(9:40)⋂1(11:40~12:00)白銀荘(12:30)
天気−晴れ OP尾根上気になる〜振られる風だったが、ある程度進めることにする。Co1600でEPにする。Gapは大沢側のテラスへロープfixのab。その先逆Zではザイル1p出してフリコ沢側を登る。その後風強いので引き返す。逆Zはab、Gapはfixを登り返す。あとはイグルーで休んで白銀荘まで。
<パーティ>
春2年班準山1回目。細いところ歩けた。ザイルワークできた。
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ニセコの新谷さんの4冊目の本。新谷さんはニセコでエリア外滑降の安全と自由のため20年間働いてきた知床シーカヤッカー。という説明では、知らないと意味不明かもしれないけどまあ皆さん知っているでしょう。タイトルの「骨鬼(くい)」は13世紀、元代のアムール川畔で、モンゴル族と戦ったアイヌと思われる北海道人のこと。アリューシャン、知床と関わってきたから思い至った、北海道先住天然人たちへのあこがれの本、と読みました。
○極東先住民族史書として
シーカヤックでよく訪れるアリューシャンの先住民の歴史と、北海道の先住民の歴史を語る。アイヌの祖先がサハリンを通り、アムール河口まで行って元軍に恐れられたという話は今回初耳だった。でも以前読んだ19世紀の間宮林蔵もそのルートで渡り、清朝の仮役所デレンまで行っている。その時、ニブフ(ギリヤーク・樺太北半分の先住民)のカヌーで行き、難所は担いで山越えしたくだりもあった。13世紀の骨鬼が、同じようにカヌーかつぎ戦法をとっていたかもしれないと新谷さんも語る。骨鬼はクイ。松浦武四朗がアイヌの部族の中にカイと名乗るものがあるのを聞いていて、そこから北可伊道という字をあてたという話。北海道の古いアイヌ史は以前とは違い詳しい本がよくでるようになった。本当のところはまだ不明なことが多いけれど、アリューシャンから知床の海を漕いだ人物のみた極東先住民族史としておもしろい。体験からくる観念というものは確かにあると思う。渡り党という、半アイヌ半和人的立場の、蠣崎松前藩が、16世紀に流れを変えたという下り、大変興味深く読んだ。また、御自身の父上が戦前ニセコ山頂のゼロ戦小屋に関わったとか、シムシル島守備隊から生還した話など、縁だなあと思った。p120の北方民族の分布地図、函館の北方民族資料館で見た覚えが。この図は手元に欲しかったので、再会がうれしかった。
○コース外滑降と世界遺産の焚き火の自由
ニセコルールをご存じか?20年ほど前、新谷さんにお会いしたことがある。スキー場エリア外での雪崩事故が増え、どうしたらよいか模索中のころ。スキー場のリフトで登り、滑り下りるだけのゲレンデスキーヤーが、コース外の新雪パウダー目当てにコース外を滑り、雪崩事故を起こす。従来冬山登山をする山スキーヤーは雪崩の危険を自分で判断して滑ってきた山域でのこと。行政やスキー場は一律にコース外立入禁止の措置。しかしそれはスジが違うだろう?という問題。禁止で済めば医者はいらない。それから20年、新谷さんは時間をかけ、各立場の人たちの間に入って、ニセコルールを作り上げてきたのだろう。やっかいで、時間のかかる問題だ。けれど、誰かがやらなければならない仕事。ニセコルールは、コース外パウダーを滑りたい人の可能性を残し、そうすることに覚悟と準備を持たせ、さらに彼らにできる限りの雪崩情報を教えるしくみを作ることができた(と思う、僕はその後現地を見ていないので)。
知床での焚き火も同じ。焚き火ほど、できもしないくせに反対する人の多い営みはない。雪崩のコンディションを自分で見て決め、背負い込む覚悟が奪われては山スキー人絶滅であるのと同じように、焚き火の技術、知識、そして作法を知らずして真の天然人とは言えないと僕は思う。無知で浅い善意の敵対者を含め、「遺産」にされてしまった知床には登場人物が多い。林野行政、環境行政、道庁土木部門、観光業勢力、自然保護団体、動物愛好家それに漁業者。彼らとどう折り合いをつけ説得していくか。知床での焚き火を守るという本当に面倒な仕事を、ずっと続けてきた(と思う)。この行動あってのこの本だと思う。
○本書の中に触れられた本は、これまで僕が読んだもののなかでもとりわけ忘れられない本ばかり。新谷氏の思想のネタ元でもあり、僕の志向のネタ元でもある。
エゾの歴史―北の人びとと「日本」 海保 嶺夫
蝦夷地別件 船戸 与一
極北―フラム号北極漂流記 フリッチョフ・ナンセン、 加納 一郎
南極点 ロアルド アムンゼン 谷口 善也
デルスウ・ウザーラ―沿海州探検行 アルセーニエフ、 長谷川 四郎
高い山はるかな海―探検家ティルマンの生涯 J・R・L・アンダーソン、 水野 勉
世界最悪の旅―スコット南極探検隊 アプスレイ チェリー・ガラード、Apsley Cherry‐Garrard、 加納 一郎
アムンセンの集めた探検チーム、隊員一人一人が修練を積み、道具を修理できて簡単な外科手術もできる集団。一つ一つのミスを見逃さない隊長の姿勢。
「修練を嫌い、道具を頼り人に頼る人は昔もいた。今は大勢がそうだ。自分のしていることに、何の疑いも持っていない。〜登山は危険なスポーツだ。道具は何でも手に入る。技術は講習会で学べる。ガイドは山に連れて行ってくれる。しかしそれを経験と勘違いしてはならない。」
「若者は自ら求めて経験を積むべきだ。そして冒険の観客であるよりも、自らが冒険を目指すべきだ。その方が楽しい。」
20年前お会いした新谷さんはカンダハーのバッケンにバンドシールだった。その時パタゴニアの社長イヴォン・ショイナード氏が、ニセコのパウダーをお忍びで滑りに来ていて、その案内だった。古い道具は修練するほどに、手足となる。当時すでに珍しかったその簡潔装備を使いこなす様を、山道具研究製作者の第一人者ショイナード氏が一目置いて見ていたのを覚えている。
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竹内洋岳氏は、14ある8000m峰を完登しそうな初の日本人登山家。2007年G2で、雪崩で死にかけて、書き残しておきたいと思い、この本を出したという。 90年代に大学山岳部でヒマラヤを始め、誘いの声には即答で「行きます」と答え、やるべき事を積み重ね、歩んだ二十年間。極地法登山の一員から個人速攻登山へと脱皮し、経験と実力を積み重ねて続けて来た様が、語り口調でよくわかる。周囲の人たちとの関係や、どう身を置いて来たかなどがよく語られる。自伝ではなく、聞き書きインタビューという手法で、人柄が余すことなくわかる本。
1971生まれ、1990年立正大山岳部に入部だから、銭谷や石崎や松原や小倉の世代。大学8年かかってるし。1990年代は、80年代までの日本山岳会や大学山岳部や社会人山岳会のヒマラヤ大登山隊が終わっていく時代。この時代の20代はみな自由な印象だった。それ以前のように大学出たら学者か就職かという二択ではなく、プラプラしていても良いという空気が異端で無くなったころ。「バブル後、不景気前」のころかな、山岳部員も全国的にこのあとすごく減り始めた。
竹内氏の前半の経験は、東京の大学山岳部出身のつわものたちが、みんなでよってたかって育てている。重廣恒夫氏のマカルー東稜のような19世紀探検隊みたいなうらやましい遠征もあるし、山本篤隊長の都内大学山岳部連邦軍みたいなK2にも行っている。
ヒマラヤ8000m峰を次々登る分野というのは、わかりやすいほど登山界の頂点と思われがちだが、「高所環境克服」という経験というかテクニックは、苦しいし、あまりクライミング技術っぽくないし、できない人にはできないからこれを続けている人は多くない。というのは「山は8000だけじゃない」ということがそのうちわかってきてしまうし、いろいろ浮気もしたくなる。日本人でまだ全部登った人がいないのも多分そんな理由だろう。なのでなぜ竹内さんが14座を目処に据えたのか、読むまでは「百名山収集みたいなもんかな」という印象があった。けれども収集家という動機でこれだけ登れるものじゃない、当たり前だけど。14座完登は、14回では終わらない。それができる人はやはりいろんな人たちの恩を受けているのだということがわかる。
こういうことを成し遂げる人は、俺がやるぞと始めから計画するのではなく、そのときできる事をやっていると、周囲の人たちがこっちに来い、と手を差し伸べる。そこで躊躇せずその手をつかむ、その積み重ねだと言う事がよくわかる。私は大統領になると決意して本当になる金泳三みたいな人もいるけれど、人生多数はそうじゃない。好きなことを一生懸命やっているとそのうちななめ上にあるドアがむこうから開いて「君、こっちに来ないか?」と誘われる。そのドアの取っ手はこちら側にはついていない。探しても無駄。その時、「まだ早いから」とか言って断らない。その戸をくぐると、これまで思っていたことと全然違うけど、まったくあたらしい次の世界に抜ける。というようなことを内田樹氏がどこかで書いていた。自分の人生振り返ってみてもまったくそうだと思う。一人静かに「自分探し」なんかしていてもどこにも行けない。この人のこれまでを見ているとまさにこれだと思う。
2009年5月ローツェに登り、あとはダウラギリとチョーオユーを残すところ。事故で助けられれば、パキスタンまでわざわざひとりひとりにお礼に廻るような礼儀正しい人だ。こういう人だからみんなが育てるのだろう。
聞き手は塩野米松氏。法隆寺の宮大工、西岡常一氏の聞き書き「木のいのち・木のこころ」で以前読んだ。名作家だと思う。ロングインタビューに似た手法。自伝よりも「言わなきゃよかった本当のこと」が出てしまう。 でも竹内氏はこの本を残しておきたかったのだろう。
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