現役の計画・
2005年12月24日 (土)
12月25〜1月4日
冬メイン2年班 神威岳〜ペテガリ岳(7ー4)
L勝亦(3 AL中島(3 M澤田 寺尾 (2
<時間とルート>
1日目:車(1d)神威山荘=C1
林道を行く。
2日目:C1(7h)Co1120=C2
Co430の中間尾根にとりつき、Co1120付近でC2。できれば・1493南ポコ付近まで上げて雪洞かイグルー泊。
3日目:C2(3h)神威岳(2h)C2=C3
・1244付近は少し細く雪庇も出るが問題ない。夏道との分岐にデポ旗を打つ。
4日目:C3(6h)中ノ岳西肩=C4
・1493(ニシュオマナイ岳)はPeak付近白い。最低コルまでの下りは細く急。ザイル出すかも。Co1200からコンタ尾根に降りていかないように注意。Co1360ポコ付近は岩や雪稜で日高側が切れている。ザイル出すかも。中ノ岳西肩に雪洞かイグルーでC4。
5日目:C4(0.5h)中ノ岳(5.5h)ペテガリ岳(1.5h)Co1210コル=C5
中ノ岳からの下りは長く急。バックステップするかも。ザイル出すかも。最低コル付近にはカンバ。・1469から・1573までは細く十勝側が落ち込んでいる。雪庇もでるかも。日高側を捲き気味に行く。ザイル出すかも。・1573からペテガリ岳までは快適。Co1500くらいからカンバ出てくる。コル付近にC5。穴も掘れる。
6日目:C5(4h)ペテガリ山荘(5h)神威山荘=C6
・1301から・1293は少し細い所が続く。雪庇も出る。・1050前後も細く雪庇も出る。ペテガリ山荘から神威山荘への連絡路を行き神威山荘でC6。
7日目:神威山荘(1d)車
<天気・停滞・進め方>
南岸Lで悪天。冬型が決まると晴れるが風強いこともある。停滞は4日。中ノ岳肩までに2日。ペテガリのっこしに2日。エスケープは残り4日でペテガリのっこせない場合中の岳から・1445経由で神威山荘。中ノ岳(1d)神威山荘(1d)最終人家。風はふらつかない程度。視界は200〜300。ペテガリのっこしは1日もつ天気。
<パーティ>
Ls:のっこし、天気、ザイル判断。
M:口出し、緊張感。
<装備>
冬テント ツェルト のこ2 スノーソー 鍋 茶食器 ストーブ 灯油110 ローソク 無線 ロープ50m デポ旗 他スノーシュー含む冬山個人装備
<準備山行>
1. 11/19(1-0)N引返し 2.11/26-27(2-0)OP尾根往復 3.12/2-4(2-1)ニペソツ山のっこし 4.12/17(1-0)八剣山
<参考記録>
S50.1/8-16 コイカク〜ペテガリ S50.3/18-4/1 春別〜ペテガリ S52.12/28-1/5 ペテガリ〜コイカク S52.3/13-21 中ノ岳〜トヨニ S53.3/14-22 ペテガリ〜カムエク S56.12/31-1/7 ペテガリ〜コイカク S58.1/10-14 中の岳・神威
ワンゲル:S53.4/30-5/7 春別〜ペテガリ S59.12/22-27 中の岳・神威
山スキー:'83.1/4-14 中の岳〜神威 '85.1/2-10 中の岳〜ペテガリ '84.3/24-30 ペテガリ西
帯畜
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現役の計画・
2005年12月24日 (土)
12月29日〜1月4日(6ー1)
冬メイン2年班北日高(額平〜北トッタ〜幌尻At.1940峰At.)
L山下(9 M平塚 吉田(2
<時間とルート>
1日目 林道除雪終了点・春別沢出合(1day)尾根末端=C1
チロロ川沿いの林道をCo.830二股付近、額平山尾根末端まで行く。デブリの記録があるので、大きな降雪の後は気を付ける。
2日目 C1(6h)・1807=額平山=Ω2
小尾根を登り、額平山コンタ尾根に合流する。タンネ限界1500、カンバ限界1600。上部は広く丸い尾根。額平ピークも広い。ピークからコンタ尾根に向かって50mおきにデポ旗を打っていく。
3日目 Ω2(4h)幌尻岳(3.5h)Ω2=Ω3
額平〜北トッタ間はスキーで行ける。主に南側に雪庇。尾根が広いので対処は容易だが、判断に視界欲しい。トッタまで東側に雪庇あるが、ブッシュや岩が見えていて尾根も広く、対処容易。中間ポコに岩稜。西側をまける。但し雪の状態に気を付ける。トッタの上り下りは急。トッタの下りは迷いやすいので気を付ける。七つ沼カールバンドも細いので注意する。雪庇の記録はない。幌尻肩にデポ旗。
4日目 Ω3(4h)1940峰(4h)Ω3=Ω4
北トッタ〜1940峰(=・1967)の尾根は広い。北トッタ〜・1856は東に雪庇出てるかも。1940峰に岩。西(日高)側、東(十勝)側どちらもまける。西側は10mほどトラバースして10mほどルンゼ状を登る。東側は普通にまける。西側が一般的だが、雪の状態次第では東側の方が楽。ピークから来た道をΩ3まで。
5日目 Ω4(4h)尾根末端=C5
額平山から登った尾根を下り尾根末端まで。
6日目 C5(1day)林道除雪終了点・春別沢出合
チロロ川沿いの林道を歩いて除雪終了点まで。
<天気・停滞・進め方>
天気は1〜2日良く、3〜4日悪い。冬型ゆるみ・高気圧へりで良い時もあり、高気圧圏内で良い。冬型、L通過は悪い。
Ω2(額平)まではほぼ全天。額平〜幌尻、北トッタ〜1940は視界500、風はふらつかない程度で行く。
停滞は1日。幌尻At.を優先。
最終日下山するかも。テン場着、最終下山時刻15時。
<パーティ>冬メイン2年班
M:前歩くこともある、Eワーク、口出し
L:判断全般
<装備>
夏天、ポール、ストーブ、灯油(110ml・人・日)、鍋、茶食器、のこ、スノーソー、修理具、無線、ロウソク、デポ旗5、他EP・スキーストック含む冬山個人装備
<準山>
(1)12/7 旭岳(東尾根〜西尾根):Eワーク確認
(2)12/26-28 ウペペサンケ:Eワーク確認、細い所
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現役の計画・
2005年12月24日 (土)
現役の冬の計画です。一年班は合宿形式ということになりました。
12月30日〜1月6日(8日間) 冬合宿 原始ヶ原
L:見瀬(4 AL:馬詰、三木(6 市川(4 M:佐藤、竹内(1
参加日程: 三木 12月30日〜1月1or2日
馬詰 1月2日〜5日
市川 1月2or3日〜6日
時間とルート
1日目 ベベルイ零号線(7h)F尾根末端Co1260=C1
ベベルイ零号線から林道、夏道沿いに行く。二ノ沢付近は雪崩に気を付ける。三ノ沢はCo1050で渡渉。原始ヶ原に上がったところから磁石を切ってF尾根末端に当てる。F尾根はタンネ限界Co1300。天場設営後、時間があればコルまで偵察に行く。
2日目 C1(1h)前富良野北東コル(1h)前富良野岳(1h)コル(1h)C1=C2
タンネ限界をトラバースしてコルまで。適当なところでシーデポEP。Co1500にデポ旗。頂稜部分に二ヶ所ほど岩あるが容易に捲ける。帰りは来た道。
3日目 C2(3h)富良野岳(2h)C2(1h)三峰コンタ尾根・1361付近=C3
F尾根を登る。Co1760の岩は西を捲く。Co1800に止めデポ3。ピーク直下に岩が出ることもあるが、西を捲ける。三峰コンタ尾根・1361に天場を移す。・1361はタンネ帯。
4日目 C3(3h)三峰山(2h)C3=C4
コンタ尾根を登る。Co1400~1500東に小雪庇。Co1600付近尾根の向き変わるところ気を付ける。時間があればシーソラプチ川二股へ偵察。渡渉点にデポ旗打っておく。
5日目 C4(1h)シーソラプチ川二股(3h)境山(2h)シーソラプチ川二股(1h)C4=C5
渡渉点によってはシーソラプチ川に下りる斜面が急なので気を付ける。根性尾根にはどこからでも上がれる。タンネ限界Co1370。境山北西コル付近は広いので視界必要。
6日目 C5(1.5h)・1083(1.5h)トウヤウスベ山(1h)大麓山(1h)トウヤウスベ山(1h)・1083(1.5h)C5=C6
磁石切って湿原を確認しながら・1083に当てる。タンネ限界Co1200、カンバ限界Co1360。トウヤ〜大麓はカンバ生えているが風避けにはならない。大麓山の肩にデポ旗。
7日目 C6(6h)ベベルイ零号線
磁石を切って三ノ沢源頭に当てる。Co1050付近で渡渉し、夏道、林道で下山。
天気・停滞・進め方
冬型、低気圧の通過で悪い。高気圧のヘリでガス。移動高、前面で晴れ。2日までには三峰コンタ尾根・1361に移動する。一日に2つアタックに行くこともある。アタックに行く順番は前後する事もある。樹林内全天。前富良野、トウヤウスベアタックは視界2〜300。それ以外は視界500。風、気温は気にならない程度。ルートで記述した以外にも適宜デポ旗を打っていく。BC着15:00、最終下山時刻12:00。
パーティ 合宿形式
Ls:コンタクト、天気・雪崩判断、Rf、Mを見る
M:体力、生活・行動技術、EPワーク
装備
夏天、のこ2、鍋、茶食器、Df、灯油110ml、修理具、無線、デポ旗30、ローソク、ツェルト
他スキー・ストックEP含む冬山個人装備
準山
1回目:11月12〜13日(2-0) 旭岳Co1700引返し 生活技術
2回目:11月19〜20日(2-0) 美瑛富士 スキー、長時間行動
3回目:11月23日(1-0) 三段山 スキー、EP
4回目:12月3日(1-0) 前富良野林道引返し
5回目:12月10日〜12日(3-0) 札幌岳乗っ越し 下山遅れ
参考記録
’05 3月23日〜25日(3-0) 原始ヶ原 三峰・富良野・境山アタック
’04 12月11日〜13日(3-0) トウヤウスベ〜富良野〜前富良野
’02 11月30日〜12月1日(2-0) 原始ヶ原 富良野岳アタック
’01 12月28日〜1月4日(6-2) 原始ヶ原 下ホロアタック
’00 12月24日〜26日(3-0) 原始ヶ原 富良野岳敗退
’00 11月25日〜26日(2-0) 原始ヶ原 富良野岳敗退
’97 12月28日〜1月6日(7-3) 原始ヶ原 前富良野・トウヤ・大麓アタック
’90 12月31日〜1月7日(8-0) 原始ヶ原 トウヤ・下ホロアタック〜トムラ
’90・’92 春合宿 原始ヶ原
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記事・消息・
2005年12月23日 (金)
11月9日(水)開催された、第5回クラブ「山の四季」の様子を報告します。
11月9日(水):中島支部長邸
(特別な行事がなければ、毎月第2水曜日18:30から開始します)
講師:今村会員((37)
タイトル:結核と感染症
出席者:
橋本(41)、河野(42)、中島夫妻(50)、石川(52)、滝沢(54)、
遠藤(56)、渡辺(58)、黒川(59)、八木橋(62)、石井(64)、
大村(65)、平田(65)、浜名(67)
東京支部岳友:和島
今村さんが医者を志望し、現場でどのような治療活動を経てきたのかという
イントロから、話題は何故結核を撲滅出来ないのかという話に移った。空気
感染する感染症の恐ろしさ、山谷での経験を語り、人間が集中するところに
結核菌があり、ホームレスの人達が分散して青テントで生活するようになっ
て、昔ほど山谷地区には患者はいなくなった。0.1人/10万人となった時点で
撲滅成功と宣言できるが、未だ成功せず。
現代は免疫性を喪失したエイズ患者に結核患者が発生する時代になったと
いうお話。生物化学兵器の1種でもある結核菌を軽く見てはいけないという
締めくくりであった。
記事・消息・
2005年12月23日 (金)
11月18日(金)開催した、開高健ノンフィクション賞を受けた藤原会員を
祝う会の報告です。
場所:銀座クルーズクルーズ
主賓:藤原章生会員(80)
参加者:
中島(50)、石村(53)、永光(53)、木幡(55)、渡辺(58)、石本(61)、
名越(63)、大村(65)、平田(65)、白石(67)、浜名(67)、竹田(68)、
高橋(69)、米澤(69)、池上(70)、向山(75)、入川(76)、工藤(78)、
末武(78)、戸井(78)、今岡(79)、樋口(80)、小倉(90)
東京支部岳友:佐藤
アフリカを題材とした内容が高く評価されて、ダントツで「絵はがき
にされた少年」が受賞となったお祝いに、関西、札幌からと多数が
集まった。受賞までの経緯と現在メキシコ支局長としての仕事する
中での次作品への豊富など語り、賑やかな会であった。
記事・消息・
2005年12月23日 (金)
10月15〜16日と開催した、東京支部「月見の宴」の報告です。
場所:国立極地研究所河口湖・大石研修施設
参加者:
今村(37)、河野(42)、有波(48)、中島(50)、石村(53)、木村(54)、
増田(54)、遠藤(56)、橋本(56)、渡辺(58)、八木橋(62)、平田(65)、
浜名(67)、竹田(68)、古川(70)、江島(79)+夫人+娘
東京支部岳友:斉藤+夫人+娘+友人2名
いつもながら雨中の月見とは如何なものかといいながら、バーベキュー
を突っつき、ビール、日本酒、焼酎、泡盛、ワイン等々の様々なアル
コールが次々と各人の胃の中に収まっていく。肉が切れ掛かり、雨が
激しくなったところで、建物に入り各自の山への思いを語らう。
記事・消息・
2005年12月23日 (金)
6月逝去された「宮地隆二さんを偲ぶ会」を10月14日(金)、学士会館に
て開催した。
ご遺族;檀子夫人他6名
参加者:
中島(50)、矢作(52)、安藤夫妻(53)、石村夫妻(53)、永光(53)、
久木村(54)、滝沢(54)、増田(54)、安間(55)、遠藤(56)、北古味(56)、
橋本(56)、住吉(58)、渡辺夫妻(58)、渡辺(59)、石本(61)、伏見(61)、
平田(65)、浜名(67)、池上(70)
第一次南極観測に向けて山岳部の中に極地研究会が発足、カラフト犬
の教育に中心的な存在として活動されたが、隊員にはなれなかった。し
かしながら、その後、名鉄運輸社長として実業界でも大変な活躍をされ
たという故人の遺徳の数々が披露された。
OBの山行記録・
2005年12月15日 (木)
日曜日。斎藤と15年ぶりに赤岩へ行った。猛吹雪で目も開かず。便所の風下でアイゼンを付けたが、木々もユサユサ揺れていた。西壁も、四段テラスもあきらめて峠の先で引き返した。日本海側は厳しい。札幌は晴れていた。
山の会昔語り・
2005年12月9日 (金)
野うさぎ必殺法
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
第5回
野うさぎ必殺法
二十五周年のヘルベチア祭の帰りに列車を待っていた時、同輩のX君が「ヒュッテンブッフに面白いものがでていた」と言う。ただし、それはヒュッテンブッフだったか、いたづら書きの紙きれだったのか小生の記憶は定かではないが。要は野兎を確実に殺す方法だと言う。
彼は両手を前にさし出して、宙を糸でしごくようなしぐさを見せて「五十センチ位の針金をこうしてしごいて右端に蝶々の羽のように輪を作って捻る。次に針金の左端を、いま作った小さな輪に通して右手の指で引き出して、出来た輪が直径十センチ位になるようにする」と言ってひと息ついた。
これだけでいいそうだ。
「手に持った兎の首を此の輪に入れて針金を引けば、百発百中殺せるとあった」という。夏山の食料問題はこれで解決とイラストまで付けて書いてあったそうだ。
兎を捕まえるにはどうすればいいのかは、さておいて当時は前人未踏の沢を遡行し、電柱程の立木を倒して焚き火をし、尾根を攀じ登ったりという夏山などもやっていたが、実際には地上を歩く動物や鳥を食料にするような殺生や、草の根を掘って食べた話は聞いたこともしたこともなかった。これは殺生というよりは、むしろ動物達は仲間のようなに感じていたのかも知れない。二週間も人に会わず最奥人家の近くまで下り着いたキャンプで野兎を見たり兎の足跡などを見かけると友人に会ったような気がしたものである。せいぜいで滝壷で数匹のイワナを釣って、おかずの足しにするくらいのものだった。だが、ちょっとした例外的な記憶も二つばかりある。
その一つは、昭和二十七年の夏山、札内川からカムイエクウチカウシやトッタベツ、幌尻に登ったパーティーの通称Nは沢のテラスでギョウジャニンニクの群落を見つけて早速調理。「美味い、ウマイ」とバカみたいに食った.翌日からネギ臭い汗をかきながら登るので皆んなまいったと言う。
もう一つは極めて計画的でユニークな三十六年の夏山の一つである。
昔のアイヌ人は少量の米と味噌だけもって、イワナを釣りながら何日でも山を歩くプリミティブな生活をしていたということから発想して、普通は米六升を入れた30キロもの荷で入る日高に、少量の小麦粉、油、砂糖を入れたサブザックだけで出掛けたというものである。しかも名だたるシュンベツ川から入ってイドンナップなどの山々を登って、札内川を下ったという。初日は釣果ゼロ、空腹のあまり、この計画を悔いたという。
初めのうちはギョウジャニンニク、フキ、その後大量のイワナも捕れてこの夏山はめでたく終わったらしい。因みに、この計画者はW君というよりは通称D吉と名を伏せても、然るべき人にはミエミエだろうが。なお、正確には、このパーティーのメンバーだったY君が部報9号に「さすらいの日高」なる一文を載せている。
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山の会昔語り・
2005年12月9日 (金)
夕日沢のビバーク
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
第4回
夕日沢のビバーク
昭和二十五年の秋、小生が入部した年のヘルベチア祭りは二十五周年記念ということ
でヒュッテの柾を葺き替えることになっていた。
柾はルームの前に山と積まれ、部員は事前に一人一束ずつヒュッテまで背負って行く
ことになっていた。一束の柾は十五キロ一俵の炭俵よりだいぶ重かった。ヒュッテに一
泊となるので、そのうえにシュラフや食料を持つので、かなり重いぞ、ということだっ
た。小生は若気の至りで、つい「二つぐらい背負えるぞ」と軽口をたたいてしまった。
さて、同輩の石谷邦次ことバスコムと二人で行くことになり、二束持てると言ってし
まったので後には引けない。しかし、積んである柾を持ってみると、湿り具合によって、
ずいぶん重さが違っていた。ずるく構えて一番軽そうなのを選んで二束を背負子につけ
てその上に個人装備のルックを、くりつけて出掛けた。
バスコムは一汽車遅れて後から来るというので小生一人で銭函から歩き始めた。峠の
手前の登りは結構なものだった。後で聞いた話だが、ここを「ガタのフラウの泣きどこ
ろ」と言っていたそうである。通称ガタ、山縣浩大先輩が家族づれでヒュッテに行った折
に奥さんがアゴを出した所だそうである。
峠を過ぎると楽になった。「下りよりは登るほうが楽だ」なんて言っていたのは見栄で
一人で歩いてみると、やはり下るほうがはるかに楽だった。どんどん、とばしてヒュッ
テに着いた。しかし、とばし過ぎたせいか、ヒュッテの扉を開けて腰を下ろすとすぐ長
くなってしまった。
目を開いた時にはもう真っ暗だった。だが、後から来る筈のバスコムは来る気配がな
かった。さらに汽車に遅れて止めてしまったのだろう、くらいに思って、飯と味噌汁で
夕食を済ませて寝てしまった。
翌日は空身同然で、悠々と定山渓を廻って帰った。それから数日後ルームで駄べって
いたらひょっこりと彼が現れて柾運びのことを話し始めた。
ひと汽車先に言った小生を追ってヘルベチアへ急いだが銭函峠を越えるとじきに日が
暮れた。夕日沢と覚しき辺りで真っ暗になりビバークした。小雨がばらついてきたので
柾の梱包を解いて体の上に並べて一夜を過ごしたのだという。
「シンマルがヘルベチアにも行けずにビバークした」と、当然のことながら話は大げ
さになりながら広まってゆくと、思いがけない噂がでてきた。数年先輩のベテランが
「実は俺も以前に夕日沢で迷ってビバークした。あの辺りはちょっとした鬼門だ」と言
っていたとか。大々先輩の誰それも冬の夕日沢でビバークしたことがあるのを明かした
とか。気が軽くなったせいか結構何人かの人がビバークを白状したようだ。いと妙(た
え)なり。
思い当たる人は、もっといるかも知れない。失礼。
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