山の会裏ばなしー(26)
日本のチベット、川の曲がり目
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
神岡町に赴任して三年目に小生は社宅に入っていた。その夏早々にC、N、S君の三人が現れた。Wがリーダーで通称はC、Nは通称もNでシンマルのSには、あだ名がなかったという。驚いたのはその後現れた同輩のY君通称Pが来た時だったらしい。その時は少しましな社宅に移っていて玄関口は風雪よけの雪廊下になっていた。夕方の薄暗がりから
「きむらくんいますか」
との声に、薄暗い入口に目をやると、どこかの天体からでも来たような異星人的な風体が立っていたというのである。
それはさて置き、この時来た三人は昭和三十一年度の夏山として穂高に入った九人のメンバーの片割れだった。滝谷、北尾根、ザイテングラードなどを積極的な行動で、岩登りも堪能してきた様子だった。夕食も終えて山の話も一段落したところでN君が突然後輩のS君に向って
「お前、何処で採れたんだ」と聞いた。S君は
「生まれた所ですか」と問い返して
「奥さん、日本地図ありませんか」と言って地図をもってこさせると、福島県に入り込んだ阿賀野川の最奥の上流辺りを指して
「この川の曲がり目です」と。
すかさずN君は「日本のチベットから来たのか」と。
この地、飛騨も当時は日本のチベットと言われていたが、わが家では今でもS君は「川の曲がり目さん」で通っている。
その後の話でこの「川の曲がり目」君は、北大の受験で上京か来道した折りに初めて汽車を見、海も見たということだが、これは例による針小棒大化かもしれない。しかし、小生が学部へ移行の折にはドサンコの同級生で、ショッパイ川と呼ばれていた津軽海峡を渡ったことのある人は皆無に近かったのは事実である。
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山の会裏ばなしー(25)
消えたネコダ
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
入社して半年の実習を終えると、寮の大部屋での生活から個室へと移った。その寮を早々に訪ねて来たのが四年後輩で通称もNのN君だった。涸沢をベースにして奥又白で岩登りをやっての帰りに冬山の寄付集めに来たという。彼は後にこの松高ルートの積雪期初登攀を成し遂げているが、この時はまあ良かろうということで募金に応じ、ついでに札幌への用件を一つ頼んだ。
それは加納一郎大先輩に頼まれていたネコダというものを届けて貰うことだった。ネコダとは飛騨地方の農家で使われていた筵で作った民芸的な実用品で、筵で袋のような物を作り縄の負い紐を付けてサブザックのように背負う牧歌的な民具である。加納先輩にお渡しするには深い訳があった。
前年の夏山の遭難で鈴木康平君を亡くして教養部の部長教授から山岳部の存亡にかかわる非難を受け、その経緯と対策について全学に分かる掲示を出すよう指示を受けた。その文案の推敲をお願いしたのが加納大先輩だったのである。そんな経緯から赴任前にご挨拶に伺った。すると先輩は
「飛騨にはネコダというものがある。一つ欲しいのだが」
と仰しゃったのだった。流石の博識に恐縮しつつ赴任早々に手に入れ、正月の帰省の折に年始を兼ねてお届けしょうと思っていたのである。丁度いい機会、早いに越したことはないとN君にお届けを頼んだのである。
ところがである、彼は汽車の網棚に載せてひと眠りしている間に、自分の荷物もろとも持って行かれてしまったそうである。
正月になって年始のご挨拶とシャレこんで大先輩を訪問すると、加納さんは開口一番「あのネコダはNさんが持って帰る途中で盗まれちゃったそうだ」と
奥さんともども大笑い。気難しいこの大先輩の笑いを見たのはこの時の一度限りだったような気がする。
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山の会裏ばなしー(24)
勿体ない焚き火
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和二十九年秋には連休があった。新入社員なので未だ実習員の分際だったがこの好機は逃せなかった。
せっかく飛騨に住んだのだからアルプスの飛騨側のバリエーションを拓きたい、山岳会に入っていた二人の同僚と先ずは黒部五郎岳や双六岳方面の沢の偵察を行うことにした。
地図によると金木戸川は相当のハコの連続だが、双六川と高原川が合流する浅井田の集落近くから金木戸川のハコの上のテラスに森林軌道が残っていた。途中迄は軌道に便乗し、撤去された軌道跡は中ノ俣川と金木戸川の合流を超えて広川原まで残っていた。それから沢歩きでさらに打込谷をかなり遡行して、樅沢岳は夏なら尾根伝いに登れそうだし黒部五郎から南に伸びる尾根は冬山の対象になりそうなことを見付けてから中ノ俣川の合流点付近まで戻って古い飯場の跡らしい所にキャンプした。裏話はここからである。
先ずは人跡もまばらなこの沢で日高でやっていたような大きな焚火をした。食事も済ませて駄べっているうちに、連れの二人は本州人なので最近の北アルプスのなどの事情を知っていた。この頃はもう立木を切り倒す焚火など御法度という。いいだけ焚火を楽しんでからそんなことを言い出し、そのうち話も途切れてしまった。その時、古い部報で見た昭和五年入部の井田清先輩の話を思い出して話をつないだ。その当時、日高山脈の夏山にはフガイド兼人夫として山に知識のあるアイヌの人を雇うパーティーが多かった。話はこの井田先輩が、日高を闊歩していたアイヌの人、水本文太郎爺さんを連れてトッタベツ川に入った時のことで、以下は先輩の文である。
戸蔦別川は雨で底深い音をたてていた。(中略)
夜になると谷川の流れは黒鉛のように見えてその暗さは気味悪く身に沁みわたってきた。私たちは焚火の赤い色を恋いしながら誰も皆んな湿った谷間の気配に肩をすぼめていた。赤い焔の間にいると、その夜の闇を振り向くのさえ怖ろしいほど深かった。二三間先の川辺に水を汲みいくのも体中が何となくぞっとした。(中略)
仕方なしに赤い焔を無暗と高く燃え上がらせる事が何か小さな安心を私達に贈って呉れる唯一つのことのように思われた。
その様に虚勢を張った焚火を水本の爺さんは「もたいない」と言って嫌った。(中略)水本の爺さんは、その中で神様のようにニコニコしていた。その笑いも赤子の様に明るかった。
「じいさん何処かで大きな雪崩の出たのを見たことがあるかい」
「ある」
「雪のかたまりはどんなだった」
「でっかかった」
「氷のように固かったかい」
「それはかたかったさ」
「じいさんは何処かに岩のでかい山はないかね」
「ある」
「この頃はね、靴の裏にくぎをつけたり、爪の様なものをつけて岩だの雪崩のある山を皆んな登りたがっているんだよ」
爺さんは恥ずかしそうに笑い乍ら二人の若者を見返っただけで何とも言わない。
「そいつは馬鹿だ」と突然その一人が言う。
爺さんは困惑そうにし乍それもそうだという顔付きで笑う。(中略)
(後略)
さて、我々が金木戸谷に入ったのは昭和二十九年で「も早戦後ではない」と言われ始めた頃である。北アルプスにも真新しい登山服、靴で時間を競って登る人が増えていた。
登山具も工夫するより買ったものといった風潮。そこで四十年も前に燃え過ぎる焚火すら勿体ないと芯から感じていた、あの爺さんを忍んだのだった。しかしこの時、連れの二人には、この話も現役時代そのままの古典スタイルだった小生の詭弁としか映らなかったに違いない。
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山の会裏ばなしー(23)
塞翁が馬となった笠ケ岳
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和二十九年三月に小生は山岳部を卒業、工学部もめでたく卒業と也、日本橋に本社の
ある本州の会社に就職した。赴任した事業所は岐阜県神岡町。神岡は来たアルプス飛騨
側の登山口となる蒲田に入るに絶好の町である。したがって山岳部の後輩には好適な足
掛かりになったわけでだが小生赴任早々の夏にはもう後輩の一人Y君が訪ねて来た。
彼は工学部だったので夏休みに事業所の見学を兼ねてきたそうだが、なんと
「山へ連れて行ってくれ」と言う。
地元には町の山岳会なるものもあり穂高小屋を創設した今田重太郎さんが居住していて、
写真館、薬局、時計屋の主人の他、会社員も少しいて夏にはノルマルルートで山にも行
っていた。一泊のキャンプで手頃な山はないかと尋ねてみると、「笠ケ岳がよかろう」
ということでテントを持って出掛けることにした。
しかし当時は、まだ週休は日曜日だけ。入社一年目は七日の休暇がとれたのだが、当
時は重病や法事でもない限り休暇など取るのは持って外という空気だった。風邪や捻挫
ぐらいでは休まず、二日酔いなどは這ってでも出勤、遅刻や休むなどはあり得ないこと。
しかし、折角、山に行くこうことに断るわけにもいかず、休暇を申し出ると意外と簡単
にOKとなった。その頃この山間の町でも寿司屋やラーメン屋等にテレビが付き始め、
新宿や銀座のキラビヤカな様子に浮かれ始めていた頃なので人事課では山に入ったりす
るようなヤボな古典派を剛健と見たようで、甘かったようだ。
笠ケ岳へはクリヤ谷の木馬道から入り錫杖岳への尾根の分岐辺りに水場を見つけてキ
ャンプしてノルマルルートで往復したわけだが、槍、穂高の眺望に恵まれた以上の収穫
は「山に行く」といえば休暇は鷹揚だということを知ったことだった。その後はそれほ
ど恐縮せずに少々長い休暇を取って山に入れるようになったわけである。
現場が忙しい最中に山に誘われて恐る恐る休暇を申し出た後輩も、やってみれば「人
間万事塞翁が馬」である。
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【期日】2008.12.29-2009.1.2 (4-1
【人員】白石淳也(OB8 澤田卓郎(OB1
【ルート】長浜ダイレクトリッジ
12.28 27日のフェリーが欠航のため、28日稚内C0
12.29 稚内-利尻島-長浜・栞橋(10:00)-Co.640=Ω1(14:30)
タクローが朝一番、ターミナルへ聞きに行くと、今日は通常運行だと言う。あわてて仕度をしてフェリーに乗り込む。今年は僕らを含めて4パーティ入山するそうな。鴛泊ターミナルから札幌登攀倶楽部と一緒に路線バスで長浜まで向かって入山。スノーシューで歩き始める。Co.640に雪庇を利用してイグルー。1時間ほどで快適なものができた。
12.30 4:00/5:55 Ω1-三眺山(11:30)-Co.1620=Ω2(12:30)
イグルーを出ると外は穏やかで、星も見えた。ラテルネで尾根を照らしながら歩く。Co.1180の斜面でスノーシューからクランポンに換えた。三眺山手前から風が強くなり、目出帽を付ける。三眺山の下りは急で、北巻き。Co.1620でイグルー。
12.31 Ω2=Ω3留萌に風雪、波浪注意報。停滞。
風の音を聞きながら終日停滞。お昼に差し入れの雑煮とお汁粉を食べてしまった。酒もつきた。
1.1 6:00/9:00 Ω3-取り付き(10:00/10:20)-北峰直下(17:00)-Co.1620夏道上=Ω4(18:00)
開口一番、タクローが「あけましておめでとうございます」、こちらも新年の挨拶を寝たまま返す。7時前の概況によるとやはり天気は良くないようだが、イグルー内に聞こえてくる風の音は明らかに弱い。2日も風予報は同じなので、出発することにする。
1p(白石 緩傾斜から、リッジに上がる少し立った凹角を登る。40m
2p(タクロー リッジ上の凹角上を登る。とても悪そう。40m
3p(白石 緩いリッジをへて岩峰を右巻き、細い稜上を馬乗りで進む。40m
4p(タクロー リッジを登って北峰直下で終了。40m
ロープを解く頃にはすっかり暗くなり、そのまま北稜を下り、夏道のルンゼ状の吹きだまりに雪洞を掘った。
1.2 5:00/7:30 Ω4-道路(15:30)
氷をまとったすべての装備を雪洞内でパッキングして出発、視界は50m以下。吹雪。さんざあーだこーだ言って彷徨したあげく、最後には姫沼より東に下りた。ヒッチで利尻温泉に連れて行ってもらう。夜は島民の方の親切によって、体育館にフェリー待ち社会人パーティとともに泊まらせて頂き、宴会となった。
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●2008年12月30日(火) 根子岳(2207m)、小根子岳(2127.9m)
【ルート】 山スキー / 長野県
峰の原スキー場→根子岳→小根子岳→(北西面大滑降)→峰の原スキー場
【メンバ】 5名
L:塚田(TAC)、M:太田(TAC)、佐藤(TAC)、山森(TAC,AACH1986)、清原(AACH1986)

●2008年12月29日(月) 白馬乗鞍岳(2400m付近)、船越の頭(2600m付近)
【ルート】 山スキー / 長野県 (新潟県)
栂池高原スキー場→成城大学小屋→天狗原→白馬乗鞍岳→白馬大池→船越ノ頭→(南東面大滑降)→栂池自然園→栂池高原スキー場
【メンバ】 5名
L:塚田(TAC)、M:太田(TAC)、佐藤(TAC)、山森(TAC,AACH1986)、清原(AACH1986)

●2008年4月27日(日)〜30日(水) 北ノ俣岳(2662m)、黒部五郎岳(2839.6m)、三俣蓮華岳(2841.2m)、鷲羽岳(2924.2m)、弓折岳(2592m)
【ルート】 山スキー / 岐阜県 富山県 長野県
1日目(4/27) 飛越トンネル→寺地山→北ノ俣避難小屋C1
2日目(4/28) C1→北ノ俣岳→黒部五郎岳→(東面カール滑降)→黒部五郎冬期小屋C2
3日目(4/29) C2→三俣蓮華岳→鷲羽岳→(南東面2段カール滑降)→モミ沢→双六冬期小屋C3
4日目(4/30) C3→弓折岳→(南東斜面滑降)→ワサビ平小屋→新穂高温泉
【メンバ】 2名
L:石橋兄(AACH1982)、M:山森(AACH1986)

●2008年4月19日(土) 高松山(801.4m)
【ルート】 夏道 / 神奈川県
(松田町)田代向→第六天→高松山→ビリ堂→(山北町)尺里
【メンバ】 12名
L:木村ヤシ(AACH1950)、M:安藤アンチン、(AACH1953)石村ゾーキン(AACH1953)、石村さんの奥様、坂野チャラ(AACH1953)、滝沢(AACH1954)、渡辺ダン吉(AACH1958)、坂本(AACH1959)、石本(AACH1961)、佐藤、井上、山森(AACH1986)

●2008年4月13日(日) 栗駒山(1627.4m)
【ルート】 山スキー / 宮城県 (岩手県)
いこいの村=イワカガミ平⊃栗駒山
【メンバ】 4名
L:石橋兄(AACH1982)、M:高橋ジジイ(AACH1984)、山森(AACH1986)、銭谷(AACH1990)