部報解説・ 2008年6月2日 (月)
歴代最長期間部報の8号の中身前半。看板記録の1956日高厳冬期全山縦走、1951大雪厳冬期全山縦走の二連発と、それに先立つ、ペテガリ厳冬期初登、イドンナップ厳冬期初登、カムエク北面、カムエク南面、中ノ岳厳冬期初登の五大記録を紹介。これでもか!の黄金時代です。しかも先日公開になった画像アーカイブでこれらの記録の写真がほとんど見られます。会員以外はサムネイル画像までですが、雰囲気をお楽しみください(右列「会員限定」の「画像アップ」から「全アーカイブ」→「道内」→「日高」)。8号になると御存命どころか活躍中のOBがたくさんおられますが、謹んで敬称略させていただきます。
●厳冬期の日高山脈全山縦走・・・・・・・・・・・・・・・西信博
あれほど苦労して成し遂げたペテガリ岳厳冬期初登と、14年後の日高全山厳冬期縦走が同じ一冊にある。部報8号の18年の長さを示すように思う。
1956(昭和31)12月12日から1月8日までトヨニ岳から幌尻岳まで。リーダーは西信博。強力な縦走隊4人、側面サポート隊三班の計21人。始めはこの前年に計画していたが南極観測隊が組織され、その犬ソリの研究依頼などがあって中堅部員の多くがこれにあたったため一年延期したとある。1956年の日本は、マナスル、南極の探検イヤーだったのである。
【概要】
春別川からトヨニ岳とピリカヌプリ間の1513西尾根(コーモリ尾根)を登ってトヨニをアタックして北上。当時の春別川はルテンベツ二股まで造材トラック林道を使いその先20キロ進めて尾根末端で荷揚げBC。サポート一班はここから稜線まで縦走隊の荷揚げを手伝って見送る。サポート二班はコイカクの長髪尾根(冬尾根)から登ってコイカク山頂に構え、1599と1823に荷揚げする。サポート三班はカムイ北東尾根からエサオマンまで縦走隊の食料を荷揚げし、独自に幌尻アタックする。縦走隊は幌尻岳をアタックして下降路はカムイ北東尾根。このときまでに未踏だった稜線はピリカ〜ソエマツ間のみ。
【メンバー】
チーフリーダー:西信博(5)、縦走隊:永光俊一(4)、久木村久(3)、高橋利雄(3)、安間荘(2)の四強。サポート一班:元木暉星(4)、森康通(2)、遠藤禎一(1)、志牟田孝男(1)、北古味雄(1)、サポート二班は西信博(5)、宮地隆二(3)、高橋了乙(2),木幡貢(2)、石井清一(2)、橋本正人(1)、サポート三班は鈴木弘泰(4)、増田定雄(3)、越智溥(4)、今村正克(1)、岩崎祐三(1)。
【記録から】
入山八日目にピリカ山頂でサポートとわかれ、各々十貫の荷を負って行く。その七日後にペテガリ山頂。途中2停滞。中ノ岳ペテガリ間では雪庇を踏み抜いてハイマツにぶら下がっている。一番やばいところである。ビニロンのウインパー型テントが水を吸って重くなってきた。1599峰の山頂でデポにありつき、コイカク山頂のサポート隊と灯りで交信を交わす。
翌日、コイカクを目指す途上で。「皆しかめっつらをしている。停滞にすればよかったといいたげな表情である、それでも永光はシネを回す、この頃になると皆はカメラ度胸が充分つきレンズをにらまずさり気なく気取っている。カメラの音が鳴り出すと安間は鼻毛を抜いていた手をふっと止めるし、高橋は顔をあげて遠くの山を見つめるふりなどをする。」シネというのはゼンマイ式の十六ミリフィルムキャメラ(ベルハウエルのフィルモ)だろう。巻末の広告に写真がある。レンズ三本回転式で重さ一キロちょっと。重いけど電気要らずだから今のカメラより山では役に立つ。全体にバリズボで苦労している。
コイカク山頂テントで二班と合流。ごちそうになったあと翌日は1823へ。大晦日。濡れた寝袋はカチカチに凍り、ひろげるのが一苦労。エアマットはパンクしている。カムエクからエサオマンまで歩いた日は13時間。途中日が暮れ暗くなったがデポを目指して闇のガスの中を歩く。山頂にてデポ発見。この日が一番きつかったとある。「最後のキャンプ、石油カンは沢山荷揚げされているし、モチも沢山ある。」「雑煮を食べラジオを聞いていると、突然部員及川の大雪での遭難を報じる。きっと雪洞掘って寝てんだろう。明日になったら出てくるよといい合う。西パーティーの下山したニュースも入る。」遭難ニュースのついでに報じられたのか、全山縦走が社会に注目されていたから報じられたのかは謎だが、「及川の遭難」は事なきを得た。「どうせ寝てんだろ!」は、親近感湧くよくある会話である。カムイ北東尾根目前で雪庇を落とし、6m滑落して肝を冷やすが、無事下山した。
● 冬の十勝、大雪山縦走・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1951(昭和26)は学制が変わる前後にあたり、それまでの予科+大学学部の六年間ルームに関われたのが新制の4年になる危機感を持っている。戦後ルーム復活の最初の大事業として企画した。当時は新聞社の後援やら、地元の見送りやらがあり、面白い。途中サポート班のテントには、案内人に連れられた新聞記者とカメラマンが来て焚き火に招じいれたりしている。前年にはアンナプルナがあり、探検的事業に世間も多少注目していたようだ。
【計画概要とメンバ】
晴天は5日に1日で計算、縦走隊は最短9日最長27日、サポート隊は最短11日、最長30日の計算。結果は先発隊の行動含めて12月19日出発、1月11日下山の24日間。チーフリーダーは木崎甲子郎(6)、縦走隊は野田四郎(5)、越野正(4)、木村俊郎(2)、サポート隊A班は井上正惟(3)、白浜晴久(5)、有波敏明(4)、B班は木崎甲子郎(6)、早稲田収(4)、野口裕(4)。C班は杉野目浩(5)、森厚(1)、岡本丈夫(2)。D班は中村利一(4)、石谷邦次(2)、中島秀雄(2)、千葉幹雄(2)。E班は山崎英雄(9)、網蔵俊雄(3)、三尾竜民(2)の19名。行程は天気さえ良ければ楽勝だが、視界、風雪が行動可能日を狭めるルート。天気判断力と十分な停滞日数が必要な計画だ。なおこの山行ではラジオを携帯しているが、これ以前に部報では記録を見ない。気象通報の為であるから音楽など聴いてはならんという話を、気象担当だった白浜氏に以前聞いたことがあるが、記録ではベートーベンの第九などをきいている。気象予報で天気図を作図して進む、というのはこの頃から始まった方法のようだ。ちなみにトランジスタラジオは1955年に登場なので、この頃は乾電池で働く真空管の携帯ラジオである。電池管というらしい。
【行動記録から】
縦走隊は白銀荘から美瑛岳、美瑛富士のコルに上がり、トムラウシ経由黒岳まで進む。サポート隊はA〜Eの五班で、一つはスマヌプリ西1050m地点にBCを設け銀杏が原へサポート。稜線での悪天停滞はかまぼこ型テントで過ごして居る。「ベストセラーの『コンチキ号漂流記』の輪読を寝ながら聞く」の時代。大晦日には銀杏が原でABD班と縦走班が合流した。AB班はうどんを作る際ラヂウスのパッキン漏れで皆中毒になり「井上は真蒼になつてふらふらしながらも、瞳孔反射を調べ、脈搏をとり特に悪い三人にはビタカンファーを打つなど大童だつた。」というのが結果笑い話に。停滞中、ヒマに任せて二つのテントをつなぐトンネルを作る。「二つの天幕の間の、イグルーとトンネルは完成した。トンネルの壁際には食料函をずらりと並べて積み上げ、片隅は深く掘られて塵埃捨場兼W.C.となつている。これでいくら吹いても大丈夫だ。」1月3日はトムラウシを超え、化雲岳まで。B班はここから帰り、A班はこの先1月6日忠別岳までサポートして別れ往路を帰る。サターンロケットみたいなものである。縦走班は翌7日には黒岳石室まで。8日層雲峡下山のラジオニュースをABD班がベースキャンプで聞いている。「野田、越野、木村のはずんだ声が聞えてくる。顔を見合わせてニヤリとした。」ラジオニュースにインタビューも放送されていたようだ。
【装備、食糧】
縦走班の天幕は前後で二つを使う。理由は次第に凍って重くなるからである。テントの下にビニールシートを敷き、コルクマットを通して浸みてくる水分を防いだ、撤収時もテントの生地が雪に凍ってくっつかないので楽とある。これも当時の新技術。「ガソリンは三人一斑の一日分を約400ccと計算し北海製罐に依頼して五号缶に約440ccを缶詰として密閉し食糧と共に各箱に分けて運んだが便利であり特記に値する。」ポリタンとかペットボトルとか無いものね、この時代は。ラーメンも1955年ベビーラーメン、1958年チキンラーメンだから、この時代は乾ウドンである。餅の半分の目方で済む。が、腹が減る。焚き火のできる(水のある)樹林帯は米、稜線では餅か乾ウドン、昼はカンパンというスタイル。
● 積雪期の日高山脈
以下5つの未踏峰、未踏稜線の記録。部報はペテガリ遭難以降18年間発行されなかったが山の会会報にあった記録を主に採録したもの。時代は上記二本の前に遡る。
ペテガリ岳〜一九四三年一月〜・・・・・・・・・・・・渡辺良一、今村昌耕
コイカク沢の遭難から3年。日米戦争も始まって1年経ち、時代の閉塞感は既に始まっていたろうか。既に世相の未来は不透明。後は無いかもしれないとの気持ちがあっただろうか。作戦は従来どおりのルート。だが沢ではなく「長髪尾根」を使いコイカクの山頂からロングアタック。以前のように重装備でヤオロマップや1599に前進基地を作らず、長時間行動になるが一日で身軽にアタックする方法で成功を収めた。またコイカク山頂の泊まりはテントではなく初めてイグルーを用いて稜線に運び上げる荷物を大幅に減らした。今最先端のクライミングに通じる軽量、迅速アタック戦法だ。多数の荷揚げ要員、稜線上の前進キャンプ設営、極地法、兵站補給計画という陸軍的手法をすべてブン投げた。この方法で日高最後の輝かしい冬季未踏峰の初登を手に入れたことを、ルームはその後長く誇りにしてきた。山登りを組織的なもの、物量的なものに変えていってしまった戦後の思潮を前に、人が山と対峙する時に要る最低限のものを研ぎ澄まして使えと最後に示した山行だった。山岳部黎明期に磨かれた、素手で原始の山に触れるという良質のアルピニズムの原点を、最後に見せた山行ではなかったろうか。
そして、手ぶらで山に登る作戦を可能にしたのがイグルーである。「この山行の特異とした点の一つは前進キャンプにイグルーを採用したことである。これ迄試験的に札幌附近の山で数回試みられ、その長短が明らかにされたが、一つのまとまった計画の中に採用したのはこれが初めてであり、この計画のためにイグルー作りの練習を三回程行って自信を作った。」
アタック隊今村昌耕(6)、佐藤弘(5)。サポートが上杉寿彦(2)、荘田幹夫(2)、渡辺良一(6)のわずか5人。12月31日上札内小学校にC0、1月3日にはコイカク山頂にイグルー。5人一時間半で完成。1月5日快晴の朝、3時25分イグルー発。ペテガリ山頂11時10分。イグルー帰着18時30分の15時間行動。翌1月6日はサポート隊が登ってきて、翌日ヤオロマップと23をアタックして帰る。「すでに相当下からヤッホーを交わしてペテガリ登頂が成功したことを知つた。登る我々の感激も一入であつたが、上から知らすかれらの声も喜びに溢れていた。とうとう成功か!なんと長い間北海道の一角に聳えてつき纏った山であつたろう。カメラーデンリートを歌い、ケルンの側で黙祷」。これまで1936年3月(悪天)、1937年12月〜2月(悪天)、1939年12月〜1月(雪崩遭難)、1941年3月(悪天)と重ねた末だった。このとき成功しなければ戦争で登れず、戦後一番のりの早稲田大東尾根ルート隊が初登していたかもしれない。
この山行を成功させたイグルーの由来については、高澤光雄の研究が詳しい。コイカク遭難の目撃者でもあったイタリア人留学生フォスコ・マライーニが、事故の翌月には手稲山でのイグルー実験をして「1940(昭和15)年2月4日と翌日の『北海タイムス』で『冬の山岳征服にエスキモー雪小屋(イグルー)の実験、マライーニ君手稲山頂で成功』の見出しで『ペテガリ遭難は雪崩であったが、テントを運び上げた登山家の苦労は筆舌に尽きぬものがあった。若しいま紹介しようとするエスキモー式雪小屋が利用されていたならば、従来の犠牲者たちは幾多救われていたと思う』と報じている」(文芸同人誌「譚」第16号・山と人と本16・高澤光雄より)また、翌3月には十勝でイグルー山行をしてその手記を同行の宮沢弘幸が北海タイムスに寄稿している。見出しは「雪小屋(イグルー)で安眠・寒さは身に應へぬ」(3月24、25日)。マライーニはこの後、41年3月に講師として京大に移ったあと反ムッソリーニの戦時捕虜として名古屋の収容所に繋がれる。ペテガリ初登の報をどこで聞いたろうか。後の活躍は前回部報7号の記事で紹介した。ちなみに話はそれるがマライーニと懇意だった宮沢弘幸とは開戦の朝スパイ罪で特高に逮捕された北大生だ。米国人と親しかっただけが逮捕理由のようで、残酷な懲役である。
http://homepage2.nifty.com/hokkochurch/organ.html
マライーニのイグルー山行がルームのペテガリ成功のヒントになっているのは間違いないだろう。
1989(昭和64)年1月、現役だった私は日高の稜線で連泊することの難しさに行き詰っていた。当時のルームはなぜか長くイグルーを使わなくなっていたが、これを積極的に使うことにして、ペテガリからコイカクまで三つのイグルーを作って前進した。テントでこういう進め方は危なくて出来ない。イグルーだからできた。イグルーはコロンブスの卵だった。1943年のパーティーも「何だと、イグルーはやってみればこんなに簡単なのか!」と思ったに違いない。しかしイグルーはなぜか一般の登山者に広がらず、常に隠し弾としての魅力を放っている。それは今も同じだ。
イドンナップ岳〜一九四八年一月〜・・・・・・・・・・・木崎甲子郎
「ペテガリとイドンナップ。この二つの頂こそ当時の部員たちの目標ではなかったか。その一つペテガリは昭和18年冬登頂され、イドンナップは宿題として戦後に残された夢でもあった。」
この山行のあった昭和22年度は巻末年報を見ても、10月までしか記録がなく、この冬季初登記がどういうルームの雰囲気で行われたかはこの一文で推測するまでである。当時山岳部長だった奥村敬次郎(のち遭難死)と橋本誠二(12)、山崎英雄(5)、菊池三郎(4)、関祐次(2)、木崎甲子郎(2)。漫画のように愉快な木崎の文章で、戦後のモノたらずながら知恵と勇気で山の麓まで辿り着き山中に向かういきさつが語られる。二月下旬。ルートは沙流川支流宿主別川(貫気別山の北をぐるりと東に登る川)を詰め、どこを超えたのか不明だが新冠川の谷におり、いまは新冠湖の底になっているサツナイ沢出会いにベースを構え942ポコの北西尾根からシュウレルカシュペ沢右岸尾根を延々アタックした。一度目のアタックは山頂手前で時間切れ。二度目に登頂。「指で足下をさしている。ここが頂上か、といっているらしい。ちがうちがうと手を振ってまた歩き出す。どうもここらしいと立止まったのはそれから三〇分も経つた頃だつたろうか。三角点もはつきりしないが、夏の記憶を辿つてここだろう。いやここにちがいないときめてしまつた。たよりないことではあるが、同じような尾根続きのひとつの瘤をそれも最高点ではないところを三角点にしたようなこの山では、たとえ三角点でなくてもたいしたことではない。しかし初登頂である。」いや、イドンナップの山頂なんてどこなのか今だって誰にもわからないんじゃないでしょうか。つい一ヶ月前にはナメワッカに冬季初登頂したとあるのだが、その記録は不明。部報18号は突貫で編集したのでそういう大事な記録がボコボコ欠落している。
札内岳よりカムイエクウチカウシ山へ〜一九四九年一月〜
・・・・橋本誠二
前年1947(昭和22)年度の年報記録はほとんど欠けているが、文脈によるとこの年(1948)の1月にもナメワッカ分岐からカムエクアタックの計画があり、未遂に終わっているようだ。この間の稜線が、まだ冬季未踏なのである。この時代の課題は、8の沢からではなく、カムエクの北と、南の主稜線からの登頂だ。橋本誠二(13)、関裕次(3)、長井晃四郎(3)、野田四郎(2)。ピリカペタヌ→札内岳→エサオマントッタベツ岳→1900峰→カムイエクウチカウシ山のアタックである。八千代の造材事務所の先はピリカペタヌ沢でBC、札内岳中腹C1、札内岳Co1700にC2イグルー、最低コルにC3イグルー、ナメワッカ分岐にC4イグルーと、雪の少ない1月でもあり、積極的にイグルーを利用している。
C2「イグルーは雪庇を円くぬいてその上にドーム状に積んだ。」この方法が稜線では一番早い。竪穴の上にドームの浅い蓋を載せるのだ。C3,C4では吹き溜まりを利用した半分雪洞、半分イグルー。「ここは風が特別に巻くところだけに吹きだまりが発達している。そこに半雪洞式のを掘り出す。一米五十も掘ると氷の層があり手間どつた。停滞を覚悟なので、二重のガラス窓付きのイグルーにした。」ガラス窓ってのは本物を持っていったのか氷か?入山10日目の1月21日にカムエクをアタック。山頂からは南側稜線の困難ぶりを確認して、展望を楽しみ山頂で50分くつろぐ。帰りは日暮れと競争になった。「見る見る沈んでいく陽がはかない光を、吹きまくる雪煙りに投げて行くのはいかにも冬の山稜上に吾在りという気持を与えるものであつたが一方極めてたよりのないものであつた。」帰りの東西稜線は風向きが変わりやすい。帰路は雪庇が逆向きになり最低コルの「イグルーを作った吹きだまりも、イグルーのところを残して、みななくなっていたのには驚いた。」これは重要な記述である。最後にイグルーのまとめで、半雪洞式は雪洞とイグルー部分の沈み方が偏って不連続になるが、縦穴にイグルーのドーム蓋を付けたものは天井の沈下がほとんどない。との記述がある。私も竪穴の上にイグルーが最も良いと同意する。
コイカクシュ札内岳よりカムイエクウチカウシ山へ〜一九五〇年一月〜
・・・・山崎英雄
北からのカムエクに続いてはいよいよ日高でも難しい稜線のひとつ、南からのカムエク。「また今年の冬山は終戦以来の部の実力を一つの目標に注ぎ込んでみようと〜登山形式も相当大がかりなものとなり、エクウチカウシと同時に一八三九米峰も同時に登頂しようということになった」。エクウチカウシと当時は言っていた。1月6日男沢先生宅にC0、7日入山20日下山。なお、この山行記録は巻末の年報にも無く、本文中にもメンバーに名前記述が無い。部報編集を18年もため込みすぎると不備が増える。ところが、先日整備された画像アーカイブにこの山行始め部報8号の伝説的な山行の写真が殆どある。そのキャプションにメンバーが書いてあり、以下のメンバー一覧が判明した。
A班(コイカクーカムエク縦走):山崎英雄(7)、野田四郎(3)、白浜晴久(3)、B班コイカクー1839縦走):木崎甲子郎(4)、藤木忠美(8)、越野正(2)、C班(サポート):長井晃四郎(4)、関祐次(4)、有波敏明(2)、D班(サポート)森田寛(3)、三角亨(3)、中村利一(2)
コイカクの尾根末端にBC。奥二股を左に入って百米のところ。毎度の場所なので、切り株だらけらしい。コイカクの尾根頭にイグルー四人前C3を二つ作る。「このイグルーは二件長屋である。直径二尺足らずのマドによつてオトナリと連絡しているが隣の方の床が約一尺高いので、ラジウスでせつかく温めた空気が皆隣に行き、隣の冷たい空気がわれわれの方に流れ込むという不公平な結果になつてしまつた。イグルーの中は実に静かである。コトコトと音を立てるコッヘルを黙つて見ていると突然若い女の声が隣からきこえてきた。みな顔を見合せ隣をのぞくとアンテナのおかげでラジオが快調なのだ。」先にも書いたがこの時代のポータブルラジオは真空管式で大きい。このときはイグルーの外に結構大げさなアンテナを設置している。ちなみにこの時代、目覚時計を使っているようだが、電子音でも電池式でもなく、やはりねじ巻き式でジンジン鳴るやつだろうなあ。そういう細かい所が読んでいて一番おもしろい。
C4は1823峰の山頂のやや西の尾根上にテント。ここにもイグルーを作らなかったところを見ると、やはりまだイグルー作りは難儀だと思っていたようだ。カムエクアタックの日。美しい朝焼けを見て出発、「国境が急に直角に西走する所からのエクウチカウシは誠に堂々たるもので」「一八四〇米峰からの眺めは実に立派で両側にカールを抱いたその山容は誠に貫禄十分であつた」・・・と、史上初めて厳冬のこの稜線を歩く者として、カムエクの美しさを賞嘆する言葉を惜しまない。この日、B班は39峰、C,D班は1599峰のアタックも成功させた。BCで焚き火をして下山。帰りも南札内分教場の男沢先生がお迎えしてくれた。この頃、造材のトラック道路が出来、「トラックは何十台もの馬橇をつぎつぎと追い越して中札内に向つた。」
中の岳と神威、ペテガリ岳〜一九五三年一月〜・・・杉野目浩
中ノ岳は正真正銘、日高最後の厳冬期未踏峰である。その初登記録。ルートはベッピリガイ沢から中ノ岳、ペテガリ、神威。12月27日から1月8日。メンバーは杉野目浩(6)、有波敏明(5)、岡本丈夫(3)、中島秀雄(3)、森厚(2)、小林年(1)。シベチャリ川上流奥高見開拓団入植地(現在の高見ダムの底)が最終人家だが、そこへは三石川の運材トラックに載せてもらい、駄馬道の峠越えを徒歩でする。多分今もある道。開拓地の一件に泊めて貰いおもてなしを受ける様が書いてある。「樺太から引揚げてこの数年来苦闘を続けて居られる一家であつた。天井はなくて梁には穂のついた粟がぎつしりとつりさげてあつた。」
上流コイボクシュサツナイ二股まで造材が入っているので駄馬道があるという。イベツ沢対岸やコイボク二股にも砂金取りの小屋などがあり、利用する。ペテガリ沢出会い手前の鉱山小屋というのはほぼ、現在のペテガリ山荘の位置かも。現在東の沢ダムの底はサッシビチャリ出会の三股といっている。また、メナシベツ川の本流はペテガリ沢と分かれてベッピリガイ沢と名前を変えるとあるので、そういうことかと初めて知った。今はあまりメナシベツの名を使わないから。雪が少なく「どうしてもスノウブリッヂがないと岸辺の立木を選んできりたおし橋をかけた。そんな時などからまつたぶどうづるにてんてんと山葡萄の実を見つけた。しなび果てたその黒い実は甘ずつぱくて格別新鮮であつた。」ベッピリガイの水の切れるところにBC。沢を行き、滝の捲きから右岸にあがり、1500米峰へ(これは1445のことか?)。元日に、この先、山頂まで25分のところにテントを張り、悪天の中を初登頂する。翌朝テントから這い出て晴天のペテガリと対面する。「深々としたペテガリ川の渓谷をへだてて静かなペテガリの麗姿があつた。透徹した気流と水のアルティザンに刻まれた彫刻は今冬のよそおいを凝らして匂うようにまつしろに輝いている。純潔のギッフェルよ、何もいうことはない。只その静謐な朝の一時にある感情のたかぶりを感じてたまらない幸福に酔つていたのだ。」この天場のあたりは、ペテガリの南面が最も格好良く見える場所である。ペテガリ沢が真正面、左右対称に良い三角の尾根を伸ばし、日高で最も景色の良い場所のひとつだと私は思う。この日全員でペテガリ岳をアタック。この稜線も初縦走だ。中ノ岳ペテガリ間は細いナイフで、大きな雪庇がでる難しい稜線だ。やはり中ノ川側にでかい雪庇を一発落として「思わずKの肩を掴むと無事を喜んだ。」というくらい怖いところ。天場10時発、山頂15時、帰着19時で途中日が暮れた。山頂には三角点の傍らに名刺入れの錆びた缶があった。ルームでは1943年の初登以来。この間、1947年に東尾根から早稲田が二登している。
翌三日は四人で神威岳との中間ピークまで。この稜線も初。四日杉野目、岡本、小林で神威岳をアタック。「ソエマツ岳の背後の空が、もえ黄色になり、一四八〇の大斜面を神威の鞍部へと下るころはそれが黄金色となつて日が昇つた。」「陽光燦然たる頂に立つたのは十時近く」「スキー帽の垂れを上げると遠く太平洋から吹きよせる冷え切つた風で頬は直きに熱くほてつた。」「えんえんたるわれわれのシュプールが、ペテガリに向つてやせた稜線に消え残つている。何のためにと秘かに自分に問うてみた。それは胸せまる友情の合作であり、そしてその行為の主題をどこに求めていようとそれぞれの心の勝手なのだ。」最終人家に帰りも投宿、「心暖まる数々のおもてなしに疲れも一時に出た。凍ったみかんをズラリとストーヴの上にのせて『やけたのからお上りなさい』とすすめられて、郷里が横浜のAは痛いほどこの北の地を感じたというのであつた。」
同じ冬、札幌山岳会が中ノ川から目指し、1月7日登頂している。沢4日行程、三股から尾根三日行程。あの函だらけの中ノ川をスキーで行くとは、と今では思うが、北大の使った奥高見の開拓地への乗っ越し駄馬道は戦後付けられたものであり、それ以前日高側のアプローチは考えられなかった。それ故ペテガリは遙かだった。中ノ川からの札幌山岳会隊は前年に途中で敗退していた。この年は北大と初登頂を争うことになった。札幌山岳会はこの時できたばかりでありその後、知床の冬季縦走、利尻での登攀などのめざましい活躍へとつなげていった。
(前編/中編/後編)
- コメント (1)
部報解説・ 2008年5月8日 (木)
コイカク沢遭難でまとめた7号以来、戦争を挟んで18年ぶりに出たこれまでで最長期間の部報。山岳部の最高目標だった厳冬期ペテガリ初登(1943・昭和18年)を戦争悪化ぎりぎりまで粘って勝ち取り、戦後早くも再開した日高未踏地帯の最後の踏査記録が満載。またマナスル初登の機運で空前の登山ブームを迎えた1950年代、部員も多く活動も盛んで、日高と大雪の全山冬季縦走という大作戦を貫徹している。中身たっぷりの時代ゆえ、この部報にこぼれた多くの珠玉の記録もあったろうと思う。三回にわけて紹介する。一回目は目次代わりに18年の年報をさらりと駆け足で。
===============================
【総評】
1941-1958年度の18年分の記録。「冬の日高全山縦走」「冬の十勝大雪縦走」の二大イベントの報告が併せて70p、ペテガリ冬季初登記録を含む日高最後の初登記録五連発記録集「積雪期の日高山脈」が39p。中部日高で最後に残った秘境、ナナシ沢初遡行記含む無雪期記録集、「夏の紀行」が30p。十勝川源流の温泉小屋建設の記録と、犬ソリ研究の二つの報告が32p。追悼が7人で20p。戦死など「物故者略歴」が7p。18年分の「年報」が大量に178pで、合計377p。編集委員は5名の連名。編集後記は杉野目浩。価格は500円。最後のA5判。(敬称略)
【目次】
部報八号の発刊にあたって・・・・・・・・・・・・・・・原田準平
厳冬期の日高山脈全山縦走・・・・・・・・・・・・・・・西信博
冬の十勝、大雪山縦走・・・・・・・・・・・・・・・・・
積雪期の日高山脈
ペテガリ岳〜一九四三年一月〜・・・・・・・渡辺良一、今村昌耕
イドンナップ岳〜一九四八年一月〜・・・・・・・・・・木崎甲子郎
札内岳よりカムイエクウチカウシ山へ〜一九四九年一月〜・・・・・・・・橋本誠二
コイカクシュ札内岳よりカムイエクウチカウシ山へ〜一九五〇年一月〜・・・・・・・・・・山崎英雄
中ノ岳と神威、ペテガリ岳〜一九五三年一月〜・・・・・・杉野目浩
無言の対話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊藤秀五郎
夏の紀行
余市川のほとり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・奥村敬次郎
二つの無名沢遡行記
無名沢よりカムイエクウチカウシ山・・・・・・・・・・・滝沢政治
無名沢よりペテガリ岳・・・・・・・・・・・・・・・・・酒井和彦
夏の知床岳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鮫島淳一郎
森、温泉、夢〜十勝川源流温泉小舎建設始末記〜・・西村豪、神前博
犬ソリの研究・・・・・・・・・・・・北海道大学極地研究グループ
追悼
奥村先生のことなど・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木崎甲子郎
山岳部長奥村敬次郎氏遭難記録
花岡八郎兄を想う・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・向川信一
井上君の死・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐伯富男
康平君・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加納正敏
前田一夫君の憶い出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木良博
小竹幸昭の追憶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐々木幸雄
加藤君のこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村恒美
物故者略歴(一九四〇〜一九五九)
年報 一九四一〜一九五八
写真6点、附図4点
【年報概要と時代背景】
社会も登山界も激動期なのでそういう背景を並べて、ルームのいきさつをまずはイッキに見てみる。
●1941(昭和16)年度
コイカク沢遭難から年度明けて、五月にこのルートからペテガリをアタックしている。夏メインは日高に大雪に北アルプスに9パーティー出し、冬は日米開戦直後に吹上温泉で冬合宿もやっている。三月には橋本誠二、朝比奈英三がコイカクからルベツネ岳まで迫っている。まだまだ普段どおりの年だ。
● 1942(昭和17)年度
太平洋戦線拡大。マレー、ジャワ、スマトラ占領。
夏メインは日高だけでも6パーティー、このうち渡辺良一、橋本芳郎、菊池徹は無名沢(→コイカク岳)の初遡行を遂げた。冬合宿は一年班ニセコ、二年班愛山渓で行っている。冬季は念願のペテガリ初登を成し遂げ(記事あり)、楽古岳パーティーもある。2月下旬に大雪、3月に谷川、立山へのメイン山行がある。
●1943(昭和18)年度
春ガダルカナル、アリューシャンで敗退、秋には学徒出陣。残雪期には道内全域の山行記録がある。北日高で三つの沢メイン山行はじめ年末の十勝合宿も8日間行っている。積雪期山行は武利武華と楽古に3月に小山行に行っているのみで学徒出陣の影響を受け始めているようだ。
●1944(昭和19)年度
サイパン、テニアン、グアム全滅、秋レイテ沖海戦。特攻攻撃はじまる。東京初空襲。
年末の冬合宿は吹上温泉使用不能のためニセコ馬場温泉で七日間行っているが、他の山行記録は8月の夕張岳とカムエク二つのみ。詳しい事情は書かれていない。全土が空爆にあうのは20年3月10日の東京大空襲から。
●1945(昭和20)年度
春、硫黄島全滅、全国の主要都市で空爆、沖縄で地上戦、夏原爆攻撃で敗戦。ソ連参戦。
この代の幹事に南極の菊池徹氏がいる。このご時勢に年末の十勝冬季合宿を貫徹している。「十二月一七日〜二三日、一四名。非常なる困難を克服しやることが出来た。吹上温泉使用不能のため勝岳荘にて自炊す。」敗戦の混乱の中、食料調達も苦労したはず。
●1946(昭和21)年度
極東国際軍事法廷(東京裁判)が開廷。
夏メインは日高4つ大雪1つの5班、十勝でも一週間の合宿をおこなっている。が、積雪期の山行記録は、翌年度に報告がある。7つの記録があるが、あまり長い山行は行えていない。余市岳でイグルー生活という記録もある。
●1947(昭和22)年度
日本国憲法施行。48年一月、早大隊が東尾根から極地法でペテガリに登頂、厳冬期第二登。
夏山は日高と大雪に全8班。うち中部日高班がコイカク沢の下降途中、巻きの際、転落して花岡八郎が遭難死した。翌48年一月にはイドンナップの冬季初登。
●1948(昭和23)年度
東京裁判結審。49年一月、松濤明が槍の北鎌尾根で遭難死。
主任幹事は菊池三郎。夏は日高6班と中央高地4班、冬春は日高の北トッタベツ岳などの初登含む3班、中央高地3班など。活況だ。(記事あり)
●1949(昭和24)年度
中国共産党、内戦に勝利。ネパールが開国。
主任幹事は前期山崎英雄、後期木崎甲子郎。夏は日高7班と中央高地3班、冬春は中央高地3班など。この年奥村山岳部長(教授)が札内九の沢で遭難死。
●1950(昭和25)年度
中国人民解放軍がチベット侵攻、チベット側登山はこれ以降閉ざされる。朝鮮戦争始まる。フランス隊アンナプルナに初登(8000m峰で初)。51年一月、登歩渓流会の川上亮良厳冬期利尻東稜初登頂。
主任幹事は前期後期とも山崎英雄。夏は日高8班と中央高地2班、冬春は日高3班と中央高地3班など。
●1951(昭和26)年度
サンフランシスコ講和条約調印。英シプトン隊、エベレストのネパール側東南稜を試登(初めて)。
主任幹事は通年野田四郎。夏は日高10班と中央高地2班、冬は山岳部戦後初の集団作戦、十勝大雪(美瑛富士→黒岳)厳冬期縦走。リーダーは木崎甲子郎、計19人。(記事あり)
●1952(昭和27)年度
米占領軍から開放される。今西錦司体長隊マナスル偵察。京大山岳部、知床岳と羅臼岳の厳冬期初登。
主任幹事は通年で有波敏明。夏は日高6、大雪は4班。冬は1940峰と中の岳の厳冬期初登(記事あり)を含む日高2、大雪1、ほか本州道内多数。中の岳はその六日後に札幌山岳会が別ルートで登頂。
厳冬期知床初縦走を終えた帰りに来札の京大山岳部と懇親会。合宿はヘルベチアで十二月中旬一週間と、十勝岳勝岳荘で3月中旬一週間。
●1953(昭和28)年度
英隊エベレストに初登。独墺隊、ナンガパルバット初登。第一次マナスル隊三田幸夫隊長。札幌山岳会羅臼岳ー硫黄山厳冬期初縦走。
主任幹事は木村俊郎。ベチアでの新歓に新入生9名。年末の冬合宿は十勝岳で10日間。夏は新冠川初完全遡行を含む日高7班。大雪2班、冬は日高1班、大雪1班。ほか道内、内地多数3月は穂高や立山〜槍の縦走など北アで3班。5年目部員井上正惟、5月の中ア空木岳で遭難死。8月、一年目部員鈴木康平、剣岳ブナクラ沢で鉄砲水のため遭難死。
●1954(昭和29)年度
青函連絡船「洞爺丸」遭難、水爆実験で第五福竜丸が被曝、自衛隊発足再軍備。第2次マナスル隊堀田弥一隊長断念。伊隊K2初登頂、墺隊チョーオユー初登。翌55年3月、小山義治ら東京北穂会利尻南稜初登。
主任幹事は前期岡本丈夫、後期河内洋佑。夏は日高で7班、大雪で2班。冬は全員でカムエク→幌尻の極地法の主稜線縦走(編成6班)。ほか内地道内多数。
●1955(昭和30)年度
仏隊マカルー初登、英隊カンチェンジュンガ初登
主任幹事は前期長友久雄、後期永光俊一。夏は日高8班。うち滝沢政治パーティーは無名沢から1823南面直登沢初遡行(ただし右岸に逃げている)。大雪、知床1班ずつ。冬は日高2、大雪1、芦別夕張縦走、奥又白。春は日高2、大雪2など10班。
●1956(昭和31)年度
日ソ国交回復。シベリア抑留最後の帰還。日本隊マナスル初登、昭和基地での南極観測出発。スイス隊ローツェ初登、墺隊ガッシャーブルムII峰初登。
主任幹事は前期永光俊一、後期は西信博。夏は日高10班、大雪1班。冬合宿は十勝で6日間。15名参加。これと同時に12月12日から1月8日まで日高全山(トヨニ→幌尻)厳冬期縦走(内容は本文)。リーダー西信博。縦走隊4人、サポート隊三班の計21人。部報8号の看板企画だ。春も日高で2班。
●1957(昭和32)年度
ソ連、史上初の人工衛星スプートニク1号打ち上げに成功。
西堀栄三郎隊長らの11人が第一次南極越冬。墺隊ブロードピークを速攻登山で初登。ヘルマンブール、チョゴリザで遭難。
主任幹事は前期高橋利雄、後期安間荘。五月の連休に十勝岳勝岳荘で春合宿(初?)。夏は日高9班。うち酒井和彦パーティーは無名沢から1839峰北面に初遡行。北アで二班。冬山準備合宿を11月下旬に芦別岳で4日間。十二月末に十勝で冬合宿。冬は日高2班、大雪1班、穂高に2班ほか。このほか五月下旬に二ペソツ東壁の初登記録あり。一年目部員前田一夫三月に前穂吊り尾根で遭難死。
●1958(昭和33)年度
米隊ガッシャーブルムI峰初登。翌59年一月キューバ革命、3月チベットで蜂起、鎮圧。ダライラマ、チベットを脱出。59年3月利尻東北稜初登。
主任幹事は五月まで前年より安間荘、翌二月まで酒井和彦、二月以降遠藤禎一。
4月、大雪に温泉小屋建設に向かう。この年は断念。五月新入生歓迎空沼フェスティバル、前年に続きニペソツ東壁を6月に登る。夏山は日高11班、大雪小山行多数、9月芸大山岳部OBの捜索依頼を受ける。11月21ー24と27-31に芦別岳合宿。12月は合宿に先駆け北鎌尾根→奥穂計画で、五班18人の極地法。十勝岳勝岳荘で29人、例年の冬合宿中、四年目部員小竹幸昭と一年目部員加藤幹夫、十勝OP尾根で雪崩遭難死。北鎌隊は急遽下山。その後春山は日高2、知床1、大雪1。
次回中編、後編では記事を紹介するが、戦争中、直後の記録はほとんどこの「年報」に簡潔にあるだけ。乏しい記録だが1944、45年の両年にも一週間の冬合宿を続けていたのには驚いた。そして日本の生き残りは着々と復活を遂げていったのが分かる。同じ北大山岳部という入れ物の中、自分の学生時代の年頃の世間に対する相対感覚と重ね合わせると、ルームは戦時でも世間が放っておいてくれたサンクチュアリとして在ったのかもしれない。余談ながら平成20年のいまの大学のほうがよほど「消費経済社会主義政策」に取り込まれてしまっている。その中で当局には見つかりもしないほどこぢんまりと細く強く、山岳部のトーチを繋いでいるように見える。「消費が美徳」、「金が無ければ遊び方も分からない」というご時世にあって、山岳部員が少ないのは当たり前である。
(前編/中編/後編)
【総評】
1941-1958年度の18年分の記録。「冬の日高全山縦走」「冬の十勝大雪縦走」の二大イベントの報告が併せて70p、ペテガリ冬季初登記録を含む日高最後の初登記録五連発記録集「積雪期の日高山脈」が39p。中部日高で最後に残った秘境、ナナシ沢初遡行記含む無雪期記録集、「夏の紀行」が30p。十勝川源流の温泉小屋建設の記録と、犬ソリ研究の二つの報告が32p。追悼が7人で20p。戦死など「物故者略歴」が7p。18年分の「年報」が大量に178pで、合計377p。編集委員は5名の連名。編集後記は杉野目浩。価格は500円。最後のA5判。(敬称略)
【目次】
部報八号の発刊にあたって・・・・・・・・・・・・・・・原田準平
厳冬期の日高山脈全山縦走・・・・・・・・・・・・・・・西信博
冬の十勝、大雪山縦走・・・・・・・・・・・・・・・・・
積雪期の日高山脈
ペテガリ岳〜一九四三年一月〜・・・・・・・渡辺良一、今村昌耕
イドンナップ岳〜一九四八年一月〜・・・・・・・・・・木崎甲子郎
札内岳よりカムイエクウチカウシ山へ〜一九四九年一月〜・・・・・・・・橋本誠二
コイカクシュ札内岳よりカムイエクウチカウシ山へ〜一九五〇年一月〜・・・・・・・・・・山崎英雄
中ノ岳と神威、ペテガリ岳〜一九五三年一月〜・・・・・・杉野目浩
無言の対話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊藤秀五郎
夏の紀行
余市川のほとり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・奥村敬次郎
二つの無名沢遡行記
無名沢よりカムイエクウチカウシ山・・・・・・・・・・・滝沢政治
無名沢よりペテガリ岳・・・・・・・・・・・・・・・・・酒井和彦
夏の知床岳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鮫島淳一郎
森、温泉、夢〜十勝川源流温泉小舎建設始末記〜・・西村豪、神前博
犬ソリの研究・・・・・・・・・・・・北海道大学極地研究グループ
追悼
奥村先生のことなど・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木崎甲子郎
山岳部長奥村敬次郎氏遭難記録
花岡八郎兄を想う・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・向川信一
井上君の死・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐伯富男
康平君・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加納正敏
前田一夫君の憶い出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木良博
小竹幸昭の追憶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐々木幸雄
加藤君のこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村恒美
物故者略歴(一九四〇〜一九五九)
年報 一九四一〜一九五八
写真6点、附図4点
【年報概要と時代背景】
社会も登山界も激動期なのでそういう背景を並べて、ルームのいきさつをまずはイッキに見てみる。
●1941(昭和16)年度
コイカク沢遭難から年度明けて、五月にこのルートからペテガリをアタックしている。夏メインは日高に大雪に北アルプスに9パーティー出し、冬は日米開戦直後に吹上温泉で冬合宿もやっている。三月には橋本誠二、朝比奈英三がコイカクからルベツネ岳まで迫っている。まだまだ普段どおりの年だ。
● 1942(昭和17)年度
太平洋戦線拡大。マレー、ジャワ、スマトラ占領。
夏メインは日高だけでも6パーティー、このうち渡辺良一、橋本芳郎、菊池徹は無名沢(→コイカク岳)の初遡行を遂げた。冬合宿は一年班ニセコ、二年班愛山渓で行っている。冬季は念願のペテガリ初登を成し遂げ(記事あり)、楽古岳パーティーもある。2月下旬に大雪、3月に谷川、立山へのメイン山行がある。
●1943(昭和18)年度
春ガダルカナル、アリューシャンで敗退、秋には学徒出陣。残雪期には道内全域の山行記録がある。北日高で三つの沢メイン山行はじめ年末の十勝合宿も8日間行っている。積雪期山行は武利武華と楽古に3月に小山行に行っているのみで学徒出陣の影響を受け始めているようだ。
●1944(昭和19)年度
サイパン、テニアン、グアム全滅、秋レイテ沖海戦。特攻攻撃はじまる。東京初空襲。
年末の冬合宿は吹上温泉使用不能のためニセコ馬場温泉で七日間行っているが、他の山行記録は8月の夕張岳とカムエク二つのみ。詳しい事情は書かれていない。全土が空爆にあうのは20年3月10日の東京大空襲から。
●1945(昭和20)年度
春、硫黄島全滅、全国の主要都市で空爆、沖縄で地上戦、夏原爆攻撃で敗戦。ソ連参戦。
この代の幹事に南極の菊池徹氏がいる。このご時勢に年末の十勝冬季合宿を貫徹している。「十二月一七日〜二三日、一四名。非常なる困難を克服しやることが出来た。吹上温泉使用不能のため勝岳荘にて自炊す。」敗戦の混乱の中、食料調達も苦労したはず。
●1946(昭和21)年度
極東国際軍事法廷(東京裁判)が開廷。
夏メインは日高4つ大雪1つの5班、十勝でも一週間の合宿をおこなっている。が、積雪期の山行記録は、翌年度に報告がある。7つの記録があるが、あまり長い山行は行えていない。余市岳でイグルー生活という記録もある。
●1947(昭和22)年度
日本国憲法施行。48年一月、早大隊が東尾根から極地法でペテガリに登頂、厳冬期第二登。
夏山は日高と大雪に全8班。うち中部日高班がコイカク沢の下降途中、巻きの際、転落して花岡八郎が遭難死した。翌48年一月にはイドンナップの冬季初登。
●1948(昭和23)年度
東京裁判結審。49年一月、松濤明が槍の北鎌尾根で遭難死。
主任幹事は菊池三郎。夏は日高6班と中央高地4班、冬春は日高の北トッタベツ岳などの初登含む3班、中央高地3班など。活況だ。(記事あり)
●1949(昭和24)年度
中国共産党、内戦に勝利。ネパールが開国。
主任幹事は前期山崎英雄、後期木崎甲子郎。夏は日高7班と中央高地3班、冬春は中央高地3班など。この年奥村山岳部長(教授)が札内九の沢で遭難死。
●1950(昭和25)年度
中国人民解放軍がチベット侵攻、チベット側登山はこれ以降閉ざされる。朝鮮戦争始まる。フランス隊アンナプルナに初登(8000m峰で初)。51年一月、登歩渓流会の川上亮良厳冬期利尻東稜初登頂。
主任幹事は前期後期とも山崎英雄。夏は日高8班と中央高地2班、冬春は日高3班と中央高地3班など。
●1951(昭和26)年度
サンフランシスコ講和条約調印。英シプトン隊、エベレストのネパール側東南稜を試登(初めて)。
主任幹事は通年野田四郎。夏は日高10班と中央高地2班、冬は山岳部戦後初の集団作戦、十勝大雪(美瑛富士→黒岳)厳冬期縦走。リーダーは木崎甲子郎、計19人。(記事あり)
●1952(昭和27)年度
米占領軍から開放される。今西錦司体長隊マナスル偵察。京大山岳部、知床岳と羅臼岳の厳冬期初登。
主任幹事は通年で有波敏明。夏は日高6、大雪は4班。冬は1940峰と中の岳の厳冬期初登(記事あり)を含む日高2、大雪1、ほか本州道内多数。中の岳はその六日後に札幌山岳会が別ルートで登頂。
厳冬期知床初縦走を終えた帰りに来札の京大山岳部と懇親会。合宿はヘルベチアで十二月中旬一週間と、十勝岳勝岳荘で3月中旬一週間。
●1953(昭和28)年度
英隊エベレストに初登。独墺隊、ナンガパルバット初登。第一次マナスル隊三田幸夫隊長。札幌山岳会羅臼岳ー硫黄山厳冬期初縦走。
主任幹事は木村俊郎。ベチアでの新歓に新入生9名。年末の冬合宿は十勝岳で10日間。夏は新冠川初完全遡行を含む日高7班。大雪2班、冬は日高1班、大雪1班。ほか道内、内地多数3月は穂高や立山〜槍の縦走など北アで3班。5年目部員井上正惟、5月の中ア空木岳で遭難死。8月、一年目部員鈴木康平、剣岳ブナクラ沢で鉄砲水のため遭難死。
●1954(昭和29)年度
青函連絡船「洞爺丸」遭難、水爆実験で第五福竜丸が被曝、自衛隊発足再軍備。第2次マナスル隊堀田弥一隊長断念。伊隊K2初登頂、墺隊チョーオユー初登。翌55年3月、小山義治ら東京北穂会利尻南稜初登。
主任幹事は前期岡本丈夫、後期河内洋佑。夏は日高で7班、大雪で2班。冬は全員でカムエク→幌尻の極地法の主稜線縦走(編成6班)。ほか内地道内多数。
●1955(昭和30)年度
仏隊マカルー初登、英隊カンチェンジュンガ初登
主任幹事は前期長友久雄、後期永光俊一。夏は日高8班。うち滝沢政治パーティーは無名沢から1823南面直登沢初遡行(ただし右岸に逃げている)。大雪、知床1班ずつ。冬は日高2、大雪1、芦別夕張縦走、奥又白。春は日高2、大雪2など10班。
●1956(昭和31)年度
日ソ国交回復。シベリア抑留最後の帰還。日本隊マナスル初登、昭和基地での南極観測出発。スイス隊ローツェ初登、墺隊ガッシャーブルムII峰初登。
主任幹事は前期永光俊一、後期は西信博。夏は日高10班、大雪1班。冬合宿は十勝で6日間。15名参加。これと同時に12月12日から1月8日まで日高全山(トヨニ→幌尻)厳冬期縦走(内容は本文)。リーダー西信博。縦走隊4人、サポート隊三班の計21人。部報8号の看板企画だ。春も日高で2班。
●1957(昭和32)年度
ソ連、史上初の人工衛星スプートニク1号打ち上げに成功。
西堀栄三郎隊長らの11人が第一次南極越冬。墺隊ブロードピークを速攻登山で初登。ヘルマンブール、チョゴリザで遭難。
主任幹事は前期高橋利雄、後期安間荘。五月の連休に十勝岳勝岳荘で春合宿(初?)。夏は日高9班。うち酒井和彦パーティーは無名沢から1839峰北面に初遡行。北アで二班。冬山準備合宿を11月下旬に芦別岳で4日間。十二月末に十勝で冬合宿。冬は日高2班、大雪1班、穂高に2班ほか。このほか五月下旬に二ペソツ東壁の初登記録あり。一年目部員前田一夫三月に前穂吊り尾根で遭難死。
●1958(昭和33)年度
米隊ガッシャーブルムI峰初登。翌59年一月キューバ革命、3月チベットで蜂起、鎮圧。ダライラマ、チベットを脱出。59年3月利尻東北稜初登。
主任幹事は五月まで前年より安間荘、翌二月まで酒井和彦、二月以降遠藤禎一。
4月、大雪に温泉小屋建設に向かう。この年は断念。五月新入生歓迎空沼フェスティバル、前年に続きニペソツ東壁を6月に登る。夏山は日高11班、大雪小山行多数、9月芸大山岳部OBの捜索依頼を受ける。11月21ー24と27-31に芦別岳合宿。12月は合宿に先駆け北鎌尾根→奥穂計画で、五班18人の極地法。十勝岳勝岳荘で29人、例年の冬合宿中、四年目部員小竹幸昭と一年目部員加藤幹夫、十勝OP尾根で雪崩遭難死。北鎌隊は急遽下山。その後春山は日高2、知床1、大雪1。
次回中編、後編では記事を紹介するが、戦争中、直後の記録はほとんどこの「年報」に簡潔にあるだけ。乏しい記録だが1944、45年の両年にも一週間の冬合宿を続けていたのには驚いた。そして日本の生き残りは着々と復活を遂げていったのが分かる。同じ北大山岳部という入れ物の中、自分の学生時代の年頃の世間に対する相対感覚と重ね合わせると、ルームは戦時でも世間が放っておいてくれたサンクチュアリとして在ったのかもしれない。余談ながら平成20年のいまの大学のほうがよほど「消費経済社会主義政策」に取り込まれてしまっている。その中で当局には見つかりもしないほどこぢんまりと細く強く、山岳部のトーチを繋いでいるように見える。「消費が美徳」、「金が無ければ遊び方も分からない」というご時世にあって、山岳部員が少ないのは当たり前である。
(前編/中編/後編)
- コメント (0)
OBの山行記録・ 2008年4月30日 (水)
【ルート】 劔岳 池ノ谷右俣 中央ルンゼ
【日程】 4月 29〜30日
【メンバー】清野啓介(S51)小暮太二(沼田山岳会)
昭和33年3月15日、ベルニナ山岳会の古川純一等により初登攀された中央ルンゼ。
池ノ谷から劔尾根の頭に一直線駆上がる氷の滑り台。
劔のクラシックルートとしては落とせない一本。
米山が富山に転勤してきたら一緒に登ろうと思っていたが....
青森辺りで引っ掛かって、南下してきそうもないので、山岳会の若いのとサクッと
登ってきました。
馬場島周辺。
昔の馬場島山荘はもう無くなっていました。
小窓尾根に行くPと前後しながら白萩林道を行く。
白萩川取水口手前の徒渉。
池ノ谷ゴルジュ、デブリが散乱している。
神経を集中させ、ブロックの崩壊に備える。
剣尾根を望む。
剣尾根の頭左の肩から落ちる白い筋が中央ルンゼ。
劔尾根末端 池ノ谷二股
池ノ谷二股CP
万全を期して4:00出発!
池ノ谷右股をつめる。
右がドーム稜、正面は中央壁
早月尾根
中央ルンゼ F4
中央ルンゼ F4をフォローしてくる小暮君
中央ルンゼ中間部。
200mの氷の滑り台
200Mの氷の滑り台をフォローしてくる小暮君
毛勝三山遠望
中央ルンゼ上部
劔尾根コルaからの下降
三ノ窓から池ノ谷左俣。
シリセードで一気に二股まで下降。
劔尾根R4
氷りの発達は悪いが登れそうだ。
来年行きます。パートナー募集!!
【日程】 4月 29〜30日
【メンバー】清野啓介(S51)小暮太二(沼田山岳会)
昭和33年3月15日、ベルニナ山岳会の古川純一等により初登攀された中央ルンゼ。
池ノ谷から劔尾根の頭に一直線駆上がる氷の滑り台。
劔のクラシックルートとしては落とせない一本。
米山が富山に転勤してきたら一緒に登ろうと思っていたが....
青森辺りで引っ掛かって、南下してきそうもないので、山岳会の若いのとサクッと
登ってきました。
馬場島周辺。
昔の馬場島山荘はもう無くなっていました。
小窓尾根に行くPと前後しながら白萩林道を行く。
白萩川取水口手前の徒渉。
池ノ谷ゴルジュ、デブリが散乱している。
神経を集中させ、ブロックの崩壊に備える。
剣尾根を望む。
剣尾根の頭左の肩から落ちる白い筋が中央ルンゼ。
劔尾根末端 池ノ谷二股
池ノ谷二股CP
万全を期して4:00出発!
池ノ谷右股をつめる。
右がドーム稜、正面は中央壁
早月尾根
中央ルンゼ F4
中央ルンゼ F4をフォローしてくる小暮君
中央ルンゼ中間部。
200mの氷の滑り台
200Mの氷の滑り台をフォローしてくる小暮君
毛勝三山遠望
中央ルンゼ上部
劔尾根コルaからの下降
三ノ窓から池ノ谷左俣。
シリセードで一気に二股まで下降。
劔尾根R4
氷りの発達は悪いが登れそうだ。
来年行きます。パートナー募集!!
- コメント (4)
OBの山行記録・ 2008年4月15日 (火)
【年月日】2008年4月13日
【ルート】青山奥二番川ーピンネシリ南西に延びる尾根ーピークー登った尾根を左岸とする沢ー青山奥二番川
【メンバ】石川やんけ(87), 斉藤清克.(87)
【時 間】除雪終点170m(7:50)→尾根取付430m(10:30)→ピンネシリ1100m(12:30/13:20)→尾根取付(13:45)→除雪終点(15:30)
今週は東北のスキー山行に参加するつもりだったが,金曜日残業が入り仙台C0に間に合わず。おまけに土曜日も仕事する羽目になってしまった。そんな折り,斉藤から日帰りでピンネシリに行こうとの誘い。
札幌を朝出て当別から増毛に向かう道道を走る。二番川という元集落から林道にはいる。除雪は標高170mまで。地図上に握りこぶしの法則を適用し,時間読みをたて出発。林道は所々雪が切れているので,スキーは担ぐ。
登ったのはピンネシリピークから南南西に延びる尾根。タンネはほとんどない。この尾根を滑り降りても楽しそう。
ピークのすぐそばには,こんなでっかい気象レーダが建っている。
小一時間ばかしピークでゆっくりする。暑寒別岳を背景に記念写真をとると,気象レーダが入ってしまい興ざめなので,石狩平野で我慢する。
登った尾根北側の広い沢型を滑り降りる。出だしはえらく急だがザラメ雪のため快調。やがて傾斜が緩くなり,木々の間をすり抜けながら快適に滑る。調子にのって滑っていたら尾根取付までたった20分で着いてしまった。もっとゆっくり滑れば良かったが,斉藤と一緒だと仕方ないか・・・
握りこぶしの法則はばっちり的中。除雪終点で車にのり,晩飯のおかずにふきのとうを採って帰る。
札幌を朝出て当別から増毛に向かう道道を走る。二番川という元集落から林道にはいる。除雪は標高170mまで。地図上に握りこぶしの法則を適用し,時間読みをたて出発。林道は所々雪が切れているので,スキーは担ぐ。
登ったのはピンネシリピークから南南西に延びる尾根。タンネはほとんどない。この尾根を滑り降りても楽しそう。
ピークのすぐそばには,こんなでっかい気象レーダが建っている。
小一時間ばかしピークでゆっくりする。暑寒別岳を背景に記念写真をとると,気象レーダが入ってしまい興ざめなので,石狩平野で我慢する。
登った尾根北側の広い沢型を滑り降りる。出だしはえらく急だがザラメ雪のため快調。やがて傾斜が緩くなり,木々の間をすり抜けながら快適に滑る。調子にのって滑っていたら尾根取付までたった20分で着いてしまった。もっとゆっくり滑れば良かったが,斉藤と一緒だと仕方ないか・・・
握りこぶしの法則はばっちり的中。除雪終点で車にのり,晩飯のおかずにふきのとうを採って帰る。
- コメント (1)
OBの山行記録・ 2008年4月7日 (月)
【年月日】2008年4月6日
【ルート】除雪終点→積丹岳手前のポコ
【メンバ】石川やんけ(87), 石川Jr.(小5)
【時 間】登山口160m(8:45)→休憩所418m(9:45)→最高到達点1130m(14:00)→休憩所(15:00)→登山口(15:20)
先々週,塩谷丸山から見えた積丹岳山頂を,小学5年生になったばかりの長男を連れて目指す。が,ピーク手前のポコにて時間切れで引き返し。札幌への帰路,来季のリベンジを息子と誓う。
登山口、我々の他に数台の車が止まっていた。私はシールで,息子はスノーシューで登る。息子のスキー(ゲレンデ用)は私が担ぐ。
休憩所までは,林道歩き。
標高900m位の主稜線にあがる手前。カンバの巨木がまばらで幻想的。最近雪が降ったのか,雪面は真っ白だ。
主稜線にあがったところで積丹岳?(右)を望む。
積丹岳と信じたポコ手前の急登。斉藤(87)に借りたスノーシューが効果的。
最高到達点のピーク手前1130mポコ。積丹岳ピークを背景に。ピークまでひと登りだが,時間が遅いこと(14時),ペースが急に落ちてきたこと,風がややあること,などを考慮して退却とする。宮井さんにカメラーデンを捧げる。
担いできたスキーをはかせ,滑降開始。風成雪とザラメが混じる滑りにくい斜面を,ボーゲンで慎重に下る。体重が軽いためか,雪にもぐらずに,すいすい滑っていく。一方私は,部分的に深い雪に足をとられ,転びまくり。
日本海に向かって滑る。雪もザラメで安定し快調,楽しいのひとこと。
カンバの森を直滑降。6時間近くかかった登りを,1時間あまりで下ってしまった。滑りはゲレンデのほうが面白いと言う息子に,山スキーの醍醐味を語り聞かせる。
国道からみた積丹岳。あと少しでピークにとどかなかったことを反省し,来シーズンのリベンジを誓う。
【ルート】除雪終点→積丹岳手前のポコ
【メンバ】石川やんけ(87), 石川Jr.(小5)
【時 間】登山口160m(8:45)→休憩所418m(9:45)→最高到達点1130m(14:00)→休憩所(15:00)→登山口(15:20)
先々週,塩谷丸山から見えた積丹岳山頂を,小学5年生になったばかりの長男を連れて目指す。が,ピーク手前のポコにて時間切れで引き返し。札幌への帰路,来季のリベンジを息子と誓う。
登山口、我々の他に数台の車が止まっていた。私はシールで,息子はスノーシューで登る。息子のスキー(ゲレンデ用)は私が担ぐ。
休憩所までは,林道歩き。
標高900m位の主稜線にあがる手前。カンバの巨木がまばらで幻想的。最近雪が降ったのか,雪面は真っ白だ。
主稜線にあがったところで積丹岳?(右)を望む。
積丹岳と信じたポコ手前の急登。斉藤(87)に借りたスノーシューが効果的。
最高到達点のピーク手前1130mポコ。積丹岳ピークを背景に。ピークまでひと登りだが,時間が遅いこと(14時),ペースが急に落ちてきたこと,風がややあること,などを考慮して退却とする。宮井さんにカメラーデンを捧げる。
担いできたスキーをはかせ,滑降開始。風成雪とザラメが混じる滑りにくい斜面を,ボーゲンで慎重に下る。体重が軽いためか,雪にもぐらずに,すいすい滑っていく。一方私は,部分的に深い雪に足をとられ,転びまくり。
日本海に向かって滑る。雪もザラメで安定し快調,楽しいのひとこと。
カンバの森を直滑降。6時間近くかかった登りを,1時間あまりで下ってしまった。滑りはゲレンデのほうが面白いと言う息子に,山スキーの醍醐味を語り聞かせる。
国道からみた積丹岳。あと少しでピークにとどかなかったことを反省し,来シーズンのリベンジを誓う。
- コメント (2)
OBの山行記録・ 2008年4月6日 (日)
【ルート】 越後駒ヶ岳 オツルミズ沢 滑降
【日程】 4月6日
【メンバー】 清野啓介(51) 小暮太二(沼田山岳会)
数年来の課題 『オツルミズ沢滑降』 4度目の正直でようやく貫徹できました。
下部瀑流帶はスキー滑降する事は出来ないので、郡界尾根をを越え隣のセンノ沢
を滑ったのですが、源頭部の快適な滑降、郡界尾根の雪稜、ブロック崩壊に怯えな
がらのセンノ沢滑降と充実した一日になりました。
金山沢奥壁三スラブの頭。
銀山平から白沢林道を行く。
駒ヶ岳山頂を望む。
白沢魚止の滝。
右岸、左岸どちらも巻ける。
白沢上部、百草の池を目指してひたすら登る。
滝ハナ沢右岸尾根、わらじの記録があるが....
素晴らしいナイフリッジだそうだ!
白沢源頭部、最後の雪壁。
滝ハナ沢源頭部はスキーの為にあるような斜面が続く。
中央奥が中の岳。
山頂からのオカメノゾキ。
ここの縦走もまだ課題として残ってます!!
いつ解決できるのやら.....
中の岳 祓川源頭。
斉藤、井原と登った幣の滝もただの雪の斜面。
オツルミズ沢源頭にドロップイン。
今回のパートナー小暮君。
山岳会のホープ。
サナギ滝を覗き込みたかったのだが....
ブロックの崩壊が怖くて早々と郡界尾根に逃げる。
金山沢奥壁三スラブの頭。
オツルミズ沢上流部の全景。
右岸金山沢奥壁は600m切れ落ちている。
池ノ塔から駒ヶ岳山頂を望む。
16:00 63年前の今日、呉港を出港した“大和”を思い
西に向かって帽子を振った!
センノ沢にドロップイン。
プロックと口を開けた滝に顔を引きつらせ、
20:00に下山できました!
【日程】 4月6日
【メンバー】 清野啓介(51) 小暮太二(沼田山岳会)
数年来の課題 『オツルミズ沢滑降』 4度目の正直でようやく貫徹できました。
下部瀑流帶はスキー滑降する事は出来ないので、郡界尾根をを越え隣のセンノ沢
を滑ったのですが、源頭部の快適な滑降、郡界尾根の雪稜、ブロック崩壊に怯えな
がらのセンノ沢滑降と充実した一日になりました。
金山沢奥壁三スラブの頭。
銀山平から白沢林道を行く。
駒ヶ岳山頂を望む。
白沢魚止の滝。
右岸、左岸どちらも巻ける。
白沢上部、百草の池を目指してひたすら登る。
滝ハナ沢右岸尾根、わらじの記録があるが....
素晴らしいナイフリッジだそうだ!
白沢源頭部、最後の雪壁。
滝ハナ沢源頭部はスキーの為にあるような斜面が続く。
中央奥が中の岳。
山頂からのオカメノゾキ。
ここの縦走もまだ課題として残ってます!!
いつ解決できるのやら.....
中の岳 祓川源頭。
斉藤、井原と登った幣の滝もただの雪の斜面。
オツルミズ沢源頭にドロップイン。
今回のパートナー小暮君。
山岳会のホープ。
サナギ滝を覗き込みたかったのだが....
ブロックの崩壊が怖くて早々と郡界尾根に逃げる。
金山沢奥壁三スラブの頭。
オツルミズ沢上流部の全景。
右岸金山沢奥壁は600m切れ落ちている。
池ノ塔から駒ヶ岳山頂を望む。
16:00 63年前の今日、呉港を出港した“大和”を思い
西に向かって帽子を振った!
センノ沢にドロップイン。
プロックと口を開けた滝に顔を引きつらせ、
20:00に下山できました!
- コメント (0)
現役の報告・ 2008年4月4日 (金)
【ルート】岬町〜硫黄山〜知床岳〜知床岬〜相泊
【年月日】2008年3月18ー24日(7ー0)
【メンバー】L白石(7 AL澤田(4 M小池 田中 野沢(1
【感想】
白石:充実した山行だった。Roomでメインが出せてうれしく思います。
澤田:現役最後のメイン、貫徹! パーティのみんな、お酒さん、ありがとう!
小池:非常に疲れました。やばかったス(特に2日目)。神秘的な岬が見れて良かった。
田中:流氷ロックと岩海苔がうまかった。いいメインでした。
野沢:山もいいけど海も最高でした。
【時間とルート】
3月17日 札幌ー岬町;知円別小学校=C0
L-sはバスで、Mは野沢の車で羅臼に集合した。校長先生にお願いして車を小学校にとめさせて頂いた。創立70周年にして、今年廃校になるという。
18日 ○ C0 4:30/6:50‐11:30 Co.900=Ω1
5時よりすでにテントの外は明るく、春メインと同時に知床という東方に来たと実感した。小学校裏から入山し尾根をのぼる。振り返ると、海岸から流氷までの沖合いに船が出漁していた。流氷の向こうには国後島がある。Co.900にイグルーを作ってΩ1とした。ケンネベツ川の谷間をワタリガラスが不思議な声で鳴きながら飛んでいった。
19日 ○ Ω1 4:00/5:50 - 7:10 Co.1350=シーデポ 7:30 - 9:10硫黄山 9:20 - 11:10 デポ地 11:20 - 16:00 ルシャ二股=C2
今日も天気は良く、移動Hが来ているうちにと、ルシャ二股まで行く予定で出発する。Co.1350付近で共同装備とスキーをデポし、Eストックで知円別分岐まで歩いた。ここからE.P.で進み、途中の岩峰は西側をまいた。田中は何度か足を滑らせ、ヒヤッとさせられる。硫黄山は西側からまわりこんで頂上へ。オホーツク海側は流氷にビッシリと覆われていた。まわりこんだ箇所はB.S.で下った。Mはネーベンを2つ食べられることに喜んでいた。荷物を回収してシーズリでCo.1350付近をtrv.し、ルシャ山を目指す。山頂で部歌をほぼ独唱し、OB方に黙祷をした。今年も積雪が少ないためか、ハイマツが尾根を覆っており、シールで踏んだりこいだりしながら前進。Co.500付近から適当な沢型を二股まで下った。
硫黄山ピークから知床岳を望む。まだまだ先は長いように感じられていた。
20日 ◎のち○ C2 5:00/7:10 - 14:30 Co.862北コル=C3
昨日の行動でM達が疲れていたため、朝はゆっくりと出発。Co.160の沢型からルシャ川の左股右岸尾根を経て、ラサ山コンタ尾根を登った。Co.720ポコの下りでツボにした以外、すべてシールで歩けた。タンネの下にテントを張ってC3。焚火をし、暗くなるまでのんびりした。
21日 ○ C3 3:30/6:00 - 9:10 1182西コル - 9:45知床岳 9:50 - 10:10 西コル 10:25 - 15:45 ウィーヌプリ南ポコ南コル=C4
天場からシーズリをしていくが、ハイマツ帯がうるさい。田中は靴擦れがひどく、痛そうだ。谷間にはガスがゆっくりと上がってきていたが、まだ晴れ間は続いていた。・1182西コルに荷物とスキーをデポし、知床岳を空身で往復した。コルからポロモイ台地に降りるまではシーズリで歩いた。ポロモイから先の尾根はクラストしているがシールで下った。コルはタンネが太く快適。P食が盛大に出された。夜中、キツネがテントを破ってラーメンを2袋持ち去った。
22日 ◎ C4 3:30/5:45 - 10:10 知床岬 11:10 -15:30 カブト岩南の入り江=C5
ハイマツが非常にうっとうしいので、ウィーヌプリより先は北側の沢型にルートをとって岬を目指すことにした。上部はシーズリ・ツボで沢底まで下り、そこからシールに変えた。段々と傾斜がなくなって、ウミネコの鳴き声に海岸が近いことが分かった。Co.200付近をtrv.して岬を目指した。雪はなく、笹原をシールであるいて岬に到達。今後天気が悪化することを考え、ウィーヌプリを再び乗越すより、下調べもしてあり、干潮の時間もちょうど合う海岸線を歩くこと方が安全で早いと判断し、ルートを変更して先へ進めた。カブト岩はルンゼを登下降して通過した。登りにfix有り。降り立った入り江には番屋があり、そこでC5。
23日 ◎ C5 2:30/4:50 - 12:45 モレイウシ川河口 13:00 -15:45 化石浜=C6
干潮時に化石浜南を通過すべく、早起きして出発。前日偵察しておいた念仏岩の登りは立った5m程度をMは空身で通過させた。下りは10mほど、木を支点にしてab.し、そこから斜面を捲き道沿いに下った。登り下りともfixがあった。ペキンの鼻手前のルンゼを詰めて尾根まで登った。ルンゼは傾斜あり緊張するが、雪が安定していたのでロープは出さなかった。台地上を横断し、ルンゼを下って海岸へ。船泊のへつりは問題なく、むしろメガネ岩手前がいやらしい。M空身で通過させた。干潮のピークは過ぎていたが、剣岩周辺は潮間帯がまだ出ており、歩いて通過。岩のりがたくさんあり、皆でむしゃむしゃ食べた。疲れたM達の冷たい視線を感じつつモイレウシ川(予定天場)を通過。
タケノコの岬状は穴があり、くぐって通過。そこからは巨岩帯になっており、くぐったりまいたりで化石浜へ。番屋でC6。流氷のオンザロックを飲んで就寝した。夜中、外に出ようとした小池を熊と勘違いし、野沢は周りをたたき散らした。
24日 ● C6 4:00/6:10 - 11:00 相泊
インナーとの間に漬物袋をはいて出発。化石浜南の入り江は、干潮によって出てきた岩を転石のようにして通過した。そこから少し行った小浜の南端はM空身でへつった。浜で休憩していると、アザラシがニュウと海面から顔を出した。観音岩は一部b.s.して下った。あとは小雨に追われるようにして相泊まで。
【パーティ】
L-s; 白石:特になし 澤田:ストック紛失
`M; 小池:特になし 田中:コッフェル忘れ、滑落未遂 野沢:特になし
【準備山行】
1回目 2/9〜11 羊蹄山 比羅夫〜真狩(3-0)シートラ、乗越し、イグルー
2回目 2/24 E赤岩(1-0)海岸歩き
3回目 3/1〜2 積丹乗越し(2-0)イグルー、乗越し
3月17日 札幌ー岬町;知円別小学校=C0
L-sはバスで、Mは野沢の車で羅臼に集合した。校長先生にお願いして車を小学校にとめさせて頂いた。創立70周年にして、今年廃校になるという。
18日 ○ C0 4:30/6:50‐11:30 Co.900=Ω1
5時よりすでにテントの外は明るく、春メインと同時に知床という東方に来たと実感した。小学校裏から入山し尾根をのぼる。振り返ると、海岸から流氷までの沖合いに船が出漁していた。流氷の向こうには国後島がある。Co.900にイグルーを作ってΩ1とした。ケンネベツ川の谷間をワタリガラスが不思議な声で鳴きながら飛んでいった。
19日 ○ Ω1 4:00/5:50 - 7:10 Co.1350=シーデポ 7:30 - 9:10硫黄山 9:20 - 11:10 デポ地 11:20 - 16:00 ルシャ二股=C2
今日も天気は良く、移動Hが来ているうちにと、ルシャ二股まで行く予定で出発する。Co.1350付近で共同装備とスキーをデポし、Eストックで知円別分岐まで歩いた。ここからE.P.で進み、途中の岩峰は西側をまいた。田中は何度か足を滑らせ、ヒヤッとさせられる。硫黄山は西側からまわりこんで頂上へ。オホーツク海側は流氷にビッシリと覆われていた。まわりこんだ箇所はB.S.で下った。Mはネーベンを2つ食べられることに喜んでいた。荷物を回収してシーズリでCo.1350付近をtrv.し、ルシャ山を目指す。山頂で部歌をほぼ独唱し、OB方に黙祷をした。今年も積雪が少ないためか、ハイマツが尾根を覆っており、シールで踏んだりこいだりしながら前進。Co.500付近から適当な沢型を二股まで下った。
硫黄山ピークから知床岳を望む。まだまだ先は長いように感じられていた。
20日 ◎のち○ C2 5:00/7:10 - 14:30 Co.862北コル=C3
昨日の行動でM達が疲れていたため、朝はゆっくりと出発。Co.160の沢型からルシャ川の左股右岸尾根を経て、ラサ山コンタ尾根を登った。Co.720ポコの下りでツボにした以外、すべてシールで歩けた。タンネの下にテントを張ってC3。焚火をし、暗くなるまでのんびりした。
21日 ○ C3 3:30/6:00 - 9:10 1182西コル - 9:45知床岳 9:50 - 10:10 西コル 10:25 - 15:45 ウィーヌプリ南ポコ南コル=C4
天場からシーズリをしていくが、ハイマツ帯がうるさい。田中は靴擦れがひどく、痛そうだ。谷間にはガスがゆっくりと上がってきていたが、まだ晴れ間は続いていた。・1182西コルに荷物とスキーをデポし、知床岳を空身で往復した。コルからポロモイ台地に降りるまではシーズリで歩いた。ポロモイから先の尾根はクラストしているがシールで下った。コルはタンネが太く快適。P食が盛大に出された。夜中、キツネがテントを破ってラーメンを2袋持ち去った。
22日 ◎ C4 3:30/5:45 - 10:10 知床岬 11:10 -15:30 カブト岩南の入り江=C5
ハイマツが非常にうっとうしいので、ウィーヌプリより先は北側の沢型にルートをとって岬を目指すことにした。上部はシーズリ・ツボで沢底まで下り、そこからシールに変えた。段々と傾斜がなくなって、ウミネコの鳴き声に海岸が近いことが分かった。Co.200付近をtrv.して岬を目指した。雪はなく、笹原をシールであるいて岬に到達。今後天気が悪化することを考え、ウィーヌプリを再び乗越すより、下調べもしてあり、干潮の時間もちょうど合う海岸線を歩くこと方が安全で早いと判断し、ルートを変更して先へ進めた。カブト岩はルンゼを登下降して通過した。登りにfix有り。降り立った入り江には番屋があり、そこでC5。
23日 ◎ C5 2:30/4:50 - 12:45 モレイウシ川河口 13:00 -15:45 化石浜=C6
干潮時に化石浜南を通過すべく、早起きして出発。前日偵察しておいた念仏岩の登りは立った5m程度をMは空身で通過させた。下りは10mほど、木を支点にしてab.し、そこから斜面を捲き道沿いに下った。登り下りともfixがあった。ペキンの鼻手前のルンゼを詰めて尾根まで登った。ルンゼは傾斜あり緊張するが、雪が安定していたのでロープは出さなかった。台地上を横断し、ルンゼを下って海岸へ。船泊のへつりは問題なく、むしろメガネ岩手前がいやらしい。M空身で通過させた。干潮のピークは過ぎていたが、剣岩周辺は潮間帯がまだ出ており、歩いて通過。岩のりがたくさんあり、皆でむしゃむしゃ食べた。疲れたM達の冷たい視線を感じつつモイレウシ川(予定天場)を通過。
タケノコの岬状は穴があり、くぐって通過。そこからは巨岩帯になっており、くぐったりまいたりで化石浜へ。番屋でC6。流氷のオンザロックを飲んで就寝した。夜中、外に出ようとした小池を熊と勘違いし、野沢は周りをたたき散らした。
24日 ● C6 4:00/6:10 - 11:00 相泊
インナーとの間に漬物袋をはいて出発。化石浜南の入り江は、干潮によって出てきた岩を転石のようにして通過した。そこから少し行った小浜の南端はM空身でへつった。浜で休憩していると、アザラシがニュウと海面から顔を出した。観音岩は一部b.s.して下った。あとは小雨に追われるようにして相泊まで。
【パーティ】
L-s; 白石:特になし 澤田:ストック紛失
`M; 小池:特になし 田中:コッフェル忘れ、滑落未遂 野沢:特になし
【準備山行】
1回目 2/9〜11 羊蹄山 比羅夫〜真狩(3-0)シートラ、乗越し、イグルー
2回目 2/24 E赤岩(1-0)海岸歩き
3回目 3/1〜2 積丹乗越し(2-0)イグルー、乗越し
- コメント (2)
OBの山行記録・ 2008年4月3日 (木)
- コメント (1)
OBの山行記録・ 2008年4月2日 (水)
●2008年3月22日〜23日(2-0)
【ルート】トムラウシ温泉→トムラウシ山(往復)
【メンバ】田中健太郎(1987入部)
【行程】
3月22日(晴)トムラウシ温泉(12:00)→夏道→・1143→Co1160 C1(15:30)
3月23日(晴)C1(5:40)→カムイサンケナイ川右岸の尾根→トラバース開始Co1450(7:00-20)→カムイサンケナイ川Co1450(7:55)→夏道の沢側の右岸の尾根(1600の尾根)→Co1830(9:20)→Co1930シーデポ(10:15)→トムラウシ山(11:00-20)→シーデポ地点(11:45-12:10)→C1(13:45-14:45)→トムラウシ温泉(17:15)
トムラウシ温泉から、ほぼ夏道ルートをトムラウシ山を往復しました。スキーは期待していたほど、快調ではなかった。
カムイサンケナイ川右岸尾根Co1400あたりからのトムラウシ山
【ルート】トムラウシ温泉→トムラウシ山(往復)
【メンバ】田中健太郎(1987入部)
【行程】
3月22日(晴)トムラウシ温泉(12:00)→夏道→・1143→Co1160 C1(15:30)
3月23日(晴)C1(5:40)→カムイサンケナイ川右岸の尾根→トラバース開始Co1450(7:00-20)→カムイサンケナイ川Co1450(7:55)→夏道の沢側の右岸の尾根(1600の尾根)→Co1830(9:20)→Co1930シーデポ(10:15)→トムラウシ山(11:00-20)→シーデポ地点(11:45-12:10)→C1(13:45-14:45)→トムラウシ温泉(17:15)
トムラウシ温泉から、ほぼ夏道ルートをトムラウシ山を往復しました。スキーは期待していたほど、快調ではなかった。
カムイサンケナイ川右岸尾根Co1400あたりからのトムラウシ山
【記録】
3/22(土)晴れ 前夜は飲み会が有った為、22日(土)の朝に札幌を出た。トムラウシ温泉脇の登山口から歩き始める。スキーは最初担いでいたが、5分ほどでスキーで歩けるようになる。夏道とおぼしきルートを適当に登るが、雪はぐさぐさで急斜面はずるずると雪面が崩れて登りにくいが、Co900の台地に上がると歩きやすくなった。気温は高く、GWの様だ。・1143を過ぎたところでC1とした。樹林限界はCo1200ほどで、快調な天場だった。
3/23(日)晴れ C1からしばらくは夏道ルートを登るが、カムイサンケナイ川右岸尾根に乗ると、そのまま尾根を登ってCo1450からトラバースを開始して川底へ下りた。傾斜はきつく、途中2箇所ほどちょっとやばい雪面をトラバースすることになった。もう少し下の方をTrするべきだった。川底からは夏道の沢形の右岸にあるゆるい尾根形を登った。最初は傾斜はゆるかったが、上部はかなりきつくなり、クトーを利かせて登る。登りきったところがCo1830で、ここでトムラウシ山周辺の視界が開け、頂上まであと少しという気になる。天気は良いのでのんびりと歩き、途中でシーデポして頂上へ。頂上周辺だけトレースが数多く残っていた。ここはどこでもどうにでも登れる。下りはCo1830からカムイサンケナイ川の川底までが、この山行のメインのスキー滑降箇所であるが、このところの異常なまでの気温の高さであること、南面で朝からずっと日に当たっている急斜面であることから、雪崩が気になるので、多少傾斜がゆるくなる夏道の沢形を滑った。ほとんどザラメに近い雪質で快調に滑れた。川底から右岸尾根への登り返しは、行きより少し下からトラバースを開始し、途中でシールを付けた。右岸尾根からC1までは非常に快適なスキーを楽しむが、C1から下はぐさぐさな雪質だけでなく、スキーでもいきなり膝ぐらいまではまってしまう“落とし穴”が続出し、非常に危険な状態だったので、途中でシールを付けた。ヘロヘロでトムラウシ温泉に下山した後は、飛び込みで宿泊して疲れを癒した。
Co1160の天場の様子。テントは昨年から愛用しているカマボコ型テント(チューブテント)。
今回の山行の核心とも言える、カムイサンケナイ川からの登り。中央の沢形が夏道のルートとなっている。今回はその右岸の尾根状を登り、夏道ルートを滑り降りた。急斜面なので、雪崩への警戒が必要。
その急斜面を登りきると、向こう側の視界が広がっていて、トムラウシ山が目前にせまる。
トムラウシ山頂にて、ミニ三脚で記念撮影。バックは大雪。
頂上から見た裏十勝の様子。
帰りの急斜面の滑降。ザラメに近い雪質で滑りは快適だが、雪崩が少々気になるので、さっさと下りたくなる。
さらにその下の様子。ここまで来ると傾斜がゆるくなり、気が楽になる。
下山後に思わず泊まってしまった東大雪荘。
3/22(土)晴れ 前夜は飲み会が有った為、22日(土)の朝に札幌を出た。トムラウシ温泉脇の登山口から歩き始める。スキーは最初担いでいたが、5分ほどでスキーで歩けるようになる。夏道とおぼしきルートを適当に登るが、雪はぐさぐさで急斜面はずるずると雪面が崩れて登りにくいが、Co900の台地に上がると歩きやすくなった。気温は高く、GWの様だ。・1143を過ぎたところでC1とした。樹林限界はCo1200ほどで、快調な天場だった。
3/23(日)晴れ C1からしばらくは夏道ルートを登るが、カムイサンケナイ川右岸尾根に乗ると、そのまま尾根を登ってCo1450からトラバースを開始して川底へ下りた。傾斜はきつく、途中2箇所ほどちょっとやばい雪面をトラバースすることになった。もう少し下の方をTrするべきだった。川底からは夏道の沢形の右岸にあるゆるい尾根形を登った。最初は傾斜はゆるかったが、上部はかなりきつくなり、クトーを利かせて登る。登りきったところがCo1830で、ここでトムラウシ山周辺の視界が開け、頂上まであと少しという気になる。天気は良いのでのんびりと歩き、途中でシーデポして頂上へ。頂上周辺だけトレースが数多く残っていた。ここはどこでもどうにでも登れる。下りはCo1830からカムイサンケナイ川の川底までが、この山行のメインのスキー滑降箇所であるが、このところの異常なまでの気温の高さであること、南面で朝からずっと日に当たっている急斜面であることから、雪崩が気になるので、多少傾斜がゆるくなる夏道の沢形を滑った。ほとんどザラメに近い雪質で快調に滑れた。川底から右岸尾根への登り返しは、行きより少し下からトラバースを開始し、途中でシールを付けた。右岸尾根からC1までは非常に快適なスキーを楽しむが、C1から下はぐさぐさな雪質だけでなく、スキーでもいきなり膝ぐらいまではまってしまう“落とし穴”が続出し、非常に危険な状態だったので、途中でシールを付けた。ヘロヘロでトムラウシ温泉に下山した後は、飛び込みで宿泊して疲れを癒した。
Co1160の天場の様子。テントは昨年から愛用しているカマボコ型テント(チューブテント)。
今回の山行の核心とも言える、カムイサンケナイ川からの登り。中央の沢形が夏道のルートとなっている。今回はその右岸の尾根状を登り、夏道ルートを滑り降りた。急斜面なので、雪崩への警戒が必要。
その急斜面を登りきると、向こう側の視界が広がっていて、トムラウシ山が目前にせまる。
トムラウシ山頂にて、ミニ三脚で記念撮影。バックは大雪。
頂上から見た裏十勝の様子。
帰りの急斜面の滑降。ザラメに近い雪質で滑りは快適だが、雪崩が少々気になるので、さっさと下りたくなる。
さらにその下の様子。ここまで来ると傾斜がゆるくなり、気が楽になる。
下山後に思わず泊まってしまった東大雪荘。
- コメント (1)
OBの山行記録・ 2008年4月1日 (火)
●2008年3月20日(1-0)
【ルート】白金温泉→美瑛富士(往復)
【メンバ】田中健太郎(1987入部)
【行程】
3月20日(晴→ガス→晴)白金温泉近く(5:30)→両泉橋→美瑛富士(12:00)→両泉橋→白金温泉近く(14:00)
ガスの中、美瑛富士を登ってきました。後でGPSを確認すると、頂上まで届いておりませんでした。
美瑛富士
【ルート】白金温泉→美瑛富士(往復)
【メンバ】田中健太郎(1987入部)
【行程】
3月20日(晴→ガス→晴)白金温泉近く(5:30)→両泉橋→美瑛富士(12:00)→両泉橋→白金温泉近く(14:00)
ガスの中、美瑛富士を登ってきました。後でGPSを確認すると、頂上まで届いておりませんでした。
美瑛富士
【記録】
除雪は、十勝岳火山観測所の近くの林道入り口まで。ここでCoして朝歩き始めた。両泉橋の近くに美瑛富士の登山口なる立て標があり、そこから樹林帯内に入る。現役時代に美瑛富士に登る時は登山道どうりに避難小屋の方へ廻り込む様にして登っていたが、今回は登山口から南西へ頂上まで真っ直ぐ目指して登った。樹林限界はCo1200。Co1600あたりまでは快調に登れるが、そこから上は岩(岩礫?)が出ていて、スキーでの登り下りは不快調。今回はがんばってCo1860までスキーで登ったが、下りはCo1670までスキーを持って下った。そこから下は快調に滑れた。天候は晴れのちガスのち晴れ。頂上付近はガスの中で、帰宅後GPSを確認すると本当の頂上より手前のポコで引き返していた。記録はCo1887m、高度にして1m足りなかった。
Co1200あたりの樹林限界の少し上の様子。美瑛富士はガスの中。
ガスが1時間ほどの間だけ消えた。Co1400あたりから。Co1500〜1600位まではきれいな雪面だが、その上は大小の岩が出ていて、スキーで登るのも下るのもしづらい。さっさとシーデポした方が良かった。傾斜は美瑛岳とそれほど変わらない。
下山後に表示を確認したところ、望岳台まで自動車で上がれる様になるのは、4月22日以後の様です。
除雪は、十勝岳火山観測所の近くの林道入り口まで。ここでCoして朝歩き始めた。両泉橋の近くに美瑛富士の登山口なる立て標があり、そこから樹林帯内に入る。現役時代に美瑛富士に登る時は登山道どうりに避難小屋の方へ廻り込む様にして登っていたが、今回は登山口から南西へ頂上まで真っ直ぐ目指して登った。樹林限界はCo1200。Co1600あたりまでは快調に登れるが、そこから上は岩(岩礫?)が出ていて、スキーでの登り下りは不快調。今回はがんばってCo1860までスキーで登ったが、下りはCo1670までスキーを持って下った。そこから下は快調に滑れた。天候は晴れのちガスのち晴れ。頂上付近はガスの中で、帰宅後GPSを確認すると本当の頂上より手前のポコで引き返していた。記録はCo1887m、高度にして1m足りなかった。
Co1200あたりの樹林限界の少し上の様子。美瑛富士はガスの中。
ガスが1時間ほどの間だけ消えた。Co1400あたりから。Co1500〜1600位まではきれいな雪面だが、その上は大小の岩が出ていて、スキーで登るのも下るのもしづらい。さっさとシーデポした方が良かった。傾斜は美瑛岳とそれほど変わらない。
下山後に表示を確認したところ、望岳台まで自動車で上がれる様になるのは、4月22日以後の様です。
- コメント (0)