毎年なぜ今頃と言われ続けて、今年もまた11月17ー18日、関西支部月見の会が近江舞子の琵琶湖畔で行われました。(写真:伏見さん)
そもそも11月の琵琶湖北西部は日本海側特有のしぐれの季節。昨年などは冷たい風雨の中、ブルーシートをはためかせ、こっけいなほど頑固に月見をしたものでした。
だが今年はやや冷えるものの風もなく穏やかな日和。午後4時に湖畔に繰り出し第一次乾杯。おでんと焼き魚、伏見さんご持参のふなずしと湯葉、それにこの一年の各人の近況なりを肴にのどを潤す。午後5時、原支部長と夫人のエリザベスさん、ワン公2匹到着で第二次乾杯。

上弦の月は直ぐに山の端に隠れる。打ち寄せる波音を聞き、焚き火のあかりを浴びながら、延々と皆様の昔のお話、今の話題、あるいは山の歌等などが続きます。程なくして丁度近くに滞在中の相田夫人と相田さんの親戚の婦人お二方が、今年早速名物となった「湖畔おでん」をご賞味に飛び入り参加。
湖畔の清掃の意味で始めた今年の焚き火もまた快調で、明るく暖かく楽しい宵を過ごすことができました。(勿論、白砂が汚れることの無いように翌早朝、きちっと後処理をしたことはいうまでもありません)
やがて時は亥ノ刻を過ぎ原夫妻はキャンピングカーに戻られ、我々はベルドール琵琶湖(マンション)に引き上げ、冷えた体を大浴槽で揉み解したのでした。
翌18日はマンションで朝定食をいただきコーヒーのお代わりをしながら雑談の後、解散。皆様今度は新年会でお会いしましょう。
参加者(敬称略): 原真、原夫人、吉田、相田、田中英、渡辺尚、高橋昭、伏見、岡島、岸本、途中参加: 相田夫人、同親戚ご婦人2名
18日、比良山に登る。朝食後、登山組6名は、西の空、山に掛かる朝虹を眺め、上部はみぞれか雪になるか判らないまま登山口を出発(9:50)、金糞峠というやや品のない峠(11:00)に立つ。南北に伸びる比良山地は、約900mより上部は高原状になっており、一息で登ってしまうと、後は登降も楽になります。中峠(11:50)の沢中で昼食。杉、ぶな、かえでが雨に濡れそぼつ中、暖かいスープが有難い。

1214mの武奈ヶ岳山頂(13:10)では若狭湾からの風と舞う初雪に高揚して、何となく皆さんと握手してしまった。後は北比良峠を経由して下山、登山口着(3:30)、駐車場に帰り着く。私よりも何歳も年上の皆様の、いやお元気なこと。たっぷり6時間半、雨の中の紅葉、頂上の初雪、なかんずくおしゃべりな方々との楽しい山登りでした。
帰りのJR車中では昨日までとはうって変わって、コートや厚手の上着姿が目立ち、関西にも一日で冬が来たことに気が付きました。
参加者:リーダー岡島、メンバー相田、渡辺尚、高橋昭、伏見、岸本
以上、記録:岸本
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没原稿復活編.
北大広報誌リテラポプリに「知床学のすすめ」という連載がある.世界遺産に登録されるかどうかが話題になっていた2004年から始まり,2007年冬号の時点で10回を数えている.
地球生態学講座時代に,その初回から数回分の記事を依頼されたことがあって,教授らとともに取材旅行にでかけたりした.第一回は平川教授の記事で,これにのっている地図を描いて提供もした(この号には「神谷正男の仕事」ってのもあるヨ).
私自身にも原稿依頼があって,なんとかひねくりだして書いてみた.しかし,その後,編集部の都合かなんかで連絡が途絶えてしまい,また時期を逸したという面もあって,この原稿は結局没になってしまった.なんだか,私の原稿はこんなのばっかり...
このエントリーの前の二つの投稿にある,現役が知床や大雪山でコンフリクトに遭遇した記録を読んで,ボツになった原稿のことを思い出した.内容的には古くなってしまったところもあるし,結局未完成のままなのだけれど,コンフリクトを体験した現役たちへのエールを込めて,一応ここに未完成のまま復活させておくことにする.
【リテラポプリ・知床学のすすめ 没原稿:最終校正日は2005年1月25日】
「知床学を学ぶもの」
調査旅行で夏の知床半島を訪れた。相泊から船を出してもらって海上を進み、岬の先端に上陸してみたら、そこには草原に寝ころんで海を眺めている若者達がいた。羅臼から三日かけて海岸を歩いてきたのだという。さらに話を聞くと北大のワンダーフォーゲル部員だという。我々が北大の教員であることを知ると、彼らはなんだかばつが悪そうな表情を見せた。ひとけのない最果ての地で自分たちだけの岬を思いっきり堪能しようと思っていたのであろうから、そこに突然現れた我々は、彼らにしてみれば、とんだ邪魔者に映ったにちがいない。
北大は、研究と教育を担う場である。そこで学ぶ学生達は、教員とならんで忘れてはならない北大の重要な構成員である。彼らが大学で得るものは、キャンパスで日常的に受講する講義にとどまらず、公認・非公認の自主的あるいは個人的な課外活動によるところも決して小さくない。特に、北海道の雄大な大地への若き憧れも相まって、北大には野外活動系の学生サークルが多い。野外系サークルに籍を置いて全道の自然の中を巡り歩く北大生達は、バスやレンタカーで刹那的に観光地を訪れるツーリストとは明らかに性格を異にする。ガイドや案内板に頼ることなく、自分で計画をたて、自分の足で歩き、自分の目で見て、本当の自然を感じ取ろうとしている。さらには、野外で遭遇する様々な危険にも自分たちの責任で対処しようという心構えもできているのである。
近年、知床に限らず、保護を必要とされるような景勝地や国立公園では、マス・ツーリズムによるオーバーユースが問題視されている。同時に、一過性の観光よりも、もっと深く自然を理解して自然と共生する意識を高めるような「エコ・ツーリズム」の必要性も叫ばれるようになってきた。そのような社会情勢にあっても、岬で出会ったような北大生達を、オーバーユースの一因でもあり、またエコ・ツーリズムへの誘導を必要とするようなツーリストの範疇に当てはめてしまうのはどうも無理なようである。また、一方的に自然保護を叫ぶ活動家とも明確に一線を画しているといっても間違いはないだろう。彼らの中でも特にアクティブな者たちは、北海道の野山をくまなく歩き尽くし、比較対象ともなるべき多くの地域で多用な自然に触れ、経験もつんで、消化しきれない感慨や疑問を多く抱いていることだろう。私には、そういう彼らが、まだ何色にも染まっていない、いわばフィールド・エキスパートの卵であるように思える。
私自身、学生時代から北海道の山々を登り歩いてきたアウトドア派である。知床にも数度足を運び、山頂ではなく岬の先端を終着点として目指す山登りを楽しんだ。だから、岬で出会った学生達の気持ちはよく分かるつもりである。そのような先輩として、岬で哲学的な思いを巡らせていた彼らにはあまり干渉しないように心がけたつもりであるが、一つだけ尋ねてみたいことがあった。知床半島は、北海道好きのアウトドア派であればだれもが一度は憧れる地であるが、世界遺産の候補地として脚光を浴びつつある現在では、従来以上の新たな付加価値を得るとともに、注目されるが故の問題も抱えるようになってきている。まさにその時期に、この岬を夏の山旅の目標地として選んだこと、その地に足を踏み入れていることの意味、そして、今の知床が彼らにどのように映っているのか、ということを、フィールド・エキスパートの卵たちに尋ねてみたかったのである。
その質問を彼らに繰り出すには、鹿による食害、土壌浸食、人為的攪乱など、この岬で起こっている問題についてまず講釈をたれる必要がある。そんなことを言い出せば、せっかくの旅の雰囲気も興ざめになってしまうことは目に見えていたし、まずは学生たちの率直な感覚を大事にしたいという気持ちもあったので、軽く説明するにとどめた。そのせいもあったのか、残念ながら、その場では彼らからめりはりのある回答は得られなかった。
しかし、きっと彼らは、ウトロへと戻る海岸を歩きながら、我々が投げかけた質問や解説した知床の現状について、自分なりの考えを巡らせていたに違いないし、そうあって欲しいと期待したい。岬を巡る道中で、「保護地域に何しに来たんですか!」なんてぶっきらぼうに叫ぶ保護活動家に出くわしたかも知れないし、黙々と番屋で生業に勤しむ地元の漁師さん達に出会ったかも知れない。何も考えずに無邪気に観光を楽しむツーリストに遭遇したかも知れない。自分たちで計画し、自分の足で歩いてきた知床である。その思い入れがあれば、抽象的な議論や小難しい理論に対しても、現実味を持って取り組む素養ができているはずである。しかも、大学へ戻れば、それぞれが専攻する分野で、知床について考える課題はいくらでも見つけることができるだろうし、その思考を手助けしてくれる知識や指導者や文献はそろっている。
これが、北大の持つポテンシャルである。ここを巣立った学生達が社会に出たとき、再訪する知床は学生時代とは異なった顔色を見せてくれていることだろう。そのときにどう考え知床とどう向き合うか。その姿勢を決定づける素地作りの場を提供するのも大学の役目である。しかし、複雑で変化の早い現代社会の様々な問題に対応するだけの知識や技術を身につけるには、学部で学ぶ四年間はあまりにも限られた時間でしかない。特に、環境問題には社会科学と自然科学の双方から取り組む必要がある。専門の殻にこもっていては総合的な解決は難しい。時には、何が正しくて何が間違っているか、という判断を、従来の価値観を越えた新たな価値観の創造を通して下さなければならない場合も多い。
大学院地球環境科学研究科の地球生態学講座では、2002年度から環境保全に関わるNPOや自然ガイドの指導者となるべき人材を養成するコースを開設した。このコースの特徴は、環境保全に関わる社会活動の中で自分自身が抱えている課題について、もっと勉強したいとか、集めたデータを活用したい、という明確な目的を持つ人をメインのターゲットとしていることである。その第一期生の一人として、知床国立公園羅臼ビジターセンターで臨時の仕事をしながら活動していた女性が入学してきた。彼女には知床での活動の中で抱いた疑問を解消したり、自身が取り組んできた課題をまとめたいという強い意思があった。新コースとして歓迎すべき入学者の一人であったわけである。
これまでの活動やコースで実施する研究内容についていろいろと話をしていくうちに、彼女もまた、学部生時代に野外活動系のサークルで北海道の自然を楽しんだ一人であることが判明した。彼女は、修士研究のテーマとして羅臼の海岸に飛来するワシの目視観測に取り組み、野外活動の経験で得たバイタリティを発揮して、ほぼ一冬に渡って一日も休むことなく調査を貫徹させた。流氷の接岸状況やワシの目視観測数が克明に記載された調査シートは百数十枚におよぶ。一人現地で調査に励む彼女の様子を見に冬の羅臼を訪れた折に、宿泊先で、こんな結果が得られました、とその調査票の束を見せられた。その時、調査票の解析から得られる結果の有望性を直感し、研究者魂を揺さぶられ、わくわくする感慨を覚えたのが忘れられない。
地球環境科学を専門とする大学院のカリキュラムの中で我々教員が指導できるのは、事実を見極める訓練を受けた専門家として、いかに自然を評価し事実を確定するか、という自然科学の理念とその手法についてである。事実の確定とは、正しさの評価と表裏一体の問題でもある。従って、研究の末にたどり着いた結論は多くの専門家によって批判的に検討される必要があり、そのプロセスを通じてようやく一つの「正しさ」としての地位を得ることになる。そういうことを大学院で教えるのである。
こういうと、まるで象牙の塔にこもった研究者像を起想されてしまいそうだが、多様な価値観や意見が交錯する環境問題においては、確実な事柄を一つ一つ積み重ねていくことも重要なことであり、様々な利害が対立する社会の中での環境保全活動の実践現場ではなかなかなしえないこととして、大学が果たすべき役割であると考えている。昨今では社会活動の中でも学ぶ機会はいくらでもある。しかし、大学院に戻って学びなおそうとする入学生たちの姿勢の背景には、利害を超えた「真理としての正しさ」への欲求がある。それはまた、環境問題に関わる得体の知れぬ権威や影響力のある活動家の意見への疑問の裏返しでもあり、真実の自然を伝えたい、という誠意に基づく意思であるようにも思える。
彼女の修士論文は優秀な成績で審査を通過したものの、学会誌に発表するまでには至っていない。その意味では、外部の専門家によるピアレビューを受けていないので、結論を事実として確定するには残念ながら十分な条件を満たしているとはいえないかもしれない。しかし、修士論文への取り組みを通して、科学的に事実を明らかにし、その意味するところに考察を加えるという訓練を行ったことは、今後の彼女の知床での環境保全活動に有効に働くことであろう。
知床は、自然遺産の候補地として様々な問題が議論されているところだが、人の営みと自然との共生が主要なテーマになっているという点では、まさに環境問題の側面を備えているといえるだろう。環境問題には、いつでるとも知れぬ学者の議論の結論を待っていては手遅れになってしまう緊急の課題も存在することは確かである。しかし、それは正しさをないがしろにしてよいという免罪符にはならない。むしろ、将来にわたって禍根を残さないためにも、訓練された専門性や専門家どうしの相互批判によって確定された「正しさ」に基づく判断力を持つことを目指さなければならない。
世界遺産とは、いわば、国際機関によってお墨付きを得た絶対的な価値であり、人類が共有して後世に伝えていかなければならないものとしての正しさを有するものである。この是非については議論の余地はない。しかし、特定の建造物や地域に世界遺産という価値を適用させるには、様々な対立や問題が介在する現実的な過程を経なければならないのも事実である。そのような問題を解決するためには、たとえば社会科学と自然科学を融合させるなど、専門家にもこれまでにない展開が必要とされることになる。これは、世界遺産という絶対的価値が、我々に新たな価値観の創造を要求しているのだ、とも取れはしないだろうか。
新たな価値観を創造する必要はあるにせよ、いやそういう不安定な時代である今こそ、大学は教育・研究機関として、地道で慎重な科学的態度を貫く役割を担っていくべきであろう。そのような態度は、純粋な学生達に普遍的な探求心を身につけさせ、現実社会と向き合っていく力を与えるのにも必要であると思う。本稿で紹介したような地域や真理への個人レベルの情熱と、アカデミックな厳密性の上に「知床学」が発展していくことを望みたい。北大はそのポテンシャルを十分に備えている。
(未完成)
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部員求む!下記の要領で新歓をやってますので、よろしく!また、このページ左列の「北大山岳部案内」のところをご覧ください。
4月12日(木) 19日(木) いずれも18:00〜30に教養(高等教育機能開発総合センター)1Fロビーにて部員が勧誘をしているので声をかけてください。説明会に案内します。ごっつぁんあり。
19日は他の山系団体(山スキー、ワンゲル、医学部山岳部ふらて)と合同で行いますので、他の山系団体も見てみたいという方におススメです。
12日、19日に行けないが興味があるという人は、090-4649-3830(吉本)まで連絡をください。
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2月25日、宮井さん(81入部)が亡くなった。そのお通夜が小樽で2月27日あった。
25日はよく晴れた気温の低い日曜日で、宮井さんは積丹岳を単独で登った。持参のカメラの写真によれば、おそらく登頂しているようだ。下山して車を運転中、心臓が止まったそうだ。ガードレールで車は止まった。家まで数キロの所だった。
会場にはその日の山の装備が置いてあった。ナダレヒモやAACHと書いた赤のデポ旗、自作デストロイヤーの目出帽、予備のハンガロン、細かく防水パックしたマッチろうそく、水線とコンタラインを書き込んだ地形図など、山岳部現役の基本そのままの個人装備を一つずつビニール袋でパッキングしてある。几帳面な性格を思い出した。僕が入部した春、この装備の意味を一つ一つ説明して揃える面倒を見てくれたのは宮井さんだった。
生涯最後の日に晴れた積丹に登り、春の日本海を見下ろした様を想像した。この季節の積丹はまだ第一級の冬山だ。天候、雪崩の判断も難しい。ガリガリでバリズボの稜線、アタックの時間読みの駆け引きもある。山は久しぶりだったそうだが、この日のアタック、いろんなそれまでの社会でのいきさつから行こうと思って計画し、結果貫徹したのだろう。どんな気持ちだったのか。できることなら本人に聞いてみたい。久しぶりのマジな山で、ちょっとはビビったりしたんじゃないかな。社会や仕事でおかれた身でなすべき事をしてきて、僕達山岳部員のささやかな成功(山行の企画と貫徹)をこの日深く味わい、家族の待つ家に帰るところだった。人は誰でも死ぬ。宮井さんの死は悪くないと思った。なぜならお通夜におつきあいして、宮井さんが家族みんなにとても深く愛されていたのを感じたからだ。お父さんお母さん奥さん五歳二歳のこどもたち。いつまでも棺からはなれられなかった。
お通夜と翌朝の告別式へは前田さん、キンペイさん、キンドーさん、スエさん、松っつあん、樋口さん、藤原さん、ホースケさん、高原さん、ノムラさん、タゴサクさん、名取さん、米山、ディック、しゅうじ、たまちゃんが来た。それから高校の教え子達。
(米山・84入部)
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1990年2月10日オロフレ山で雪庇を落として雪崩に埋まり遭難死した小松健の追悼で今年も6人集まった。
現場はオロフレ峠の自動車道から100mほど登った所。今年は米山,キンタ、ディック、シェイク、梶川、小ノムラだった。斎藤はインフルエンザで断念!天気がよかったのでいつもより長くウダウダしていた。酒をまいて、カメラーデンリートを歌った。小松も生きていれば子供ぐらいいるだろうか。今日のメンツは総じて晩婚組(あるいは晩年未婚)で、そのせいもあって現役時代と代わり映えのしない様子だった。トシに一度しか集まらないのに相変わらず別れ際はさっぱりしたものだ。
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北大学務部学生支援課の茂木氏から、空沼小屋に宿泊したグループより外部煙突が倒壊しているとの知らせが鐙山岳部長宛にあった。この小屋自体の老朽化はかなり進んでいて、かねてより屋根積雪の重みによる倒壊も懸念されていた。自分の目で小屋全体の状況を見てこようと、9月8日の「小林年さんを偲ぶ会」の翌朝、やや重い頭のまま家内を伴って5年ぶりに小屋へ出かけることとした。
登山口に車を置き、石ころ混じりの山道を辿り、親子連れや夫婦連れの登山者と共に2時間程で万計沼に到達した。

写真1

写真2
小屋の周りには雑草と灌木が茂り(写真1)、藪をかき分けて入り口の鍵を開けた所、土台の沈下のためか床が大きく傾き(写真2,3)、内部のドアの開閉もままならない状態であった(写真4)。

写真3

写真4

写真5
窓の外の鎧戸を開け放ち、やっと内部様子が見えてきた。テーブルやベンチの上は一面に白いカビで覆われ、割れた窓ガラスは代物で塞がれていたが、バネのはみ出したソファー、破れたハンモック、昔の管理人室に放置されている古い寝具等々、かってのヒュッテン・レーベンを楽しんだ空沼小屋の心地よさはそこにはなかった。(写真5,6,7)。

写真6

写真7

写真8
コンクリートのストーブ台がプラトーの頂部になったように周りの床が沈下し、ストーブの煙突も支持する部材の変形のためか横引き煙突はうねうねと曲がり、煙り漏れの防止のためかアルミホイルやガムテープで補修がしてあった(写真8)。

写真9
壊れかかった鎧戸の戸締まりをして外部の状態を調べてみた。小屋の基礎部分は10数年前に中村晴彦、木村恒美、上野八郎会員らの手で一時的に補強されたものの、基礎部分の沈下と土台の腐れが進み、沼に面したベランダは使用不能、土台より上部の外壁を構成するログ材も至る所で腐朽が進んでいた。(写真9,10,11,12)

写真10

写真11

写真12
以上は会報100号掲載の「空沼小屋の現状と今後について」を補足するものである。
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2007年1月27日(土)夕刻より、JR京都駅前ホテルセントノーム京都にて開催
京阪神の今冬は全般に暖かで、1月27日土曜日の午後、京都市内の雑踏は底冷えも、比叡オロシもなく、どんよりと春霞の趣き。内藤さんに見つけていただいたこの宴会場は、修行を積んだ板前が出す繊細な京料理と、JR京都駅前というロケーションもあって昨年に続き2度目の利用となります。山口市在住の加納君が東京出張ついでに途中下車して参加してくれたのも、そういう便利さがあったからかもしれません。
原支部長の乾杯の音頭で宴の開始。料理は先付、前菜から始まり、お口直しの鯛茶漬けの締めまで色取り華やかな京会席。お酒は飲み放題、とは申せ昔のような鯨飲は勿論皆様いたしません。酒の席で出た話題をいくつか
* 不滅の壮年である原さんも、先日の登山で下山中についにひざにガタがきた
* 金剛登山の下りで帰り道を探していた神戸さん、どう間違えたか吉田さんのゴンドワナ研究所に行き着いた
* 昨年末にネパールに行っていた吉田さんから、同地では混乱が収束するにつれて、安心して旅行ができるようになった、との報告
* 嫌がらせ、追い落としにまつわる裁判の顛末を話した川道さんの「こういうことはいつ我が身に降りかかってくるか判りませんよ」の一言が、我々にとってはある種のハラスメントでありました
* 5月に白浜温泉を基点に熊野古道の走破、もしくは熊野三山登山を目指す
どう言う訳か最後の締めの時に恒例になっていた肩を組んで「山の四季」を歌うのを忘れた。終了時間をせかされたせいでしょうか、はたまたいつもの名越さんがいなかったせいでしょうか。かくして07年の新年会は終り、皆様は三々五々、未だ宵の口の京の町を後にされたのでした。
出席者(敬称略、数字は入部西暦年下2桁)
原(真)56、 吉田(勝)57、 相田58、 窪田58、 神戸59、 田中(英)59、 内藤59、 渡辺(尚)59、 伏見61、 益田61、 川道62、 加納65、 岡島83、 岸本65
以上、岸本
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恒例の東京支部月見の宴が11月11日(土)〜12日(日)奥武蔵の民宿「秋朋」で開かれた。前日までの好天とはうって変わって雨模様。もっとも花より団子の面々には、そんなことはお構いなし。数年前の月見の宴は、新月の日だったこともあるほどだ。この日は、ワンデーハイクも兼ねていたが、さすがに山登りは無理。ワンデーハイク参加者は、その代わり、五日市街道沿いの街並みを探索するタウンウォッチングを堪能、夕方早目に宿に着いた。
一方、ワンデーハイクに参加しなかった会員らは三々五々、宿に到着。早く着いた者は、コタツを囲んで、夕食前にすでに大宴会。やがて札幌から西会長も無事到着。お土産の北海道の味覚に舌鼓を打つうちに、場はますます盛り上がり、夕食前にはできあがってしまうのではないかという勢いだった。
特筆されるのは、石村ゾーキン夫妻の娘さんと、そのお子さんが参加したこと。娘さんは、アイスランドの人と結婚しており、ハーフのお嬢さんは、石村ゾーキン氏からは想像もできない愛くるしさであった。
夕食後は宴会。総勢27人。例によって例のごとくの飲んで歌っての世界で、特記することはなし。その無礼講振りを想像していただければいいだろう。しかし、民宿経営のご夫婦から、「ぜひ寮歌を歌ってください。都ぞ弥生を頼みます」とリクエストされたことは記しておかなくてはならない。翌朝、やはり正調はいいですね、などとほめられたのである。
また、「東京支部で第一級の遠征隊を出す」「ついでに、初めて北海道以外から、山の会の会長を出す」などと盛り上がった。そんなわけで改めて西会長、ご苦労様でした。この場を借りてお礼申し上げます。
参加者(順不同):西会長、今村、木村やし、坂野、竹田、古川、松村、中島アダ、石本、渡辺興亜、渡辺タンクロー夫妻、大森、浜名、山崎正治、石村ゾーキン夫妻と娘さんとお孫さん、増田、大村、坂本浩輔、住吉、中村豊彦、八木橋(泊まらずに帰る)、有波、松沢(東京支部岳友) (文責 浜名会員)
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去る平成18年10月7日、富山県芦峅寺において故板倉勝宣氏の遺躅の碑の補修完成記念式典が行われた。この会合は学習院大学山岳部OB会、山桜会が主宰し、慶應大学登高会、北大山の会、芦峅寺関係者ら約40名が参加して行われた。折からの低気圧の接近で大荒れ、大雨であったが、芦峅寺のはずれの丘の記念碑の前で全員黙祷をおこない板倉氏の冥福を祈ると共に、記念碑の修復を祝った。
板倉氏は日本の近代アルピニズムの先駆者として知られ、厳冬期の立山連峰松尾峠において、大正12年1月17日26歳の若さで遭難死した。彼は学習院高等科を卒業後、北海道大学に入り、加納一郎、松川五郎らとともに札幌近郊の山々、大雪山山系にスキー登山をおこない、北の山々に輝かしい足跡を残すとともに、北アルプスの山々にも多くの足跡を残した。また同氏は山登りに関して鋭い洞察力を持ち、日本山岳文学史上秀逸な作品を多く残している。同氏は北大山岳部創設(大正15年)以前にこの世を去ったが、山岳部の創設については加納一郎氏と共に多く貴重な助言をしたと伝聞する。
学習院山桜会では数年前から部史の編纂をしていたところ、板倉さんの記念碑が芦峅寺にあることを知り、2004年にここを訪れた。しかし碑は古くなり荒れ放題になっていたことが明らかになった。この偉大な先輩の誉れを保存することを決めた同会は昨年より募金を行い、この度その補修工事を完成させたものである。
山岳部現役の頃よく芦峅寺に出入りしていた私は、佐伯トンコとこの碑の掃除を何度かしたのを覚えている。トンコは祖父に当たる佐伯静男さんから板倉さんの遭難の話を聞いたと飲みながら話してくれた。もし板倉さんが生きていたらその後の日本の山登り、ヒマラヤ登山も変わっていただろうな、とよく話していた。
碑の側に立てられた「この碑の由来について」には学習院山桜会のご好意により北大山岳部・山の会の名前も併記されている。
劔・立山方面にお出かけの際は是非立ち寄り故人の遺徳に触れて頂きたい。
以下、碑文を記す(なお、原文は縦書きですが、編集上横書き表示となっています)
ーこの碑の由来についてー
板倉勝宣は大正十二年一月十七日、立山弥陀ヶ原の松尾峠
において遭難した。 享年二十六歳。旧制學習院中等科・高等科
時代より山登りをはじめ、 北海道帝国大学卒業し、京都
帝国大学大学院進学を目前にして雪の立山に短い人生を
閉じた。行を共にした慶應義塾出身の槇有恒、三田幸夫ら
と共にわが国近代登山の黎明期の先駆者として、自らが唱
えた積雪期スキー登山の途上での事故であった。
板倉が大正八年三月に試みた槍ヶ岳は、 現代まで続く登
山の出発点として記憶される必要がある。 板倉はこの山登
りにおいて、登山の方向に明瞭な指針を示したのである。声
高にではなく、 いかにも板倉らしく控えめにではあったがこ
れを意志的に唱えた。
この碑は、板倉の死によって失われたものの大きさを惜し
む関係者と佐伯静氏ほかの芦峅衆によって大正十四年十一
月に建立されたが、今般、老朽化により補修を加えた。碑文
は旧備中松山藩士,荘田要二郎氏の起草になる。 登山者と
しての可能性はもちろん、人間としてありあまる才能を秘
めたまま早世した板倉勝宣の存在をとこしえに留めようと
する願いである。
平成十八年十月
學習院輔仁会山岳部・山桜会
慶應義塾體育會山岳部・登高会
北海道大学山岳部・山の会
芦峅寺関係者
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2006年11月3日(金:祝)に、大田区産業プラザ(東京都)にて、第5回北海道大学寮歌祭が盛大に開催されました。
今回は、初めてAACH有志で参加し、部歌「山の四季」を披露しました。
※写真左から、清原実(1986入部)、山森聡(1986入部)、矢作栄一(1952入部)、石村実(1953入部)、石村夫人、清野啓介(1976入部)。
本件については、既に石村さんからAACH-MLに報告がありましたが、私(山森)なりの感想を記します。
今回、AACH有志は初めての参加でしたが、世代を越えて同じ歌で盛り上がれるということは、想像以上に、本当にすばらしいことでした。
「山の四季」を歌うと、北海道の大自然を謳歌していた現役時代の想い出が、リアルに目に浮かんできます。本当にすばらしい歌です。
私の現役当時の十勝春合宿では大きな焚火を囲み、全員で、「山の四季」はもちろんのこと、ドイチェンリードをはじめ、様々な山の歌を歌っていました。「スキーの寵児」や「5月の山に」などは、楽しかった十勝春合宿の情景が目に浮かび、私は、特に気に入っています。現在でも「恒例の春山スキー」にでかけると、シール登高中は「5月の山に」を、スキー滑降中は「スキーの寵児」を、無意識に口づさんでしまいます。また、長かった合宿の最終日には、「別れの日はつらい」が妙にしっくりと心に響いた記憶があります。
最近は、現役部員の人数も減り、山の歌を歌う機会も減ってきていると伝え聞いていますが、「山の四季」をはじめ、すばらしい山の歌の数々を、ずっとずっと歌い継いでいってもらえることを願っています。
※北大寮歌祭の写真は、下記に掲載されています。
http://www.ryoukasai.org/※山の愛唱歌集のWebサイトの紹介(MIDI演奏あり)
http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mount_midi.htm※北大恵迪寮歌のWebサイトの紹介(MIDI演奏あり)
http://www.asahi-net.or.jp/~JH8K-KTM/(文責:
山森 聡)
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