OBの山行記録・ 2008年2月12日 (火)
【ルート】ノルマル【年月日】2008.02.09-11(3-0)
【メンバー】田戸岡尚樹(’99年入部)
毎年恒例(?)の「サラリーマンの山ごもり」ですが,今年は日高に行ってきました。
予定していたエサオマンはカットしましたが,もうお腹一杯に満足して帰って来ました。
これであと一年間はまじめなサラリーマンを続けられます。。。
写真はこれから現像に出しに行きますがポジなので週末くらいになります。
以下,簡易版にまとめた記録です。
2/8 仕事終了(17:40)〜最終人家(21:40)
仕事を終えて,一路最終人家へ。
2/9 快晴 C0(6:00)〜尾根取付(6:50)〜十勝幌尻岳(14:50)C1
林道には重機のクローラの轍がありnoラッセル。尾根は最初は楽勝かと思いきや,やはりそんなに甘くなくラッセルが入ってくる。鹿トレースをうまく使いつつ,予定よりけっこう時間がかかりつつ・1472へ。この先はラッセルは軽くなるも,ブッシュやプチ雪庇にシュカブラ段差で結構きつい。ピーク手前くらいでスノーシューにアイゼンを着ける。ピークはかなり噂どおり景色が良い。一段下ろしたら絶好のイグルー適地。時間無いので手抜きでがつがつ作ってたら逆に時間がかかってしまった。でもなんとか二時間弱で日没前には完成。


2/10 快晴 C1(7:10)〜・1710(9:00)〜札内岳(13:00/25)〜Co1550(16:15)C2
下りはなんにもなく快調にぐいぐい歩ける。しかし体調不良。そのわりには・1710までは予定よりも早いペースだったり。ここからの下りが傾斜があって白いので少し怖い。・1586手前では岩稜みたいのがあったりするが,なんでもない。スキーならちょっと処理がめんどいかも。とにかくこの東西稜線はアップダウンが多いしブッシュも多くて消耗する。そしてピークまで最後の標高差300mの登りは傾斜がありきつい。スノーシューで行くには高度感があるが,アイゼンでは埋まりまくってまともに歩けないと思う。最後,ちょっとだけピッケルを出す。ピークでは,日高の全てに東大雪から十勝まで全てが見渡せた。めずらしくピークに長居して浸る。そして札内川に向かってカメラーデンリートを歌う。普段はあんまり意識したことはないけど,この時は自然と歌が口から出た。
本当は,アタックしてもしなくても予定通りピーク付近でイグルーを作るつもりだったけど,ムリしてまで行くこともないのでカットして下ろせる所まで下ろすことにする。下山ということで甘く見ていたが,下りの尾根もなかなか侮れなかった。ブッシュに雪庇に岩だったり。そして登り返しもたったの100mラッセルなのに厳しい。無理やり下ろした感もあるけど予定C3でC2。タンネがあってとても良い天場。



2/11 晴れ C2(7:05)〜尾根末端(8:00)〜トッタベツヒュッテ(10:15/25)〜最終人家(11:45)
下りの尾根は上部はなまら快調にぐんぐん高度を下げれるが,下部はやはりラッセル。伐採のブル道が何度も横切っているのも不快調だし,雪の下のブッシュにひっかかって数回コケたりもする。でも意外と早く沢に下りれた。しばらくは沢沿いのブッシュとラッセルで喘ぎながら進んで林道へ乗る。ここでスキーのトレースが出現。林道途中で例のクローラの轍が出てきて,あとはザックの重さと戦いながらひたすら歩いて下山。ほかの車が2台止まっていた。
下山後は脇目もふらずに一路はげ天へ。じつに3年以上ぶり。OBとはいえ一杯で済ませるわけではいかないプレッシャーがあり,天丼と豚丼のダブルオーダー。やっぱしどっちも最高にうまい。ノート書いて,昔のをぱらぱら読んで,少しデポして帰旭。サラリーマンの山ごもりは今年も無事に終えられた。
今回のルートは主稜線からは少し外れていますが,日高らしい所でした。何より景色が最高です。ひたすらラッセルしたせいか,体脂肪率が7.8%という近年まれに見るオーダーまで下がったのがうれしい今日この頃でした。
仕事を終えて,一路最終人家へ。
2/9 快晴 C0(6:00)〜尾根取付(6:50)〜十勝幌尻岳(14:50)C1
林道には重機のクローラの轍がありnoラッセル。尾根は最初は楽勝かと思いきや,やはりそんなに甘くなくラッセルが入ってくる。鹿トレースをうまく使いつつ,予定よりけっこう時間がかかりつつ・1472へ。この先はラッセルは軽くなるも,ブッシュやプチ雪庇にシュカブラ段差で結構きつい。ピーク手前くらいでスノーシューにアイゼンを着ける。ピークはかなり噂どおり景色が良い。一段下ろしたら絶好のイグルー適地。時間無いので手抜きでがつがつ作ってたら逆に時間がかかってしまった。でもなんとか二時間弱で日没前には完成。


2/10 快晴 C1(7:10)〜・1710(9:00)〜札内岳(13:00/25)〜Co1550(16:15)C2
下りはなんにもなく快調にぐいぐい歩ける。しかし体調不良。そのわりには・1710までは予定よりも早いペースだったり。ここからの下りが傾斜があって白いので少し怖い。・1586手前では岩稜みたいのがあったりするが,なんでもない。スキーならちょっと処理がめんどいかも。とにかくこの東西稜線はアップダウンが多いしブッシュも多くて消耗する。そしてピークまで最後の標高差300mの登りは傾斜がありきつい。スノーシューで行くには高度感があるが,アイゼンでは埋まりまくってまともに歩けないと思う。最後,ちょっとだけピッケルを出す。ピークでは,日高の全てに東大雪から十勝まで全てが見渡せた。めずらしくピークに長居して浸る。そして札内川に向かってカメラーデンリートを歌う。普段はあんまり意識したことはないけど,この時は自然と歌が口から出た。
本当は,アタックしてもしなくても予定通りピーク付近でイグルーを作るつもりだったけど,ムリしてまで行くこともないのでカットして下ろせる所まで下ろすことにする。下山ということで甘く見ていたが,下りの尾根もなかなか侮れなかった。ブッシュに雪庇に岩だったり。そして登り返しもたったの100mラッセルなのに厳しい。無理やり下ろした感もあるけど予定C3でC2。タンネがあってとても良い天場。



2/11 晴れ C2(7:05)〜尾根末端(8:00)〜トッタベツヒュッテ(10:15/25)〜最終人家(11:45)
下りの尾根は上部はなまら快調にぐんぐん高度を下げれるが,下部はやはりラッセル。伐採のブル道が何度も横切っているのも不快調だし,雪の下のブッシュにひっかかって数回コケたりもする。でも意外と早く沢に下りれた。しばらくは沢沿いのブッシュとラッセルで喘ぎながら進んで林道へ乗る。ここでスキーのトレースが出現。林道途中で例のクローラの轍が出てきて,あとはザックの重さと戦いながらひたすら歩いて下山。ほかの車が2台止まっていた。
下山後は脇目もふらずに一路はげ天へ。じつに3年以上ぶり。OBとはいえ一杯で済ませるわけではいかないプレッシャーがあり,天丼と豚丼のダブルオーダー。やっぱしどっちも最高にうまい。ノート書いて,昔のをぱらぱら読んで,少しデポして帰旭。サラリーマンの山ごもりは今年も無事に終えられた。
今回のルートは主稜線からは少し外れていますが,日高らしい所でした。何より景色が最高です。ひたすらラッセルしたせいか,体脂肪率が7.8%という近年まれに見るオーダーまで下がったのがうれしい今日この頃でした。
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OBの山行記録・ 2008年2月12日 (火)
【ルート】乙部岳東尾根往復【年月日】2008.2.10-11
【メンバ】米山悟(84年入部)、斉藤清克(87年入部)
【時間】
2月10日:清水沢林道始まり(11:40)→岳の沢二股(14:00)→東尾根末端附近C1(15:00)
2月11日:C1(7:10)→山頂(11:30-40)→C1(13:10-40)→林道入り口(15:45)
乙部岳は道南で指折りの千m峰で、風格もあるよい山だが山頂に雨量計レーダーが立っていて、夏はそこまで車道まである野暮な山だ。夏道のある西面とは反対の東面(厚沢部側)は急傾斜で切れ落ち、乙部岳の最も美しい肖像だと思う。この東面を山頂に直接突き上げる東尾根を、末端からアタックした。おそらく初登。
道南の秘峰発掘家の坂口、長谷川氏に乙部岳東面の格好いい写真をみせてもらい、乙部はここから登るのが筋だ、と考えた。尾根末端までは道道から8キロほどの林道。広い谷の奥に乙部東面が屏風のように見える様は、十勝三股から見た石狩岳のようだ。
意外に長い林道のラッセルに飽きた頃、尾根末端への二股。早めに清水沢本流に降り徒渉などしてみたが、ここは早まらずに本流二股の少し先まで行けば支流左岸への渡渉一回で済んだ。なんやかやで一時間ほど費やして尾根末端の第二の二股に辿り着く。雪が少ないので、イグルーは諦め、ツエルトを張ってタンネの葉の布団を敷き詰める。気温は氷点下5度ほどで暖かく、焚き火も快調なので夜更かしした。
翌朝はスノーシューで急傾斜の藪尾根を登る。スキーはシールも利かなそうな雪なのでC1に置いていく。スノーシューを履くのは今回が初めて。この尾根は雪の少ない道南によくあるタイプでスキーではちょっと苦労するかんじだ。下りは滑れないし、登りも足下が崩れる急な斜面。標高700のポコ手前が特に傾斜有り、苦闘する。
ポコを超え、700mのコル辺りになると、それまでガスっていた空が広くなり、視界が無限遠になる。ヒマラヤ襞のように見えた東面の全景が見え、細い雪稜や高度感ある両脇斜面が姿を見せた。後ろには道南の怪峰、狗神岳も見えた。山頂への最後の急な雪壁も、スノーシューを脱げばひどいラッセルになりそうなのでそのまま登頂。なんと最後までアイゼンピッケル無用だった。

下りは滑ると恐ろしい高度感なので、700mのコルまではスノーシューをはずして下る。視界はガスにまかれ、雪も降ってきた。細い所を過ぎると尻セード多用し2時間弱でC1に戻る。帰りの林道は時々滑るが基本的には黙々とスキー歩行で帰る。
おそらく未踏のルートから、本来良き山の乙部岳を登れて満足。未踏には未踏の理由がある。林道は長く、尾根の下半分は快適ではない。誰にでも勧める登路ではないが、人造物の載せられた不憫な乙部岳に本来の敬意を捧げたい人には強く推薦するルート。以前、人造物だらけながら名山の伊吹山(近江、美濃国境)でもこんなルートを見つけ出して礼儀正しく登った事がある。
名湯・銀婚湯で湯浴みして八雲の「きりん」でおいしい塩ラーメンや醤油ラーメンを食べて、解散。
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OBの山行記録・ 2008年2月6日 (水)
大渚山(1566.3m)
●2008年1月27日(日) (1ー0)
【ルート】
小谷温泉山田旅館=鎌池=湯峠=大渚山
【メンバ】
L:石橋兄(AACH1982)、M:清原ババア(AACH1986)、山森(AACH1986)
●2008年1月27日(日) (1ー0)
【ルート】
小谷温泉山田旅館=鎌池=湯峠=大渚山
【メンバ】
L:石橋兄(AACH1982)、M:清原ババア(AACH1986)、山森(AACH1986)
【行程】
1月27日(日)(小雪→曇→晴 -5℃)小谷温泉山田旅館Co850m(8:45)→鎌池近くの林道Co1220m(10:30)→湯峠Co1280m(11:10)→大渚山Co1566.3m(13:10-35)→湯峠Co1280m(14:20)→鎌池近くの林道Co1220m(14:40)→小谷温泉山田旅館Co850m(15:30)
【地図】 (五万図)小滝
【記録】

山行前日は、栂池から白馬乗鞍スキー場までの 北アルプス・鵯峰北面(裏ヒヨドリ)スキー山行を満喫し、下山後に今回の「頚城山塊・大渚山(鎌池コース)スキー山行」のベース基地である小谷温泉・山田旅館にやってきた。
栂池周辺は、朝は晴れていて、昼頃から小雪となったが、小谷温泉は朝から雪模様だったとのこと。同じ小谷村内でも、集落によって天気はかなり異なるようだ。

小谷温泉・山田旅館に来るのは、田中シェイク(AACH1987)の札幌への送別山行として約2年前に頚城山塊・雨飾山スキー山行の下山後に素泊まりして以来2回目。前回同様、素泊まりで自炊をする。写真は自炊場で「キムチ鍋」を調理する清原ババア。写真手前の「4」「5」「6」と番号のついているハンドルは、10円を入れてハンドルを回すと、該当の番号のコンロに10分間ガスを供給する仕組みになっている。
今回泊まったのは、本館(江戸時代の建築で国の登録有形文化財)2階の七番の部屋。江戸時代の情緒にひたりながら、夕食&大宴会。10日前に第一子(女の子)が生まれたばかりの私(山森)にとっては、子育ての先輩達のいろいろな話を聞かせてもらう貴重な場となった。

まだ小雪がちらついているが、天気予報では、天気は回復傾向。江戸時代の建築の本館玄関前から、スキーを履いて出発する。本館を回り込んで、写真後ろの斜面を鎌池目指してシールで登っていく。昨晩で30cm位積雪があり、ラッセルを交代しながら登る。

鎌池周辺を過ぎると、青空が見えてきた。写真は、ラッセルする石橋兄。

鎌池から湯峠に向かう林道の屈曲をショートカットして進む私(山森)。
湯峠に向かう林道の途中(Co1250m付近)で、ガスが晴れて、これから登る大渚山(1566.3m)が、正面に格好良く見えた。雨飾山(1963.8m)の前衛の樹林帯の低山としか思っていなかったが、思っていたよりずっとカッコイイ立派な山だ。

湯峠から大渚山への尾根を登る。写真は、台地にあがる直前の急な白い斜面を登る私(山森)。このあたりでは、清原ババアがほとんど1人でラッセルが頑張ってくれた。そうでなければピークまで届かなかったのではないかと思う。

台地にあがる直前の急な白い斜面をジグザクにラッセルして登る清原ババア。樹林帯の藪山かと思っていたが、この辺りは、高山の趣きだ。

台地にあがったあとも、雪庇に気をつけながら、ピークを目指す。写真はピーク直下の最後の急登を登る私(山森)。

引返し時間は、13:00をメドとしていたが、10分オーバして大渚山ピークに到着。清原ババアのラッセルの頑張りで、何とかピークに届いた。ありがとう。時間が気にはなるが、ほとんど休まずにここまできたので、25分の大休止をとる。

湯峠への急な尾根のパウダースノーを満喫しながら、ふと空を見上げると、青空の下で、美しい樹氷が咲いていた。
湯峠へ下る途中は、ポコを捲く所で若干の登り返しがある。先頭の清原ババアが「カニさん歩き」で行ったので、それに続いたが、えらい体力を消耗した。

ポコを捲くと、ガスが晴れた雨飾山が、正面に格好良く聳え立っていた。写真は雨飾山を見ながら滑降する石橋兄。
この辺りで3人パーティとすれ違った。我々のトレースがあるとはいえ、ピークに届くのか他人事ながら少々心配になる。清原ババアは「山田先生ですか?」と声をかけられたそうだ。山スキー界で活躍している山田旅館の若旦那と勘違いされたらしい。また、湯峠では単独行のカメラマンらしき人が写真を撮影していた。

湯峠から鎌池付近までの林道は、クロスカントリー状態で進む。他のパーティのトレースは山田旅館からではなく、栃の樹亭からのようだ。鎌池周辺のアップダウン地形も、先頭の清原ババアは「カニさん歩き」でヒョコヒョコ行ったが、やはりえらい消耗。先程のポコの捲きといい、素直にシールを着ければよかったと後悔した。登りの時はパウダーかと思った鎌池から山田旅館への斜面は、南面&晴天のせいで重い湿雪になっていた(写真)。

下山後は、山田旅館の温泉で疲れを癒す。昨日の山行は「山スキー」という感じだったが、今日の山行は「スキー登山」という感じだった。(何が違うと言われても困るが、昨日は快調な下りの大滑降の印象が大きく、今日は人の気配のない静かなラッセル・登り返しでの消耗・悪雪等の印象が大きいといったところか。)
(記録:山森 聡) http://homepage2.nifty.com/yamamori/
1月27日(日)(小雪→曇→晴 -5℃)小谷温泉山田旅館Co850m(8:45)→鎌池近くの林道Co1220m(10:30)→湯峠Co1280m(11:10)→大渚山Co1566.3m(13:10-35)→湯峠Co1280m(14:20)→鎌池近くの林道Co1220m(14:40)→小谷温泉山田旅館Co850m(15:30)
【地図】 (五万図)小滝
【記録】
| <山行前夜> |

山行前日は、栂池から白馬乗鞍スキー場までの 北アルプス・鵯峰北面(裏ヒヨドリ)スキー山行を満喫し、下山後に今回の「頚城山塊・大渚山(鎌池コース)スキー山行」のベース基地である小谷温泉・山田旅館にやってきた。
栂池周辺は、朝は晴れていて、昼頃から小雪となったが、小谷温泉は朝から雪模様だったとのこと。同じ小谷村内でも、集落によって天気はかなり異なるようだ。

小谷温泉・山田旅館に来るのは、田中シェイク(AACH1987)の札幌への送別山行として約2年前に頚城山塊・雨飾山スキー山行の下山後に素泊まりして以来2回目。前回同様、素泊まりで自炊をする。写真は自炊場で「キムチ鍋」を調理する清原ババア。写真手前の「4」「5」「6」と番号のついているハンドルは、10円を入れてハンドルを回すと、該当の番号のコンロに10分間ガスを供給する仕組みになっている。
今回泊まったのは、本館(江戸時代の建築で国の登録有形文化財)2階の七番の部屋。江戸時代の情緒にひたりながら、夕食&大宴会。10日前に第一子(女の子)が生まれたばかりの私(山森)にとっては、子育ての先輩達のいろいろな話を聞かせてもらう貴重な場となった。
| <山行当日> |

まだ小雪がちらついているが、天気予報では、天気は回復傾向。江戸時代の建築の本館玄関前から、スキーを履いて出発する。本館を回り込んで、写真後ろの斜面を鎌池目指してシールで登っていく。昨晩で30cm位積雪があり、ラッセルを交代しながら登る。

鎌池周辺を過ぎると、青空が見えてきた。写真は、ラッセルする石橋兄。

鎌池から湯峠に向かう林道の屈曲をショートカットして進む私(山森)。
湯峠に向かう林道の途中(Co1250m付近)で、ガスが晴れて、これから登る大渚山(1566.3m)が、正面に格好良く見えた。雨飾山(1963.8m)の前衛の樹林帯の低山としか思っていなかったが、思っていたよりずっとカッコイイ立派な山だ。

湯峠から大渚山への尾根を登る。写真は、台地にあがる直前の急な白い斜面を登る私(山森)。このあたりでは、清原ババアがほとんど1人でラッセルが頑張ってくれた。そうでなければピークまで届かなかったのではないかと思う。

台地にあがる直前の急な白い斜面をジグザクにラッセルして登る清原ババア。樹林帯の藪山かと思っていたが、この辺りは、高山の趣きだ。

台地にあがったあとも、雪庇に気をつけながら、ピークを目指す。写真はピーク直下の最後の急登を登る私(山森)。

引返し時間は、13:00をメドとしていたが、10分オーバして大渚山ピークに到着。清原ババアのラッセルの頑張りで、何とかピークに届いた。ありがとう。時間が気にはなるが、ほとんど休まずにここまできたので、25分の大休止をとる。

湯峠への急な尾根のパウダースノーを満喫しながら、ふと空を見上げると、青空の下で、美しい樹氷が咲いていた。
湯峠へ下る途中は、ポコを捲く所で若干の登り返しがある。先頭の清原ババアが「カニさん歩き」で行ったので、それに続いたが、えらい体力を消耗した。

ポコを捲くと、ガスが晴れた雨飾山が、正面に格好良く聳え立っていた。写真は雨飾山を見ながら滑降する石橋兄。
この辺りで3人パーティとすれ違った。我々のトレースがあるとはいえ、ピークに届くのか他人事ながら少々心配になる。清原ババアは「山田先生ですか?」と声をかけられたそうだ。山スキー界で活躍している山田旅館の若旦那と勘違いされたらしい。また、湯峠では単独行のカメラマンらしき人が写真を撮影していた。

湯峠から鎌池付近までの林道は、クロスカントリー状態で進む。他のパーティのトレースは山田旅館からではなく、栃の樹亭からのようだ。鎌池周辺のアップダウン地形も、先頭の清原ババアは「カニさん歩き」でヒョコヒョコ行ったが、やはりえらい消耗。先程のポコの捲きといい、素直にシールを着ければよかったと後悔した。登りの時はパウダーかと思った鎌池から山田旅館への斜面は、南面&晴天のせいで重い湿雪になっていた(写真)。

下山後は、山田旅館の温泉で疲れを癒す。昨日の山行は「山スキー」という感じだったが、今日の山行は「スキー登山」という感じだった。(何が違うと言われても困るが、昨日は快調な下りの大滑降の印象が大きく、今日は人の気配のない静かなラッセル・登り返しでの消耗・悪雪等の印象が大きいといったところか。)
(記録:山森 聡) http://homepage2.nifty.com/yamamori/
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OBの山行記録・ 2008年2月6日 (水)
鵯峰のコル(1870m)

●2008年1月26日(土) (1ー0)
【ルート】
栂池高原スキー場→早大小屋→鵯峰のコル→(北面大滑降)→1598mポコ→(東面大滑降)→白馬乗鞍スキー場
【メンバ】
L:石橋兄(AACH1982)、M:清原ババア(AACH1986)、山森(AACH1986)

●2008年1月26日(土) (1ー0)
【ルート】
栂池高原スキー場→早大小屋→鵯峰のコル→(北面大滑降)→1598mポコ→(東面大滑降)→白馬乗鞍スキー場
【メンバ】
L:石橋兄(AACH1982)、M:清原ババア(AACH1986)、山森(AACH1986)
【行程】
1月26日(土)(晴→小雪 -10℃)栂池高原スキー場リフト終点Co1700m(8:50)→早大小屋Co1720m(9:20-30)→鵯峰のコルCo1870m(10:10-20)→(北面大滑降)→Co1450m二股(10:45-11:15)→(登り返し)→1598mポコ(12:15-30)→(東面大滑降)→Co1130二股(13:00)→ゲレンデトップCo980m(13:07)→白馬乗鞍スキー場駐車場Co870m(13:10)
【地図】 (五万図)白馬岳
【記録】

山行前週の1月15日(火)に、結婚14年目・40歳にして、待望の第一子が誕生。分娩所要時間40時間31分の難産に耐えて、元気な女の子を無事に出産した妻に感謝したい。ありがとう。ご苦労様。
写真は、妻の里帰り先(新潟)の病院にて、産まれたばかりの我が娘を抱いて幸せいっぱいの私(山森)。
生後10日の乳児と、3日前に退院したばかりの妻を置いて、山に行くのもいかがなものかとも思ったが、「子育ての先輩達(=今回の山行のメンバ)の話を良く聞いて、子育ての勉強をしてくるように!」と快く山行に送り出してくれた妻の言葉に甘えることにした。
娘さんが満1歳になったばかり高橋ジジイさん(AACH1984)も同行する予定だったが、その娘さんが山行前日に高熱を出し、残念ながら急遽不参加。一番、子育ての話が聞きたかった高橋ジジイさんと会って話ができなかったのは残念だったが、「子育ては甘くないぞ!」との無言の教えと心得ることにする。

金曜の夜に東京を石橋兄号で出発、長野に単身赴任中の清原ババアとは現地で合流。清原ババアは栂池に来るのは高校生の時(=四半世紀前)にゲレンデスキーに来て以来だそうだ。私は年末に栂池〜天狗原に来たばかりだ。年末は最終リフトには乗らなかったが、今回は最終リフト(240円)に乗ってちょっと楽をする。写真は、栂池の最終リフト終点から望む白馬岳。ガスが切れたり、かかったりしている。

八方尾根方面は完全にガスに覆われているのに、白馬乗鞍岳周辺はガスもかかっておらず良く晴れている。写真は、栂池の最終リフト終点から望む白馬乗鞍岳。右手の高い台地が天狗原で、左手の低い台地が栂池自然園だ。年末に来たときは、視界がなく、天狗原で引返している。

私(山森)は「天狗原」以来、今シーズン2回目の山行だ。石橋兄は「湯の丸山(単独)」以来2回目、清原ババアは「八方尾根」「十石山」「飯綱山」(いずれも単独)以来4回目とのこと。今シーズンは、皆、密かに?準備山行を積んでいるので少々驚いた。
写真は、早大小屋から鵯峰(ヒヨドリ)のコルへ向かう石橋兄。背後の八方尾根は、尾根上をすっぽりとガスが覆っている。

本日の最高点である、鵯峰(ヒヨドリ)のコル(Co1870m)に到着した私(山森)。背後の山は鵯峰ピーク(1920m)。清原ババアは、山行前には、「ピークのない山行なんてイヤだ。鵯峰ピークへ行きたい!」と主張していたので、「コルで待っててやるから、1人で行ってこい!」と言ってあげていたのに、いざコルに着くと、もうピークはどうでも良いみたいで、早くパウダーを滑りたくでウズウズしている様子だった。

鵯峰(ヒヨドリ)のコルから、これから滑る北面の沢型を見下ろす。滑り出しは、上から見ると急に見えるが、滑ってみるとたいしたことはない。コルで休んでいると、単独行の細板テレマーカが到着したので、先を越されないうちに、滑降開始。まずは、私(山森)が一番に飛び出す。

降雪直後の北面だけあって、雪質は最高。激パウっていうのはこういうのを言うのだろう。私の今までの山スキー人生で、一番のパウダー。
写真は、粉雪を舞い上げながら快調に小回りターンで滑降する私(山森)。撮影は清原ババア。なかなか格好良く写真を撮ってくれてありがとう。

石橋兄もテレマークターンで、パウダーを満喫。美しいシュプールを刻んでいる。

やっぱり清原ババアのスキーは上手だね。歓喜のあまり奇声を発しながら、美しく小回りターンを刻んでいる。

北面の斜面の滑降途中で、パウダーに刻んだ自分のシュプールを見つめて、ニコニコ顔でご満悦の清原ババア。「この世の幸せ」といった顔をしている。

Co1450m付近の二股で大休止。写真は石橋兄(左)と清原ババア(右)。単独行の細板テレマーカも追いついてきた。また、4名のパーティが、我々とは違う斜面(鵯峰ピーク付近からの沢型)を滑ってきた。我々が大休止している間に、他の2パーティは先に出発した。ここからは、1598mポコを目指して、シールをつけての登り返しだ。

1598mポコへ向かう途中で、急に天気が悪くなって、小雪が舞ってきた。4名のパーティは、ポコ手前のコルから北面(黒川沢)を滑降。単独行テレマーカは、ポコの東面を滑降。我々も、東面を滑る計画だ。写真は、1598mポコにて。ポコで休憩していると、南東の尾根を7〜8名のスノーボード主体のパーティが、白馬乗鞍スキー場からスノーシューで登ってきた。山スキーも2名いる。このパーティはコルまで行って、北面(黒川沢)を滑るようだ。

1598mポコからの東面大滑降は、気持ちの良い斜面。東面のためか、先ほどの鵯峰(ヒヨドリ)のコルの北面よりは、若干雪質が落ちる(若干モナカっぽい)が、快適なパウダーツリーランを楽しめる。
北面(黒川沢)のルートと合流するCo1130二股は滝が口を開けていたので、左岸側の尾根使って降りる。

大きな堰堤があり、遠くから見たときは、登り返すのかと思い、少しウンザリもしたが、近くまで来て見ると、何と、堰堤の真ん中を突き抜けるようにトレースがついていて、難なく通過した。
堰堤を越えて、林道をちょっと滑るとゲレンデトップに出る。そこからは、あっと言う間に、駐車場。
後半・天候が崩れたものの、パウダーを堪能できる大変良いルートであった。

お決まりの温泉は、翌日の大渚山スキー山行のベース基地になる小谷温泉・山田旅館。今日の疲れを癒して、明日に備えた。
(記録:山森 聡) http://homepage2.nifty.com/yamamori/
1月26日(土)(晴→小雪 -10℃)栂池高原スキー場リフト終点Co1700m(8:50)→早大小屋Co1720m(9:20-30)→鵯峰のコルCo1870m(10:10-20)→(北面大滑降)→Co1450m二股(10:45-11:15)→(登り返し)→1598mポコ(12:15-30)→(東面大滑降)→Co1130二股(13:00)→ゲレンデトップCo980m(13:07)→白馬乗鞍スキー場駐車場Co870m(13:10)
【地図】 (五万図)白馬岳
【記録】
| <山行前週> |

山行前週の1月15日(火)に、結婚14年目・40歳にして、待望の第一子が誕生。分娩所要時間40時間31分の難産に耐えて、元気な女の子を無事に出産した妻に感謝したい。ありがとう。ご苦労様。
写真は、妻の里帰り先(新潟)の病院にて、産まれたばかりの我が娘を抱いて幸せいっぱいの私(山森)。
| <山行当日> |
生後10日の乳児と、3日前に退院したばかりの妻を置いて、山に行くのもいかがなものかとも思ったが、「子育ての先輩達(=今回の山行のメンバ)の話を良く聞いて、子育ての勉強をしてくるように!」と快く山行に送り出してくれた妻の言葉に甘えることにした。
娘さんが満1歳になったばかり高橋ジジイさん(AACH1984)も同行する予定だったが、その娘さんが山行前日に高熱を出し、残念ながら急遽不参加。一番、子育ての話が聞きたかった高橋ジジイさんと会って話ができなかったのは残念だったが、「子育ては甘くないぞ!」との無言の教えと心得ることにする。

金曜の夜に東京を石橋兄号で出発、長野に単身赴任中の清原ババアとは現地で合流。清原ババアは栂池に来るのは高校生の時(=四半世紀前)にゲレンデスキーに来て以来だそうだ。私は年末に栂池〜天狗原に来たばかりだ。年末は最終リフトには乗らなかったが、今回は最終リフト(240円)に乗ってちょっと楽をする。写真は、栂池の最終リフト終点から望む白馬岳。ガスが切れたり、かかったりしている。

八方尾根方面は完全にガスに覆われているのに、白馬乗鞍岳周辺はガスもかかっておらず良く晴れている。写真は、栂池の最終リフト終点から望む白馬乗鞍岳。右手の高い台地が天狗原で、左手の低い台地が栂池自然園だ。年末に来たときは、視界がなく、天狗原で引返している。

私(山森)は「天狗原」以来、今シーズン2回目の山行だ。石橋兄は「湯の丸山(単独)」以来2回目、清原ババアは「八方尾根」「十石山」「飯綱山」(いずれも単独)以来4回目とのこと。今シーズンは、皆、密かに?準備山行を積んでいるので少々驚いた。
写真は、早大小屋から鵯峰(ヒヨドリ)のコルへ向かう石橋兄。背後の八方尾根は、尾根上をすっぽりとガスが覆っている。

本日の最高点である、鵯峰(ヒヨドリ)のコル(Co1870m)に到着した私(山森)。背後の山は鵯峰ピーク(1920m)。清原ババアは、山行前には、「ピークのない山行なんてイヤだ。鵯峰ピークへ行きたい!」と主張していたので、「コルで待っててやるから、1人で行ってこい!」と言ってあげていたのに、いざコルに着くと、もうピークはどうでも良いみたいで、早くパウダーを滑りたくでウズウズしている様子だった。

鵯峰(ヒヨドリ)のコルから、これから滑る北面の沢型を見下ろす。滑り出しは、上から見ると急に見えるが、滑ってみるとたいしたことはない。コルで休んでいると、単独行の細板テレマーカが到着したので、先を越されないうちに、滑降開始。まずは、私(山森)が一番に飛び出す。

降雪直後の北面だけあって、雪質は最高。激パウっていうのはこういうのを言うのだろう。私の今までの山スキー人生で、一番のパウダー。
写真は、粉雪を舞い上げながら快調に小回りターンで滑降する私(山森)。撮影は清原ババア。なかなか格好良く写真を撮ってくれてありがとう。

石橋兄もテレマークターンで、パウダーを満喫。美しいシュプールを刻んでいる。

やっぱり清原ババアのスキーは上手だね。歓喜のあまり奇声を発しながら、美しく小回りターンを刻んでいる。

北面の斜面の滑降途中で、パウダーに刻んだ自分のシュプールを見つめて、ニコニコ顔でご満悦の清原ババア。「この世の幸せ」といった顔をしている。

Co1450m付近の二股で大休止。写真は石橋兄(左)と清原ババア(右)。単独行の細板テレマーカも追いついてきた。また、4名のパーティが、我々とは違う斜面(鵯峰ピーク付近からの沢型)を滑ってきた。我々が大休止している間に、他の2パーティは先に出発した。ここからは、1598mポコを目指して、シールをつけての登り返しだ。

1598mポコへ向かう途中で、急に天気が悪くなって、小雪が舞ってきた。4名のパーティは、ポコ手前のコルから北面(黒川沢)を滑降。単独行テレマーカは、ポコの東面を滑降。我々も、東面を滑る計画だ。写真は、1598mポコにて。ポコで休憩していると、南東の尾根を7〜8名のスノーボード主体のパーティが、白馬乗鞍スキー場からスノーシューで登ってきた。山スキーも2名いる。このパーティはコルまで行って、北面(黒川沢)を滑るようだ。

1598mポコからの東面大滑降は、気持ちの良い斜面。東面のためか、先ほどの鵯峰(ヒヨドリ)のコルの北面よりは、若干雪質が落ちる(若干モナカっぽい)が、快適なパウダーツリーランを楽しめる。
北面(黒川沢)のルートと合流するCo1130二股は滝が口を開けていたので、左岸側の尾根使って降りる。

大きな堰堤があり、遠くから見たときは、登り返すのかと思い、少しウンザリもしたが、近くまで来て見ると、何と、堰堤の真ん中を突き抜けるようにトレースがついていて、難なく通過した。
堰堤を越えて、林道をちょっと滑るとゲレンデトップに出る。そこからは、あっと言う間に、駐車場。
後半・天候が崩れたものの、パウダーを堪能できる大変良いルートであった。

お決まりの温泉は、翌日の大渚山スキー山行のベース基地になる小谷温泉・山田旅館。今日の疲れを癒して、明日に備えた。
(記録:山森 聡) http://homepage2.nifty.com/yamamori/
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記事・消息・ 2008年2月1日 (金)
1月27日(日)JR京都駅前ホテルセントノーム京都にて
参加者(敬称略)
駒田、原、(吉田勝)、神戸、高橋(昭)、田中(英)、内藤、渡辺(尚)、伏見、益田、川道、須田、名越、石松、岡島、岸本 計16名
参加者(敬称略)
駒田、原、(吉田勝)、神戸、高橋(昭)、田中(英)、内藤、渡辺(尚)、伏見、益田、川道、須田、名越、石松、岡島、岸本 計16名
午後6時に三々五々集合。どうも同じ階の手前の会場では女子大の同窓会が開かれるようで、ロビーにあふれたその人垣を縫ってやって来られる面々はいつになく笑顔。新年はやはり笑顔が無くてはネ。
駒田先輩の乾杯の発声ではじめます。
今年は鍋を囲んでの宴会で、ややみやびに欠けるきらいはありますが、この時期ですので熱燗とのバランスはいいようです。
一人三分間で一年の抱負なりのご披露をおねがいします。
年に2度5000M以上の山に登っていると一切病気はシナイ、今年も又2度ヒマラヤを目指すと言い切るお医者さん。ペルーアンデス登山を7月に敢行するという半ご隠居さん2人。
気が付いたらネパールヒマラヤのツアーコンダクターになっていた元学校の先生、同じく再就職のために毎日自転車走をこなし10キロ痩せた元学校の先生、同じくネパールの野原で新種の蜂を捕まえた元学校の先生。
NEETにしてメタボリックシンドロームまっただなかの元地質屋、ワーキングプアを自認する現地質屋。
多忙につきこの5年は登山もできない働き者の会社役員、同じくこの10数年毎年夏の日高で山登りをしている怠け者の会社役員。等等。
欠席された方からのお便りを吉田さんが読み上げ、近況を知ります。
出席の面々を見回すと現役の会社勤めは少数となり、話題も何となく「遊ぶこと」が中心です。本来ならば遊びというのは非生産的社会活動なのですが、喜々として話し合われるその内容は、あたかもデパートの刃物売場のセールストークの如く、何となく引き込まれてしまいます。
かくしてあっという間にお開きどきとなり、原支部長の締めの音頭の後、大声で山の四季を斉唱して今年もすっきり年が明けました。
(岸本 記)

駒田先輩の乾杯の発声ではじめます。
今年は鍋を囲んでの宴会で、ややみやびに欠けるきらいはありますが、この時期ですので熱燗とのバランスはいいようです。
一人三分間で一年の抱負なりのご披露をおねがいします。
年に2度5000M以上の山に登っていると一切病気はシナイ、今年も又2度ヒマラヤを目指すと言い切るお医者さん。ペルーアンデス登山を7月に敢行するという半ご隠居さん2人。
気が付いたらネパールヒマラヤのツアーコンダクターになっていた元学校の先生、同じく再就職のために毎日自転車走をこなし10キロ痩せた元学校の先生、同じくネパールの野原で新種の蜂を捕まえた元学校の先生。
NEETにしてメタボリックシンドロームまっただなかの元地質屋、ワーキングプアを自認する現地質屋。
多忙につきこの5年は登山もできない働き者の会社役員、同じくこの10数年毎年夏の日高で山登りをしている怠け者の会社役員。等等。
欠席された方からのお便りを吉田さんが読み上げ、近況を知ります。
出席の面々を見回すと現役の会社勤めは少数となり、話題も何となく「遊ぶこと」が中心です。本来ならば遊びというのは非生産的社会活動なのですが、喜々として話し合われるその内容は、あたかもデパートの刃物売場のセールストークの如く、何となく引き込まれてしまいます。
かくしてあっという間にお開きどきとなり、原支部長の締めの音頭の後、大声で山の四季を斉唱して今年もすっきり年が明けました。
(岸本 記)

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部報解説・ 2008年1月25日 (金)
部報7号の後半は、総て追悼文集である。卒業後の故人二名、1938(昭和13)年12月上ホロ雪崩遭難の二名、1940(昭和15)年1月ペテガリを目指したコイカク沢の雪崩遭難の8名で、あわせて計12名の追悼13題。二年にわたって雪崩遭難を起こし、冬季の沢ルートの行動が見直されていく転換点になった。ルームの中核、有馬(兄)と葛西をはじめ、上級部員を多く失ったが当時は部員がたくさん居た。生還した橋本、兄と友人を失った有馬(弟)の追悼文がある。戦前最後の部報である。(敬称略)追悼
故島村光太郎君の追憶 櫻井勝壽
徳さんを憶ふ 相川修
憶ひ出 本野正一
追憶 朝比奈英三
徳さんの憶ひ出 橋本巌
有馬洋 福地宏平
追憶 湊正雄
戸倉君を憶ふ 林和夫
清水誠吉君を憶ふ 有馬純
近藤達君 橋本誠二
追悼 倉林正尚
羽田君 新美長夫
渡邉盛達君を憶ふ 塩月陽一
●故島村光太郎君の追憶 櫻井勝壽
島村光太郎氏は1926年の創部期から活躍。理学部に進んでは植物学教室。チャチャヌプリに足跡を残し、部報二号で「国後島遊記」を記している。植木会社に就職していたが、1938年召集令を受け、北支で匪賊討伐戦の輸送指揮にあたる。1939年1月、河南省の戦闘で32歳で戦死した。小さな男の子がいた。従軍中も植物標本を集めていたという。
●徳さんを憶ふ 相川修
●憶ひ出 本野正一
徳永正雄氏は1929(昭和4)年入部。坂本直行、相川修らと共に、札幌二中の出身組だ。予科からあわせて6年間1935年1月までの記録がある。畜産課を出て満洲に赴任。病死したとある。
●追憶 朝比奈英三
瀬戸三郎氏は1930年から山行記録がある。予科を修了して畜産の学生になってから正式に山岳部員になった。37年1月の利尻も踏んでいる。1938年12月の上ホロ雪崩で遭難死した。
●徳さんの憶ひ出 橋本巌
1938年12月の上ホロ雪崩で遭難死した高田徳氏への追悼。1934(昭和9年)入部で遭難は5年目の冬。猛烈に勉強する医学生だった様が記してある。長崎の出身で、シーボルトにも詳しかったと。
●有馬洋 福地宏平
1934(昭和9年)入部で、1940(昭和15)年一月のコイカク沢雪崩で遭難。その前昭和12年の冬季ペテガリ隊にも参加、部報6号には「ペテガリソナタ」と題した夏の紀行がある。今回のペテガリ隊の中心メンバーだった。
「多くの人が横道へそれたり、或は安逸に流れる間に有馬は多くの輝かしい業績を殘しながら遂にペテガリ岳に於て北海道の冬期登山の形式に新しい方法を取り入れ、又トムラウシより二ペソツへの企てに於て冬期登山の形式を飛躍せしめて、冬山に漂泊の旅をなしたのである。」
また昭和12年のペテガリ遠征のときの話、「『下らずに矢張り連絡に行かう』と最初に云ったのは有馬だつた。そして坂本直行兄と二人で吹雪を衝いて出掛けて行った。居る丈けでも危險な日高の痩尾根、而かも晴れてさへザイルの要るヤオロマツプを此の烈風中に行く事は死を賭して義務を遂行する事、寧ろ自分の死を賭しても友を救ふ事である。かゝる行爲を書物で讀んだ人は居やう。然し實際に體驗した人は多くないと思はれる。眞の友は窮境に於て始めて得られると云ふ。學生は總て友を有する、然しかゝる眞實な、赤裸々な、崇高なる人格を友の中に眞實の意味で信じ得る幸福を持つものは山嶽部員のみではなからうか。」
有馬洋は山岳部を引っ張る、時代の寵児であり、当時皆からもっとも頼りにされていた一人だった。
●追憶 湊正雄
有馬と同じ昭和9年入部でリーダー格の葛西晴雄(コイカク沢遭難)の追悼。二人と同期の湊は上ホロ雪崩にあいながら生還している。有馬と葛西が昭和13年冬の神威岳山行に出かけた際、行きそびれた事を悔やんでそのときの思い出を書いている。「私は彼がよく山の歸り等に、炭燒く直行さんを訪ねて、獨りで柏の林の中を行く氣持を何かしら深い感謝と共に思ひ浮かべるのである。霙降る日、私は二人で圓山の林等歩いた事があつたが、そんな時彼は、だまつてゐれば何時間でも雨に打たれて邊りを眺めてゐる樣な人であつた。」有馬と葛西の二人は皆が認める当時のルームの引っ張り頭、山行を共にする機会も多かったようだ。
●戸倉君を憶ふ 林和夫
1936(昭和11年)入部、4年目でコイカク沢で遭難した戸倉源次郎氏の追悼。林和夫は札幌一中時代からの先輩で同じ電気工学科。戸倉氏は始めは自転車旅行や他の事に興味があって山登りは片手間だったようだが、夏の計画で林氏の助言で石狩岳、トムラウシの沢旅に行ってからは俄然山岳部の活動にのめりこんだという。
「雨の中でした石狩岳登頂の不安、その後に得た雲表上快晴の頂上の思ひ出等を非常な喜びを持つて話してくれた。之以來彼の登山態度は變はつて行つた。」「彼と最後に逢つたのは十四年十二月二十九日、合宿を終へて一緒に下山し、歸郷する私と朝比奈を上富良野驛のプラットホームに見送つて呉れた時の事で有る。此の度は事情あつてペテガリ行に參加出來なかつた私の名刺を頂上に置いて來て上げると言ひ懷に入れた。そして明日から始まる激しい登行に對して沈潛した情熱と確信を、強い近眼鏡の奧に細い目を光らせ、口をすぼめた穩やかな顏の陰に祕め、汽車が寒い風を切つて動き出すに連れ、次第に遠のいて行つた彼の姿は私の目にやきついて忘れ難いもので有る。かくして私は最も信じ愛した友を失つた。」
●清水誠吉君を憶ふ 有馬純
コイカク沢で遭難した清水誠吉氏は1936(昭和11年)入部、4年目部員だった。有馬純は有馬洋の弟で、清水とは旧制中学二年以来の親友だった。
「清水は決して遠慮しながら一歩距てて愛した友ではない。少年の最も彈力ある心に素直にお互を受入れ、破綻無く育つた二人の間である。」「實にリファインされた文化人と云ふ感じ」「清水程常識の廣い男は居ない」という評価をルーム内で受けていた。有馬は一緒にコイボク23、ペテガリの山行をした折の思い出、一本の鷹の羽を拾った清水の美しい感性の話(部報7号に遺稿あり)を思い出す。亡き後の清水の部屋の「机のペン皿の上にあのシュシビチャリの鷹の羽を見た。かくして私は今更無限の山の思ひ出と少年の思出をもつ清水を失つた事を知つて唖然とした。」
●近藤達君 橋本誠二
1936(昭和11年)入部、4年目のときコイカク沢で遭難した近藤達氏の追悼。遭難死した清水、片山、近藤、渡邊と橋本は同期。雪崩の日は体調不良でテントに残り遭難を免れた。事故後最初にデブリを前にしたのは橋本である。「あんなに良い仲間なんて再び出來るものではない。私は彼等の美しい思ひ出を一生胸に抱いて居られる丈でも幸福である。一月六日あのコイカクシユの雪崩の翌日デブリの一角に立つた時、私は之から如何にして毎日を暮らしたら良いか判らなくなつて、いつそ死んで了つたらとさへ思つた。」近藤は真面目な上に世話焼きで、学校をサボろうと帰りかけた橋本を捕まえ「缺席日數も彼は調べ上げてゐて、後何囘で及落會議にかゝるとか云ふのには私も全く閉口した。私をこんなに迄心配して呉れる君の氣持ちを無視した結果は試驗になると、君や片山シヤモに來て貰つてはブランクを必死で埋めなければならなかつた。」後年地質学教室の大先生になった橋本ヤンチョ氏の不真面目学生時代の思い出も記されている。「私は當時のことを囘想すると狂はしい迄な感じが心を搖すり、何をする事さへも出來なくなつて了ふ。本當に樂しい張りのある日を過ごして居るうちに、隱された雪庇のシユパルテに落ち込む時の樣に、私は突然悲しみの中につき落とされて了つた。暖かな目でヂツと私を見守つてゐて呉れた葛西、有馬の兩先輩を私は失つて了つたし、本當に親しかつた仲間とも永久に別れなければならなくなつた。私は山から歸つて色々な人に運がよかつたと云はれたが、私にはさうはどうしても考へられないのである。寧ろ私はあんなに氣持ちの良かつた友や先輩と一緒に死んで行つた方がどれ程良かつたか判らない。私はコイカクシユの美しい雪の中から、一人又一人と友の生けるまゝの姿が見出された時、その一人一人に仲間外れにされて行く樣に思はれてならなかつた。」遭難後一年、パーティー生き残りの橋本による追悼。
●追悼 倉林正尚
1936(昭和11年)入部、4年目のときコイカク沢で遭難した片山純吉氏の追悼。片山氏は津山の出身で、遭難死した清水、近藤、渡邊と同期。片山の二つ下の倉林が、恵迪寮時代の話などを記す。片山はあだ名でシャモと呼ばれた。「全く打解けた、外から見れば禮儀を辯へぬと言はれさうな仲間が在つた。其の各自も何等自覺した目的や理想を、何時も用意などはして居なかつた。其れは其の點に關して言へば穉兒の集ひと同然であつたらう。之が私達の間に生活せられた數年の月日であつた。無言の内に、決定的美を各々に認め合つて、何等の形式張つた事を必要とせず、常識を脱した或物から發する直觀によつて自然に結ばれた此の仲間に於いて、兄は好き中心であつた。そして私達は兄を『シヤモ』と呼んでゐた。」戦前の恵迪寮もまた、この雰囲気だった。山のみならず、里での楽しい思い出について触れられている。
●羽田君 新美長夫
1936(昭和11年)12月入部、4年目のときコイカク沢で遭難した羽田喜久男氏の追悼。あだ名は「二代目消耗」。「彼は二代目消耗と呼ばれてゐました。山嶽部に於いて消耗なる語の定義は『決して消耗ばかりしてゐる人の事ではなく、毎時もは消耗してゐる樣に見えながら、他の人々が消耗した樣な時に俄然素晴らしい馬力を出す人』でなければならないのです。」口数の少ない羽田氏と相手のことをあれこれ詮索しない新美氏。羽田が死んで初めて、たいした言葉も交わさずとも一番多く山をともにした相手であったことに気づく。「彼は自分の氣持を口に出しませんでした。又そんな事を何も書きませんでした。その事が彼の氣持を推察するのに物足りない事等でせうか。私は何の感想も書かれてゐない彼の山日記の記録こそ、本當に彼の氣持を傳へてゐると思ふのです。日時、天候、時間、それこそ、その日の空の樣子を、周圍の景色を、そして彼の姿を、顏色を、又彼の心持をも想像させて呉れるものなのです。」
●渡邉盛達君を憶ふ 鹽月陽一
1936(昭和11年)入部、4年目のときコイカク沢で遭難した渡邉盛達氏の追悼。「君を始めて知つたのは山嶽部の新入生歡迎會の夕べであつた。高い足駄を穿きマントを羽織つた紅顏の少年は今でもはつきり思ひ出される。」「又君は部に於いても級に於いても喧しい連中の一人だつた。」恵庭、漁岳の春の山行で、行動中のたくましさとテントに帰っての馬鹿話のうまさの転換振りを紹介している。また、製図が得意だった。「冬のペテガリ登攀にもテントのデザインを製圖して熱心に備品を研究してゐたのでもその一端を窺ひ知ることが出來る。」
年報
1938.5-1940.10
写真二点、スケッチ一点、地図五点
(解説前編/中編/後編)
島村光太郎氏は1926年の創部期から活躍。理学部に進んでは植物学教室。チャチャヌプリに足跡を残し、部報二号で「国後島遊記」を記している。植木会社に就職していたが、1938年召集令を受け、北支で匪賊討伐戦の輸送指揮にあたる。1939年1月、河南省の戦闘で32歳で戦死した。小さな男の子がいた。従軍中も植物標本を集めていたという。
●徳さんを憶ふ 相川修
●憶ひ出 本野正一
徳永正雄氏は1929(昭和4)年入部。坂本直行、相川修らと共に、札幌二中の出身組だ。予科からあわせて6年間1935年1月までの記録がある。畜産課を出て満洲に赴任。病死したとある。
●追憶 朝比奈英三
瀬戸三郎氏は1930年から山行記録がある。予科を修了して畜産の学生になってから正式に山岳部員になった。37年1月の利尻も踏んでいる。1938年12月の上ホロ雪崩で遭難死した。
●徳さんの憶ひ出 橋本巌
1938年12月の上ホロ雪崩で遭難死した高田徳氏への追悼。1934(昭和9年)入部で遭難は5年目の冬。猛烈に勉強する医学生だった様が記してある。長崎の出身で、シーボルトにも詳しかったと。
●有馬洋 福地宏平
1934(昭和9年)入部で、1940(昭和15)年一月のコイカク沢雪崩で遭難。その前昭和12年の冬季ペテガリ隊にも参加、部報6号には「ペテガリソナタ」と題した夏の紀行がある。今回のペテガリ隊の中心メンバーだった。
「多くの人が横道へそれたり、或は安逸に流れる間に有馬は多くの輝かしい業績を殘しながら遂にペテガリ岳に於て北海道の冬期登山の形式に新しい方法を取り入れ、又トムラウシより二ペソツへの企てに於て冬期登山の形式を飛躍せしめて、冬山に漂泊の旅をなしたのである。」
また昭和12年のペテガリ遠征のときの話、「『下らずに矢張り連絡に行かう』と最初に云ったのは有馬だつた。そして坂本直行兄と二人で吹雪を衝いて出掛けて行った。居る丈けでも危險な日高の痩尾根、而かも晴れてさへザイルの要るヤオロマツプを此の烈風中に行く事は死を賭して義務を遂行する事、寧ろ自分の死を賭しても友を救ふ事である。かゝる行爲を書物で讀んだ人は居やう。然し實際に體驗した人は多くないと思はれる。眞の友は窮境に於て始めて得られると云ふ。學生は總て友を有する、然しかゝる眞實な、赤裸々な、崇高なる人格を友の中に眞實の意味で信じ得る幸福を持つものは山嶽部員のみではなからうか。」
有馬洋は山岳部を引っ張る、時代の寵児であり、当時皆からもっとも頼りにされていた一人だった。
●追憶 湊正雄
有馬と同じ昭和9年入部でリーダー格の葛西晴雄(コイカク沢遭難)の追悼。二人と同期の湊は上ホロ雪崩にあいながら生還している。有馬と葛西が昭和13年冬の神威岳山行に出かけた際、行きそびれた事を悔やんでそのときの思い出を書いている。「私は彼がよく山の歸り等に、炭燒く直行さんを訪ねて、獨りで柏の林の中を行く氣持を何かしら深い感謝と共に思ひ浮かべるのである。霙降る日、私は二人で圓山の林等歩いた事があつたが、そんな時彼は、だまつてゐれば何時間でも雨に打たれて邊りを眺めてゐる樣な人であつた。」有馬と葛西の二人は皆が認める当時のルームの引っ張り頭、山行を共にする機会も多かったようだ。
●戸倉君を憶ふ 林和夫
1936(昭和11年)入部、4年目でコイカク沢で遭難した戸倉源次郎氏の追悼。林和夫は札幌一中時代からの先輩で同じ電気工学科。戸倉氏は始めは自転車旅行や他の事に興味があって山登りは片手間だったようだが、夏の計画で林氏の助言で石狩岳、トムラウシの沢旅に行ってからは俄然山岳部の活動にのめりこんだという。
「雨の中でした石狩岳登頂の不安、その後に得た雲表上快晴の頂上の思ひ出等を非常な喜びを持つて話してくれた。之以來彼の登山態度は變はつて行つた。」「彼と最後に逢つたのは十四年十二月二十九日、合宿を終へて一緒に下山し、歸郷する私と朝比奈を上富良野驛のプラットホームに見送つて呉れた時の事で有る。此の度は事情あつてペテガリ行に參加出來なかつた私の名刺を頂上に置いて來て上げると言ひ懷に入れた。そして明日から始まる激しい登行に對して沈潛した情熱と確信を、強い近眼鏡の奧に細い目を光らせ、口をすぼめた穩やかな顏の陰に祕め、汽車が寒い風を切つて動き出すに連れ、次第に遠のいて行つた彼の姿は私の目にやきついて忘れ難いもので有る。かくして私は最も信じ愛した友を失つた。」
●清水誠吉君を憶ふ 有馬純
コイカク沢で遭難した清水誠吉氏は1936(昭和11年)入部、4年目部員だった。有馬純は有馬洋の弟で、清水とは旧制中学二年以来の親友だった。
「清水は決して遠慮しながら一歩距てて愛した友ではない。少年の最も彈力ある心に素直にお互を受入れ、破綻無く育つた二人の間である。」「實にリファインされた文化人と云ふ感じ」「清水程常識の廣い男は居ない」という評価をルーム内で受けていた。有馬は一緒にコイボク23、ペテガリの山行をした折の思い出、一本の鷹の羽を拾った清水の美しい感性の話(部報7号に遺稿あり)を思い出す。亡き後の清水の部屋の「机のペン皿の上にあのシュシビチャリの鷹の羽を見た。かくして私は今更無限の山の思ひ出と少年の思出をもつ清水を失つた事を知つて唖然とした。」
●近藤達君 橋本誠二
1936(昭和11年)入部、4年目のときコイカク沢で遭難した近藤達氏の追悼。遭難死した清水、片山、近藤、渡邊と橋本は同期。雪崩の日は体調不良でテントに残り遭難を免れた。事故後最初にデブリを前にしたのは橋本である。「あんなに良い仲間なんて再び出來るものではない。私は彼等の美しい思ひ出を一生胸に抱いて居られる丈でも幸福である。一月六日あのコイカクシユの雪崩の翌日デブリの一角に立つた時、私は之から如何にして毎日を暮らしたら良いか判らなくなつて、いつそ死んで了つたらとさへ思つた。」近藤は真面目な上に世話焼きで、学校をサボろうと帰りかけた橋本を捕まえ「缺席日數も彼は調べ上げてゐて、後何囘で及落會議にかゝるとか云ふのには私も全く閉口した。私をこんなに迄心配して呉れる君の氣持ちを無視した結果は試驗になると、君や片山シヤモに來て貰つてはブランクを必死で埋めなければならなかつた。」後年地質学教室の大先生になった橋本ヤンチョ氏の不真面目学生時代の思い出も記されている。「私は當時のことを囘想すると狂はしい迄な感じが心を搖すり、何をする事さへも出來なくなつて了ふ。本當に樂しい張りのある日を過ごして居るうちに、隱された雪庇のシユパルテに落ち込む時の樣に、私は突然悲しみの中につき落とされて了つた。暖かな目でヂツと私を見守つてゐて呉れた葛西、有馬の兩先輩を私は失つて了つたし、本當に親しかつた仲間とも永久に別れなければならなくなつた。私は山から歸つて色々な人に運がよかつたと云はれたが、私にはさうはどうしても考へられないのである。寧ろ私はあんなに氣持ちの良かつた友や先輩と一緒に死んで行つた方がどれ程良かつたか判らない。私はコイカクシユの美しい雪の中から、一人又一人と友の生けるまゝの姿が見出された時、その一人一人に仲間外れにされて行く樣に思はれてならなかつた。」遭難後一年、パーティー生き残りの橋本による追悼。
●追悼 倉林正尚
1936(昭和11年)入部、4年目のときコイカク沢で遭難した片山純吉氏の追悼。片山氏は津山の出身で、遭難死した清水、近藤、渡邊と同期。片山の二つ下の倉林が、恵迪寮時代の話などを記す。片山はあだ名でシャモと呼ばれた。「全く打解けた、外から見れば禮儀を辯へぬと言はれさうな仲間が在つた。其の各自も何等自覺した目的や理想を、何時も用意などはして居なかつた。其れは其の點に關して言へば穉兒の集ひと同然であつたらう。之が私達の間に生活せられた數年の月日であつた。無言の内に、決定的美を各々に認め合つて、何等の形式張つた事を必要とせず、常識を脱した或物から發する直觀によつて自然に結ばれた此の仲間に於いて、兄は好き中心であつた。そして私達は兄を『シヤモ』と呼んでゐた。」戦前の恵迪寮もまた、この雰囲気だった。山のみならず、里での楽しい思い出について触れられている。
●羽田君 新美長夫
1936(昭和11年)12月入部、4年目のときコイカク沢で遭難した羽田喜久男氏の追悼。あだ名は「二代目消耗」。「彼は二代目消耗と呼ばれてゐました。山嶽部に於いて消耗なる語の定義は『決して消耗ばかりしてゐる人の事ではなく、毎時もは消耗してゐる樣に見えながら、他の人々が消耗した樣な時に俄然素晴らしい馬力を出す人』でなければならないのです。」口数の少ない羽田氏と相手のことをあれこれ詮索しない新美氏。羽田が死んで初めて、たいした言葉も交わさずとも一番多く山をともにした相手であったことに気づく。「彼は自分の氣持を口に出しませんでした。又そんな事を何も書きませんでした。その事が彼の氣持を推察するのに物足りない事等でせうか。私は何の感想も書かれてゐない彼の山日記の記録こそ、本當に彼の氣持を傳へてゐると思ふのです。日時、天候、時間、それこそ、その日の空の樣子を、周圍の景色を、そして彼の姿を、顏色を、又彼の心持をも想像させて呉れるものなのです。」
●渡邉盛達君を憶ふ 鹽月陽一
1936(昭和11年)入部、4年目のときコイカク沢で遭難した渡邉盛達氏の追悼。「君を始めて知つたのは山嶽部の新入生歡迎會の夕べであつた。高い足駄を穿きマントを羽織つた紅顏の少年は今でもはつきり思ひ出される。」「又君は部に於いても級に於いても喧しい連中の一人だつた。」恵庭、漁岳の春の山行で、行動中のたくましさとテントに帰っての馬鹿話のうまさの転換振りを紹介している。また、製図が得意だった。「冬のペテガリ登攀にもテントのデザインを製圖して熱心に備品を研究してゐたのでもその一端を窺ひ知ることが出來る。」
年報
1938.5-1940.10
写真二点、スケッチ一点、地図五点
(解説前編/中編/後編)
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OBの山行記録・ 2008年1月20日 (日)

【年月日】2008年1月19、20日
【メンバ】清野啓介(76)、米山悟(84)、斉藤清克(87)
【ルート】雷電海岸の2ルンゼと1ルンゼ
上州沼田から出張でやって来て仕事をあっという間に終わらせたスーパーOBを迎え、雷電海岸でアイス合宿をした。卒業20年近くにしてもセンパイに先端技術を教えてもらえるなんて最高のクラブです。現場近くの雷電温泉ではごちそうもそこそこにひたすらヤスリがけの稽古。本日も吹雪で氷点下の北海道、キチガイ三勇士です。
雷電海岸はニセコの裏、数百メートルの岩壁に大きなルンゼが4本。氷柱氷瀑が連続ピッチで登れる。米山はアイスほとんど初めて。内地で最先端をやっている清野さんにイロハから教わる。米山、斉藤とも10年前の東京勤め時代には上越や北アルプスの数々の古典バリエーション沢、岩、雪稜ルートを導いて頂いた師匠である。3人一緒は今回が初めて。いつまでたっても追い抜き不能のセンパイである。
初日は長そうな滝を下ろしている2ルンゼを目指す。駐車場から20分ほどラッセルするともう取り付きで、下から見るとなんとかなりそうな傾斜だが取り付くと高度感が凄い。センパイの金言をまとめると、●派手にアックスふるな、ちょんちょん登れ。
●アックスを強く握るな。腕の骨にぶら下がる心持ちでいけ。重心を落としてモンキーハングだ。
●むやみに打ち込まず、弱点を探せ。
●濡れたワレメには、そっと刺せ。
●滝の抜け口では氷がない、強打するな。刃先がもったいない。
学生のころアイスのまねごとをやった時はまっすぐシャフトの普通のピッケルを握りしめてスコスコ登り、一挙に腕と指の筋力が無くなった。技術も進み、道具も進んだ。指導の賜物で今回は筋肉痛にもならなかった。2ルンゼのF1にトップロープを張り、真ん中、右、左(垂直氷柱)、と稽古する。F1には2ピッチ目があり、下から見ると行けそうなのに、取り付いてみると結構な傾斜があり、登り切ると結構な高度感がある。40m×2。
日が暮れるまで登りまくって、直ぐ近くの雷電温泉三浦旅館で積丹半島の明かりの見える露天風呂でゆらゆらして、ムチムチの刺身やハマ鍋といううまい鍋で食いシゴキ。いつもとはかなり違う山の夜を過ごす。しかし飲食を終えるとセンパイにアックスの磨き方を教わり、皆せっせと磨き始める。金言をまとめると、●先端下面の角度を付ける。
●先端上面の肩を落とし、両側から均等に刃を付けるように磨く(抜きやすくなる)。
●先端両側は真ん中が中心にくるように両側から磨く。滑らかにし、鎬(しのぎ)を作らない。
●美しく。
●ヤスリはニコルソンの中丸細目と中目
他にもアックスのリューシュ(手首バンド)の着脱可能金具の自作方法や、ロープマンを使ったセルフビレーロープの作り方など、実戦と工夫の果実をさまざま享受した。ごっつぁんです。

出来上がったアックスは正に別物。打撃ありの右手用とチョンチョン登りの左手用で研ぎの形も少し違う。スクリューハーケンにも丸ヤスリで磨きをかけ、一本刃アイゼンも磨く。買ったまんまじゃ全然ダメなのね。

翌日は1ルンゼ。4ピッチで、最初の滝は見かけ以上に長く、傾斜もあった。その後氷柱6mもあり、最後にも数メートルの滝がある。この日はすべて斉藤がトップ。日本海を見ながらのクライミングは最高だ。広い海の向こうから雪雲がカーテンのようにやってきて吹雪になり、突然青空が少し見えたりして、またいつしか吹雪に。海岸に寄せる波濤と波のはなのたゆたいは見ていて飽きない。海鳥になった気分だ。僕のような海無し県育ちには特に。

1ルンゼ4ピッチを完登し、50m3回の懸垂で降り、岩内→倶知安に出て、ラーメン屋「なかま」に入る。汽車に間に合うぎりぎりまで注文が来なくて気を揉んだが、かッ込んで汽車に乗る。千歳空港に向かうセンパイとはまた山で会う約束をして。今や特急の通らない函館本線は、雪降る暗い鉄路を長万部まで。長万部からは特急で函館まで。腕の筋肉痛はないが、指は痛めて内出血だ。アイスはこれがある。雪の函館本線は鉄道員を見ているだけで感無量だ。
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現役の報告・ 2008年1月17日 (木)
【年月日】2008年1月12日-14日(行動3ー停滞0)
【メンバ】L平塚(4 M田中宏(2
春二年班準山1回目
<時間とルート>
1日目 快晴 早ヶ瀬トンネル南口(6:50)→・762(8:00)→稜線(9:20〜40)→Co1280(12:00)=Ω1
国道を降りて・762の尾根に取り付く。尾根の下部はラッセルもあり急でごくい。ラッセルはすね位。稜線に出てから、時折気になる風が吹くようになる。・1251北の岩は十勝側のガレ部分を捲く。容易。風が強くなってきたので、Co1280の吹き溜まりでイグルー。稜線途中ではあったが、事前の天気予報が良かったことと残り日数が3日あったことから問題ないと判断。イグルーは雪が硬く、作成に時間がかかり3時間20分。
2日目 晴時々ガス Ω1(11:35)→トヨニ南峰(12:30)→
南峰東Co1440(12:35)=Ω2
依然風が強く、イグルー内で時間待ち。風が弱まった頃に出発。Co1350雪稜は問題なくノーザイルで通過。トヨニ南峰から少し東に下ろしてイグルー。作成に2時間30分かかった。
3日目 快晴 Ω2(6:40)→北峰(7:20)→ピリカ(10:10〜30)北峰(13:00)→
Ω2(13:30〜14:10)→二股(15:40)→早ヶ瀬トンネル北口(17:10)
快晴で風も穏やか。アイゼンでさくさく行く。所々細いが、問題ない。ピリカ直下は急。帰りはスノーシューが結構使えた。トヨニ東峰からぼちぼち木が出てくる。東峰から南東尾根を下って二股へ。二股から先は渡渉数回を経て国道直下まで。渡渉はできかけのSBや石の上をスノーシューで渡っていく感じ。スキーだったら大変そう。最後国道にあがるのは急登。早ヶ瀬トンネル北口の東側には国道に上がる梯子がある。
<パーティ>春メイン準山一回目
細い所、急な所、スノーシューワーク、イグルー作成できた
1日目 快晴 早ヶ瀬トンネル南口(6:50)→・762(8:00)→稜線(9:20〜40)→Co1280(12:00)=Ω1
国道を降りて・762の尾根に取り付く。尾根の下部はラッセルもあり急でごくい。ラッセルはすね位。稜線に出てから、時折気になる風が吹くようになる。・1251北の岩は十勝側のガレ部分を捲く。容易。風が強くなってきたので、Co1280の吹き溜まりでイグルー。稜線途中ではあったが、事前の天気予報が良かったことと残り日数が3日あったことから問題ないと判断。イグルーは雪が硬く、作成に時間がかかり3時間20分。
2日目 晴時々ガス Ω1(11:35)→トヨニ南峰(12:30)→
南峰東Co1440(12:35)=Ω2
依然風が強く、イグルー内で時間待ち。風が弱まった頃に出発。Co1350雪稜は問題なくノーザイルで通過。トヨニ南峰から少し東に下ろしてイグルー。作成に2時間30分かかった。
3日目 快晴 Ω2(6:40)→北峰(7:20)→ピリカ(10:10〜30)北峰(13:00)→
Ω2(13:30〜14:10)→二股(15:40)→早ヶ瀬トンネル北口(17:10)
快晴で風も穏やか。アイゼンでさくさく行く。所々細いが、問題ない。ピリカ直下は急。帰りはスノーシューが結構使えた。トヨニ東峰からぼちぼち木が出てくる。東峰から南東尾根を下って二股へ。二股から先は渡渉数回を経て国道直下まで。渡渉はできかけのSBや石の上をスノーシューで渡っていく感じ。スキーだったら大変そう。最後国道にあがるのは急登。早ヶ瀬トンネル北口の東側には国道に上がる梯子がある。
<パーティ>春メイン準山一回目
細い所、急な所、スノーシューワーク、イグルー作成できた
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現役の計画・ 2008年1月11日 (金)
2008年1 月12〜15日(3ー1)
L平塚(4 M田中宏(2
二年班春メイン準備山行1回目
L平塚(4 M田中宏(2
二年班春メイン準備山行1回目
1日目 野塚トンネル北口(2.5h)稜線(3.5h)トヨニ南峰付近=Ω1
国道からおりて・762の尾根を登って稜線まで。・1251北の岩稜は十勝側をまいたり上行ったり。Co1350付近細い雪稜。ザイル出すかも。トヨニピークより東に少しおろしてΩ1。
2日目 Ω1(4.5h)ピリカ(4h)Ω1=Ω2
・1338〜ピリカは細い所や急な登りが出てくる。ピーク直下は急。
3日目 Ω2(3h)国道
トヨニ南東尾根を下って国道へ。渡渉を数回する。
<進め方>
視界:1日目ののっこしは2-300、ピリカAt.は500以上で行く。
風:稜上ふらつかない程度の風で行く。
停滞1日。1日目に天気悪かった場合は稜線に出る前に泊まって翌日か翌々日にのっこしをかける。1日目にトヨニまで行ったらピリカAt.のための停滞。トヨニピークからは気合で全天で降りれる。最終日At.はしない。天場着15時、最終下山12時。
<パーティ>春メイン準備山行1回目
パーティ把握、細い所、急な所、イグルー、スノーシューワーク
L:Rf、セッピ・天気・Mなどの判断
M:体力、アイゼンワーク、口出し、諸動作
<装備>冬テン、ザイル9mm50m、無線、のこ、スノーソー、ストーブ、灯油120ml/人・日、でっかい茶食器(=鍋)、薬品、ラジオ天気図、ろうそく
他 EP・スノーシュー・ストック含む冬山個人装備
国道からおりて・762の尾根を登って稜線まで。・1251北の岩稜は十勝側をまいたり上行ったり。Co1350付近細い雪稜。ザイル出すかも。トヨニピークより東に少しおろしてΩ1。
2日目 Ω1(4.5h)ピリカ(4h)Ω1=Ω2
・1338〜ピリカは細い所や急な登りが出てくる。ピーク直下は急。
3日目 Ω2(3h)国道
トヨニ南東尾根を下って国道へ。渡渉を数回する。
<進め方>
視界:1日目ののっこしは2-300、ピリカAt.は500以上で行く。
風:稜上ふらつかない程度の風で行く。
停滞1日。1日目に天気悪かった場合は稜線に出る前に泊まって翌日か翌々日にのっこしをかける。1日目にトヨニまで行ったらピリカAt.のための停滞。トヨニピークからは気合で全天で降りれる。最終日At.はしない。天場着15時、最終下山12時。
<パーティ>春メイン準備山行1回目
パーティ把握、細い所、急な所、イグルー、スノーシューワーク
L:Rf、セッピ・天気・Mなどの判断
M:体力、アイゼンワーク、口出し、諸動作
<装備>冬テン、ザイル9mm50m、無線、のこ、スノーソー、ストーブ、灯油120ml/人・日、でっかい茶食器(=鍋)、薬品、ラジオ天気図、ろうそく
他 EP・スノーシュー・ストック含む冬山個人装備
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現役の報告・ 2008年1月11日 (金)
【年月日】2007年12/24〜12/31(行動6-停滞2)
【ルート】チトカニウシ〜浮島峠〜天塩岳
【メンバ】L:平塚(4 AL:澤田(4 M:小池 田中省 野沢(1
<時間とルート>
1日目 晴れ夕方から雪 北見峠(10:00)→Co.1050=C1(11:30)
北見峠から林道を使い電波塔まで。スキーに来た人のトレースがあってラッセルなし。電波塔は・950のポコにある。・950ポコ北コルから尾根上を行きCo1050付近の斜面でC1。スキーで遊ぶ。
2日目 雪時々晴れ C1(6:50)→チトカニ(8:00)→・1091(12:00)→林道の小屋=C2(13:50)
スキーでチトカニピークまで。視界は2-300ぐらい。上部少し硬いがスキーで行けた。チトカニはピーク周辺のみ白い。チトカニから先東-北側にセッピ。反対側のブッシュの中を行く。ずっとスキーで稜上を行き、時間があったので予定天場・972先コルをこえて林道まで。林道の小屋は・828付近。ただのトイレで、しかも閉まっていて中には入れない。
3日目 快晴 AL入れ替えstay C3=C4
AL(1)の澤田はここまでで、AL(2)の寺尾にここで入れ替え。澤田は10:30にC2を出て、10:50に浮島トンネル南口に出た。浮島トンネル南口は携帯の電波通じず。パーティは小屋付近でAL(2)の寺尾を待っていたが、一向に寺尾が現れない。昼過ぎにLが国道まで一人で偵察にいくも、車もトレースもなし。(C2発13:30→C2戻り14:30)交通事故説や寝坊説がささやかれる中、終日トランプをして過ごす。
4日目 雪 C5(9:50)→浮島(10:40)→浮島西Co900付近=C4(11:00)
朝飯を作っていたら寺尾ではなく澤田が登場。寺尾は病気でこれないので澤田が再びALとなり山行を続行することになった。浮島まで磁石切って行き、西に進めてC4。余った時間はスキーと焚き火。焚火はあまり快調ではなく、骨折り損だった。
5日目 雪 C4(6:50)→笠山分岐(9:10)→・1186尾根頭(12:00-20)→Co.1000=C5(12:40)
・1103周辺北に雪庇。Co.1200から木がなくなり台地上は白いがパヤパヤしている(カンバがちらほら)。笠山分岐付近は白い。視界は笠山分岐より手前では2-300あったが、笠山分岐ぐらいから100ぐらいになった。磁石使いつつ・1186頭まで。頭から尾根を下り、タンネがぼちぼち出てきたCo.1000付近でC5。翌日から南岸低気圧が襲ってくるというので、予定より少しおろしてタンネの陰を選んだ。Lがタンネの枝と雪ブロックを組み合わせた素晴らしい防風壁を作り、パーティ内からは「まるで万里の長城のようだ」という声も聞かれた。
6日目 雪風強し C5(5:30)→・1186尾根頭(6:00)→C5=C6(6:20) 天塩At.失敗stay
発達中の低気圧が接近中で、本格的に北海道を襲うのは昼ごろらしい。昼までに前面を利用して何とかAt.できるのではないかと、朝早めにラテルネ出発。しかし風が強く、尾根頭に出た時点で気になる風ぐらいはある。さすがにこんな中突っ込む気にはなれないので、すごすごと引き返す。トランプをして過ごす。M小池はひたすらエロ本を見てにやにやしていた。
7日目 晴れ後ガス後雪 C6(7:00)→・1186(7:30)→天塩ピーク(9:10-30)→C6=C7(11:00)
低気圧が抜けてそのまま冬型が決まるかと思いきや、一時天気は小康状態に入るとのこと。行ってみると穏やかな天気。C6から尾根頭まで上がり、稜上を天塩岳へ。天塩手前で風が強くなってきて直前で視界が悪くなる。天塩手前Co1500ぐらいでシーデポ、EP。帰りはガスガスで雪も降ってきたが、磁石とトレースを使いつつ帰る。夜は成功を祝って肉祭り、飯祭り。
8日目 雪後晴れ時々雪 C7(7:00)→尾根末端(8:00)→国道(11:00)
さくさく尾根を下って末端まで。不安定なスノーブリッジしかなく、木を掴みつつギリギリの渡渉。林道を歩いて下山。天幕橋へ向かう林道を行けばさっさと国道に出れたものを、先頭のALが「車回収の間、駅で待っていたい」と天幕駅へ向かう道に行ってしまう。このせいで国道に出るのが30分くらい遅れた。しかも天幕駅はなくなっていた。意味無し。国道でヒッチし車回収して下山。このあたりは無料高速道路ができたせいで交通量が減り、ヒッチしづらくなっていたので今後注意が必要だ。
*携帯電話(au)が通じたのは、C1と天塩ピーク。浮島付近は微妙に通じることもあった。
<パーティ>冬メイン1年班 無事貫徹!
Ls:特になし
M:全体的に諸動作が遅い / 生活技術や天気図は今回の山行で向上したと思う。今後も頑張って欲しい
<感想>
田中省:スキーに苦しんだがメイン初貫徹できて良かった。
小 池:道北のパウダースノーとエロ本『月刊パシャッ!』最高でした(でへへ)。
野 沢:天塩アタックの日、視界があって非常にきれいだった。
澤 田:1年班最後までできて良かった。珍しく休肝の日々だった。
平 塚:1年生の反応の薄さと澤田のつまらないギャグのせいで寒い日々だったけど、貫徹できてよかった。ほんと良かった。
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