部員求む!下記の要領で新歓をやってますので、よろしく!また、このページ左列の「北大山岳部案内」のところをご覧ください。
4月12日(木) 19日(木) いずれも18:00〜30に教養(高等教育機能開発総合センター)1Fロビーにて部員が勧誘をしているので声をかけてください。説明会に案内します。ごっつぁんあり。
19日は他の山系団体(山スキー、ワンゲル、医学部山岳部ふらて)と合同で行いますので、他の山系団体も見てみたいという方におススメです。
12日、19日に行けないが興味があるという人は、090-4649-3830(吉本)まで連絡をください。
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2月25日、宮井さん(81入部)が亡くなった。そのお通夜が小樽で2月27日あった。
25日はよく晴れた気温の低い日曜日で、宮井さんは積丹岳を単独で登った。持参のカメラの写真によれば、おそらく登頂しているようだ。下山して車を運転中、心臓が止まったそうだ。ガードレールで車は止まった。家まで数キロの所だった。
会場にはその日の山の装備が置いてあった。ナダレヒモやAACHと書いた赤のデポ旗、自作デストロイヤーの目出帽、予備のハンガロン、細かく防水パックしたマッチろうそく、水線とコンタラインを書き込んだ地形図など、山岳部現役の基本そのままの個人装備を一つずつビニール袋でパッキングしてある。几帳面な性格を思い出した。僕が入部した春、この装備の意味を一つ一つ説明して揃える面倒を見てくれたのは宮井さんだった。
生涯最後の日に晴れた積丹に登り、春の日本海を見下ろした様を想像した。この季節の積丹はまだ第一級の冬山だ。天候、雪崩の判断も難しい。ガリガリでバリズボの稜線、アタックの時間読みの駆け引きもある。山は久しぶりだったそうだが、この日のアタック、いろんなそれまでの社会でのいきさつから行こうと思って計画し、結果貫徹したのだろう。どんな気持ちだったのか。できることなら本人に聞いてみたい。久しぶりのマジな山で、ちょっとはビビったりしたんじゃないかな。社会や仕事でおかれた身でなすべき事をしてきて、僕達山岳部員のささやかな成功(山行の企画と貫徹)をこの日深く味わい、家族の待つ家に帰るところだった。人は誰でも死ぬ。宮井さんの死は悪くないと思った。なぜならお通夜におつきあいして、宮井さんが家族みんなにとても深く愛されていたのを感じたからだ。お父さんお母さん奥さん五歳二歳のこどもたち。いつまでも棺からはなれられなかった。
お通夜と翌朝の告別式へは前田さん、キンペイさん、キンドーさん、スエさん、松っつあん、樋口さん、藤原さん、ホースケさん、高原さん、ノムラさん、タゴサクさん、名取さん、米山、ディック、しゅうじ、たまちゃんが来た。それから高校の教え子達。
(米山・84入部)
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1990年2月10日オロフレ山で雪庇を落として雪崩に埋まり遭難死した小松健の追悼で今年も6人集まった。
現場はオロフレ峠の自動車道から100mほど登った所。今年は米山,キンタ、ディック、シェイク、梶川、小ノムラだった。斎藤はインフルエンザで断念!天気がよかったのでいつもより長くウダウダしていた。酒をまいて、カメラーデンリートを歌った。小松も生きていれば子供ぐらいいるだろうか。今日のメンツは総じて晩婚組(あるいは晩年未婚)で、そのせいもあって現役時代と代わり映えのしない様子だった。トシに一度しか集まらないのに相変わらず別れ際はさっぱりしたものだ。
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北大学務部学生支援課の茂木氏から、空沼小屋に宿泊したグループより外部煙突が倒壊しているとの知らせが鐙山岳部長宛にあった。この小屋自体の老朽化はかなり進んでいて、かねてより屋根積雪の重みによる倒壊も懸念されていた。自分の目で小屋全体の状況を見てこようと、9月8日の「小林年さんを偲ぶ会」の翌朝、やや重い頭のまま家内を伴って5年ぶりに小屋へ出かけることとした。
登山口に車を置き、石ころ混じりの山道を辿り、親子連れや夫婦連れの登山者と共に2時間程で万計沼に到達した。

写真1

写真2
小屋の周りには雑草と灌木が茂り(写真1)、藪をかき分けて入り口の鍵を開けた所、土台の沈下のためか床が大きく傾き(写真2,3)、内部のドアの開閉もままならない状態であった(写真4)。

写真3

写真4

写真5
窓の外の鎧戸を開け放ち、やっと内部様子が見えてきた。テーブルやベンチの上は一面に白いカビで覆われ、割れた窓ガラスは代物で塞がれていたが、バネのはみ出したソファー、破れたハンモック、昔の管理人室に放置されている古い寝具等々、かってのヒュッテン・レーベンを楽しんだ空沼小屋の心地よさはそこにはなかった。(写真5,6,7)。

写真6

写真7

写真8
コンクリートのストーブ台がプラトーの頂部になったように周りの床が沈下し、ストーブの煙突も支持する部材の変形のためか横引き煙突はうねうねと曲がり、煙り漏れの防止のためかアルミホイルやガムテープで補修がしてあった(写真8)。

写真9
壊れかかった鎧戸の戸締まりをして外部の状態を調べてみた。小屋の基礎部分は10数年前に中村晴彦、木村恒美、上野八郎会員らの手で一時的に補強されたものの、基礎部分の沈下と土台の腐れが進み、沼に面したベランダは使用不能、土台より上部の外壁を構成するログ材も至る所で腐朽が進んでいた。(写真9,10,11,12)

写真10

写真11

写真12
以上は会報100号掲載の「空沼小屋の現状と今後について」を補足するものである。
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2007年1月27日(土)夕刻より、JR京都駅前ホテルセントノーム京都にて開催
京阪神の今冬は全般に暖かで、1月27日土曜日の午後、京都市内の雑踏は底冷えも、比叡オロシもなく、どんよりと春霞の趣き。内藤さんに見つけていただいたこの宴会場は、修行を積んだ板前が出す繊細な京料理と、JR京都駅前というロケーションもあって昨年に続き2度目の利用となります。山口市在住の加納君が東京出張ついでに途中下車して参加してくれたのも、そういう便利さがあったからかもしれません。
原支部長の乾杯の音頭で宴の開始。料理は先付、前菜から始まり、お口直しの鯛茶漬けの締めまで色取り華やかな京会席。お酒は飲み放題、とは申せ昔のような鯨飲は勿論皆様いたしません。酒の席で出た話題をいくつか
* 不滅の壮年である原さんも、先日の登山で下山中についにひざにガタがきた
* 金剛登山の下りで帰り道を探していた神戸さん、どう間違えたか吉田さんのゴンドワナ研究所に行き着いた
* 昨年末にネパールに行っていた吉田さんから、同地では混乱が収束するにつれて、安心して旅行ができるようになった、との報告
* 嫌がらせ、追い落としにまつわる裁判の顛末を話した川道さんの「こういうことはいつ我が身に降りかかってくるか判りませんよ」の一言が、我々にとってはある種のハラスメントでありました
* 5月に白浜温泉を基点に熊野古道の走破、もしくは熊野三山登山を目指す
どう言う訳か最後の締めの時に恒例になっていた肩を組んで「山の四季」を歌うのを忘れた。終了時間をせかされたせいでしょうか、はたまたいつもの名越さんがいなかったせいでしょうか。かくして07年の新年会は終り、皆様は三々五々、未だ宵の口の京の町を後にされたのでした。
出席者(敬称略、数字は入部西暦年下2桁)
原(真)56、 吉田(勝)57、 相田58、 窪田58、 神戸59、 田中(英)59、 内藤59、 渡辺(尚)59、 伏見61、 益田61、 川道62、 加納65、 岡島83、 岸本65
以上、岸本
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恒例の東京支部月見の宴が11月11日(土)〜12日(日)奥武蔵の民宿「秋朋」で開かれた。前日までの好天とはうって変わって雨模様。もっとも花より団子の面々には、そんなことはお構いなし。数年前の月見の宴は、新月の日だったこともあるほどだ。この日は、ワンデーハイクも兼ねていたが、さすがに山登りは無理。ワンデーハイク参加者は、その代わり、五日市街道沿いの街並みを探索するタウンウォッチングを堪能、夕方早目に宿に着いた。
一方、ワンデーハイクに参加しなかった会員らは三々五々、宿に到着。早く着いた者は、コタツを囲んで、夕食前にすでに大宴会。やがて札幌から西会長も無事到着。お土産の北海道の味覚に舌鼓を打つうちに、場はますます盛り上がり、夕食前にはできあがってしまうのではないかという勢いだった。
特筆されるのは、石村ゾーキン夫妻の娘さんと、そのお子さんが参加したこと。娘さんは、アイスランドの人と結婚しており、ハーフのお嬢さんは、石村ゾーキン氏からは想像もできない愛くるしさであった。
夕食後は宴会。総勢27人。例によって例のごとくの飲んで歌っての世界で、特記することはなし。その無礼講振りを想像していただければいいだろう。しかし、民宿経営のご夫婦から、「ぜひ寮歌を歌ってください。都ぞ弥生を頼みます」とリクエストされたことは記しておかなくてはならない。翌朝、やはり正調はいいですね、などとほめられたのである。
また、「東京支部で第一級の遠征隊を出す」「ついでに、初めて北海道以外から、山の会の会長を出す」などと盛り上がった。そんなわけで改めて西会長、ご苦労様でした。この場を借りてお礼申し上げます。
参加者(順不同):西会長、今村、木村やし、坂野、竹田、古川、松村、中島アダ、石本、渡辺興亜、渡辺タンクロー夫妻、大森、浜名、山崎正治、石村ゾーキン夫妻と娘さんとお孫さん、増田、大村、坂本浩輔、住吉、中村豊彦、八木橋(泊まらずに帰る)、有波、松沢(東京支部岳友) (文責 浜名会員)
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去る平成18年10月7日、富山県芦峅寺において故板倉勝宣氏の遺躅の碑の補修完成記念式典が行われた。この会合は学習院大学山岳部OB会、山桜会が主宰し、慶應大学登高会、北大山の会、芦峅寺関係者ら約40名が参加して行われた。折からの低気圧の接近で大荒れ、大雨であったが、芦峅寺のはずれの丘の記念碑の前で全員黙祷をおこない板倉氏の冥福を祈ると共に、記念碑の修復を祝った。
板倉氏は日本の近代アルピニズムの先駆者として知られ、厳冬期の立山連峰松尾峠において、大正12年1月17日26歳の若さで遭難死した。彼は学習院高等科を卒業後、北海道大学に入り、加納一郎、松川五郎らとともに札幌近郊の山々、大雪山山系にスキー登山をおこない、北の山々に輝かしい足跡を残すとともに、北アルプスの山々にも多くの足跡を残した。また同氏は山登りに関して鋭い洞察力を持ち、日本山岳文学史上秀逸な作品を多く残している。同氏は北大山岳部創設(大正15年)以前にこの世を去ったが、山岳部の創設については加納一郎氏と共に多く貴重な助言をしたと伝聞する。
学習院山桜会では数年前から部史の編纂をしていたところ、板倉さんの記念碑が芦峅寺にあることを知り、2004年にここを訪れた。しかし碑は古くなり荒れ放題になっていたことが明らかになった。この偉大な先輩の誉れを保存することを決めた同会は昨年より募金を行い、この度その補修工事を完成させたものである。
山岳部現役の頃よく芦峅寺に出入りしていた私は、佐伯トンコとこの碑の掃除を何度かしたのを覚えている。トンコは祖父に当たる佐伯静男さんから板倉さんの遭難の話を聞いたと飲みながら話してくれた。もし板倉さんが生きていたらその後の日本の山登り、ヒマラヤ登山も変わっていただろうな、とよく話していた。
碑の側に立てられた「この碑の由来について」には学習院山桜会のご好意により北大山岳部・山の会の名前も併記されている。
劔・立山方面にお出かけの際は是非立ち寄り故人の遺徳に触れて頂きたい。
以下、碑文を記す(なお、原文は縦書きですが、編集上横書き表示となっています)
ーこの碑の由来についてー
板倉勝宣は大正十二年一月十七日、立山弥陀ヶ原の松尾峠
において遭難した。 享年二十六歳。旧制學習院中等科・高等科
時代より山登りをはじめ、 北海道帝国大学卒業し、京都
帝国大学大学院進学を目前にして雪の立山に短い人生を
閉じた。行を共にした慶應義塾出身の槇有恒、三田幸夫ら
と共にわが国近代登山の黎明期の先駆者として、自らが唱
えた積雪期スキー登山の途上での事故であった。
板倉が大正八年三月に試みた槍ヶ岳は、 現代まで続く登
山の出発点として記憶される必要がある。 板倉はこの山登
りにおいて、登山の方向に明瞭な指針を示したのである。声
高にではなく、 いかにも板倉らしく控えめにではあったがこ
れを意志的に唱えた。
この碑は、板倉の死によって失われたものの大きさを惜し
む関係者と佐伯静氏ほかの芦峅衆によって大正十四年十一
月に建立されたが、今般、老朽化により補修を加えた。碑文
は旧備中松山藩士,荘田要二郎氏の起草になる。 登山者と
しての可能性はもちろん、人間としてありあまる才能を秘
めたまま早世した板倉勝宣の存在をとこしえに留めようと
する願いである。
平成十八年十月
學習院輔仁会山岳部・山桜会
慶應義塾體育會山岳部・登高会
北海道大学山岳部・山の会
芦峅寺関係者
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2006年11月3日(金:祝)に、大田区産業プラザ(東京都)にて、第5回北海道大学寮歌祭が盛大に開催されました。
今回は、初めてAACH有志で参加し、部歌「山の四季」を披露しました。
※写真左から、清原実(1986入部)、山森聡(1986入部)、矢作栄一(1952入部)、石村実(1953入部)、石村夫人、清野啓介(1976入部)。
本件については、既に石村さんからAACH-MLに報告がありましたが、私(山森)なりの感想を記します。
今回、AACH有志は初めての参加でしたが、世代を越えて同じ歌で盛り上がれるということは、想像以上に、本当にすばらしいことでした。
「山の四季」を歌うと、北海道の大自然を謳歌していた現役時代の想い出が、リアルに目に浮かんできます。本当にすばらしい歌です。
私の現役当時の十勝春合宿では大きな焚火を囲み、全員で、「山の四季」はもちろんのこと、ドイチェンリードをはじめ、様々な山の歌を歌っていました。「スキーの寵児」や「5月の山に」などは、楽しかった十勝春合宿の情景が目に浮かび、私は、特に気に入っています。現在でも「恒例の春山スキー」にでかけると、シール登高中は「5月の山に」を、スキー滑降中は「スキーの寵児」を、無意識に口づさんでしまいます。また、長かった合宿の最終日には、「別れの日はつらい」が妙にしっくりと心に響いた記憶があります。
最近は、現役部員の人数も減り、山の歌を歌う機会も減ってきていると伝え聞いていますが、「山の四季」をはじめ、すばらしい山の歌の数々を、ずっとずっと歌い継いでいってもらえることを願っています。
※北大寮歌祭の写真は、下記に掲載されています。
http://www.ryoukasai.org/※山の愛唱歌集のWebサイトの紹介(MIDI演奏あり)
http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mount_midi.htm※北大恵迪寮歌のWebサイトの紹介(MIDI演奏あり)
http://www.asahi-net.or.jp/~JH8K-KTM/(文責:
山森 聡)
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11月11〜12日、於:滋賀近江舞子の琵琶湖畔にて
京阪神は暖かくうららかな日が続き、街中では最近まで半そで姿で歩く若者を見かけた。ところが月見の宴を予定した11月11日は何と朝から雨。雷も鳴るという荒天。しかし我々はひるまない。午後3時に琵琶湖畔に出てみると、眼前の竹生島が小雨にぼんやり霞み、背景の比良連山は雨雲の中といったバーベキューパーティーにはもってこいの日和。おまけに人馴れした鴨が炭火の近くまで遊びにきたので、すぐに鍋も用意するという気合の入れよう。ただねぎを買ってこなかった。
のっけから相田さん(58ー以下西暦下2桁)と田中(英)さん、渡辺(尚)さん(いずれも59)とで谷崎文学の世界とファイザー社の薬についての質疑応答から始まったため、紛れ込んだようにして参加した最年少の瀧花君(99)は、加減乗除を覚えたての子を見る公認会計士の親といった様子。大津の街の光がうすぼんやりと望めるもフライシートは突風で使い物にならなくなり、松の幹に張り渡したブルーシートに宴席を移動。伏見さん(61)はそろそろ定年を迎え、ヒマラヤの麓に戻るとの決意。岡島君(83)から娘達が自分との距離をおき始めたという話しに、経験者達は思わずにやり。
何年経ってもこういう席でやはり気になるのは、今の現役の人達の動向で、最近の人数構成や十勝合宿、登山の形態を尋ねては自分達の現役時代と比較するが、もはやその年代差は40年。ハイビジョンテレビで「バス通り裏」を見ているようなものだ。なつかしいという雰囲気だけ味わうことが出来れば、意義がある。私(65)も、自分の年齢を明らかにした時に、瀧花君から「親父と同世代ですネ」と言われ、昔、古い部報に出ていた先輩達を見て、そう思った時のことを思い出した。
やはりと言えばそれまでだが、時折雨脚が激しくなったり、強風の吹く中、大き目の火にして歌集を片手に和して声をあげる。ある種意地を張っていると見えなくもない。しかし6時間も延々と雨見の宴をよくも続けたものです、風邪も引かずに。
翌12日は比良登山を計画していたが、北滋賀地方は嵐の回復の兆しもなく、中止とし、朝、湖畔に出て昨晩の片づけを済ませ、食事をいただき、新年会などの予定や議題を話し合い、三々五々ゆっくりと帰路につく。帰りついて阪急の車内を見渡すと昨日とは打って変わって、人々は冬の装いになっていた。
報告:岸本
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DICK(86入部)が、とうとう結婚しました。オングル島、昭和基地の沢柿さまはじめ、全世界の遠隔地の諸兄に詳細を報告いたします。(米山)

お相手は職場の半径5mにいる部下の陽子さんです。出会って3年、交際1年、入籍ほぼ1ヶ月で、ふたりはまだケンカしたことがありません。年代はほぼ同じくらい(詳しく聞いていません)、身長差は17センチ。実家は埼玉県です。趣味は自転車こぎで、道内あちこち遠出をしています。新婚旅行は先月道東、道北旅行。陽子さんの友達にはジム仲間が多く、頑健な体を維持しています。

台風並みの低気圧が北海道付近に来ていましたがなぜか欠航も無く、大阪、東京、仙台、酒田、函館、室蘭からも集まりました。宴会は凝った催しなど全く無しでしたが、ススキノ→つると4時間半続き、きょうはヘルベチアで二次会の予定です。予定していた結婚記念沢登りは、悪天のため断念しました。二次会にはキンドーさん、スエさんも来てくれました。
おめでとう。
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